病室の影
消毒液の匂いは、医学生にとって最も親しみのある香りだ。
普段なら、その匂いは私の中に情熱と野心を呼び起こす。
しかし今夜、明るく照らされた救急外来の廊下に立つ私にとって、その香りは首を絞めつけて命を奪おうとする冷たい手のようだった。
葵はストレッチャーの上に横たわり、その華奢な体に何本ものモニターのコードを繋がれていた。
看護師たちが慌ただしく動き、点滴や酸素マスクを装着していく。
私は部屋の隅で呆然と立ち尽くしていた。
手はまだ震えており、爪の間には乾きかけた黒い液体の残滓がこびりついたままだ。
「アスナ? あなた、ここでクリニカル・クラークシップ(臨床実習)中だったわね」
ユウジ先生の声が、私の思考を引き戻した。
彼は循環器内科のシニア専門医であり、私の教官でもあった。
私は硬直したまま頷いた。
「はい、先生。患者は……私の恋人です」
ユウジ先生は気の毒そうに私を見つめたが、すぐに視線を葵のバイタルを示すEKG(心電図)モニターへと戻した。
彼の眉が深くひそめられる。画面の緑色の線は、極めて奇妙なパターンで上下に動いていた。
どんな医学書でも見たことのないリズムだった。
「心室頻拍(VT)? 細動のようにも見えるが、振幅が高すぎるな」
ユウジ先生がつぶやく。
「それに、これを見てくれ。心拍数がこれほど速いのに、なぜ血圧がここまで急激に低下しているんだ?」
私は眼鏡のレンズ越しに画面を確認しようと、一歩近づいた。
理論上、心臓の鼓動が速すぎると、血液が心室に充填される十分な時間がなくなるため、血圧が低下する。
それが医学的に筋の通った説明だ。
しかし、モニターが示していないものがそこにはあった。
規則的な電子音の合間に、私は別の音が聞こえていた。葵の胸の奥深くから響いてくるような、かすかな囁き声が。
葵は、病院の主棟よりも少し静かだが、遥かに古い歴史を感じさせるパビリオン「サクラ病棟」へと移された。
ひとまずの診断名は、原因不明の「急性特発性心不全」だった
。その夜の間、私は彼女のベッドの脇から一歩も動かなかった。
私は自分の医療ノートを持ち込み、彼女の状態の変化をすべて記録しようと試みていた。
ただ泣くだけの恋人ではなく、彼女のための医者でありたかった。
「アスナ……」酸素マスクの向こうから、葵のひどく衰弱した声が聞こえた。「今はあまり喋らないで」
私は彼女の冷たい手を握り締めながら言った。
病院内は空調が効いていたが、葵の体の冷たさはそれとは異質だった。
