手術前夜の不協和音
翌日、ユウジ先生はついに、葵に手術を受けさせるべきだという決断を下した。
公式の診断名は「原因不明の心腔内腫瘤」。
超音波検査で見つかったあの不気味な「根」を切除するため、彼女の胸骨を正中切開しなければならなかった。
「これは極めてリスクの高い手術だ、アスナ。彼女の容態はあまりにも不安定すぎる」
ユウジ先生は、診察室で私にそう警告した。
「先生、手術をお願いします。どうか、あの異物を彼女の心臓から引きずり出してください」
私は、残されたわずかな正気をかき集めるようにして懇願した。
私はメスを信じている。医療テクノロジーを信じている。
あの「根」を物理的にこの目で捉えさえすれば、それを切り離して、このすべての狂気に終止符を打てると確信していた。
しかし、その時の私はまだ気づいていなかった。
その手術が救いなどではなく、より巨大な悲劇の幕開けとなるゲートに過ぎないことに。
手術を明日に控えた夜、私は葵の額にそっと唇を寄せた。
彼女は明日の手術に備え、すでに鎮静剤を投与されていた。
静まり返った病室には、モニターが刻む微弱な心拍の電子音だけが虚しく響いていた。
私は彼女の耳元で、静かに囁きかけた。
「明日、すべてが終わるわ。そうしたらアパートに戻って、あなたはまた本を書き始め
るの。私は二人のために、とびきり豪華なディナーを用意するから」
デスクライトの薄暗い光の下、葵の閉じた目から一滴の涙が静かに頬を伝い落ちるのが見えた。
そして病室の窓ガラスには、あの背の高い黒い影が私に向かって手を振っている姿が映り込んでいた。
それはまるで、葵に別れを告げているようでもあり、あるいは私を歓迎しているようでもあった。
サクラ病棟の夜は、いつも以上に長く感じられた。
医学生である私は、看護師たちの規則正しいルーティン――点滴を確認し、バイタルを記録し、次の患者の元へと向かう動きに慣れ親しんでいた。
しかし、葵が静養しているこの病棟の、その夜のリズムは……何かが決定的に狂っていた。
混沌とした心拍を安定させるための軽い鎮静剤によって、葵は深い眠りに落ちていた。
その静寂を破るように、病室の扉が音もなくゆっくりと開いた。
一人の看護師が入ってきた。
彼女は汚れ一つない白い制服を身にまとっていたが、私の本能が瞬時にただならぬ警告を発した。
彼女は名札をつけておらず、医療用マスクを異様なほど高く引き上げ、その両目を覆い隠さんばかりだった。
私は面会用の椅子から、その姿をじっと凝視した。
彼女は薬を載せたトレイも、血圧計も持っていなかった。
ただ葵のベッドの脇に立ち、EKG(心電図)モニターを、不気味なほど長い時間見つめ続けていた。
「看護師さん? 今の時間に、何か定時の検温か何かですか?」
私はその異様な静寂を切り裂くように、声をかけた。
看護師は振り返らなかった。
その動きは酷くぎこちなく、まるで精巧なロボットのようだった。
ラテックスの手袋に包まれた彼女の手が、ゆっくりと葵の点滴のチューブへと伸びていく。
私はその指先が微かに震えているのを目撃した。
それは緊張による手震えなどではなく、まるで精密な機械が発する高周波の駆動音のような震えだった。
「液の流路を確認しているだけです」
その声は極限まで平坦で、まるで乾燥しきった喉の奥から無理やり押し出されたかのように響いた。
私は立ち上がり、彼女が何をしようとしているのかを確かめるために近づいた。
その瞬間、彼女の手にある一本の小さな薬瓶が目に入った。
ラベルは一切貼られておらず、中にはドロリとした不透明な「白い液体」が満ちていた。
彼女はその液体を、葵の点滴の注入ポートから注射しようとしていた。
「待って! それ、何の薬!?」
私は咄嗟に彼女の手首を掴んだ。
しかし、私の手が彼女の制服の袖に触れた瞬間、私は反射的に手を引っ込めた。
その腕は異様なほどに硬く、凍りついていた。
布地の裏側にあるのは、人間の柔らかな肉などではなく、凍結した金属か木幹のようだった。
看護師が、ゆっくりと私の方を向いた。
マスクと帽子の隙間から覗くその双眸には、生命の光が一切宿っていなかった。
瞳孔は極端に小さく収縮し、その周囲は不自然なほど濁った色に覆われていた。
「これは、彼女が予定より早く目を覚まさないようにするためのものです」
彼女は低く囁いた。
「ユウジ先生は今夜、追加の鎮静剤なんて処方していません」
私はクリニカル・クラークシップ(臨床実習)中の医学生としての立場を以て、毅然と言い放った。
「すぐにこの部屋から出て行ってください。私はナースステーションで直接確認してきます」
看護師は何一つ反論することなく、静かに手を引いた。
彼女はその小さな薬瓶をポケットに隠すと、完全に無音の足取りで歩き去っていった。
大理石の床との間に、靴の擦れる音さえ一切聞こえないほどの静けさだった。
決定的な異常を感じた私は、廊下の突き当たりにあるナースステーションへと急いだ。
先ほど私を助けてくれた、当直長のアヤネ看護師にこの不審な人物を通報するためだ。
しかし、ナースステーションに到着したとき、そこには誰もいなかった。
デスクの上の蛍光灯が、チカチカと不気味に明滅している。
私はホワイトボードに記された夜勤の勤務表を確認した。
今夜の担当は、アヤネ看護師と、天野という看護師の二人だけだった。
「アヤネさん?」
私が呼ぶと、アヤネ看護師が仮眠室からひどく疲れた顔で姿を現した。
「ええ、アスナさん? 葵さんの部屋で何かあった?」
「たった今、病室に見知らぬ看護師が入ってきたんです。名札もつけず、マスクを異様に高く引き上げて。彼女、葵の点滴に何かを注射しようとしたんです」
私は早口で事の顛末を説明した。
アヤネ看護師は完全に困惑した表情を浮かべた。
「アスナさん、ここ一時間、この病棟には私と天野しかいないわよ。天野はさっき酸素
ボンベの補充を回収しに地下へ降りたわ。私は十日ほど仮眠をとって、今起きたばかり。今夜のサクラ病棟に、他の看護師が配置される予定なんてないわ」
私の全身の血液が、一瞬で凍りついた。
「でも、私は確かに彼女と言葉を交わしたんです。彼女は今、402号室から出て行きました」
アヤネ看護師は、私の背後に広がる静まり返った廊下を見つめた。
「おそらく……少し疲れが出ているのよ、アスナさん」
「私にも経験があるわ。二週間ほとんど睡眠が取れなかった時、看病疲れによる幻覚は、医療従事者であっても本当に起こり得るのよ。私自身がそうだったようにね」
その言葉を背に受けながら、私は激しく鼓動する胸を押さえて葵の病室へと戻った。
私はすぐに点滴のチューブを入念に点検した。
新しい穿刺の痕跡はどこにも残されていなかった。
しかし、あの看護師が立っていたまさにその床の上に、私は「それ」を見つけた。
一枚の、瑞々しい薔薇の花びら。
――しかし、その色は漆黒だった。
その濃厚な芳香は、冷え切った病室の空気を完全に満たしていた。
私は吐き気を催しながら、ティッシュでその黒い花びらを拾い上げた。
脳内の医学的論理が、必死に合理的な説明を探そうと駆動する。
アヤネ看護師が勤務表を見間違えただけかもしれない。
あるいは、別の病棟の看護師が迷い込んだだけかもしれない。
しかし、私の心はその「真実」をすでに知っていた。
あの看護師は、人間ではない。
彼女は、以前に現れたあの黒い影と同じように、葵を付け狙う怪異の一部なのだ。
私の恋人の心臓へと近づくために、今や白衣を纏って医療従事者に擬態するほどの大胆さを見せ始めている。
「絶対に、あなたたちに彼女を触らせはしない」
私は再び葵の隣に腰掛け、その手を強く握りしめた。
私は思い知らされていた。この病院において、脅威は葵の体内にある病魔だけではないことを。
この白衣を身にまとい、無音の足取りで静かな廊下を行き交う「それ以外」の存在こそが、真の恐怖なのだと。
「私が守るから」
私は静かに呟いた。
ふと窓ガラスを見ると、廊下の灯りの反射の中に、彼女がいた。
あの名もなき看護師が、病室のドアのガラス窓の向こう側に佇み、その濁った虚ろな目で私をじっと見つめていた。
その姿を目にした私は、正面から立ち向かうための勇気を振り絞った。
しかし、私がほんの数歩踏み出した瞬間、彼女の姿はかき消えるように消滅した。
私はすぐさまドアを開けて追いかけたが、彼女は完全に虚空へと連れ去られた後だった。
幻覚なんかじゃない。これは、現実だ。
その時、私は直感した。この事態を、私一人だけで乗り切ることは不可能だ、と。
葵と私のそばに、誰かもう一人の存在が必要だった。葵の学友か、あるいは私の信頼できる仲間の力が。
私は病室に戻り、葵の隣に腰掛けた。
かつて学校の校舎で交わした誓いの記憶が蘇る。彼女の唇に触れた、あの甘い感触が今も鮮明に残っていた。
今回ばかりは、一人で葵を守り抜くことはできない。
私は明日の葵の手術が始まる前に、同じく臨床実習に就いている一人の信頼できる同級生に、救いを求める連絡を入れることを決意した。




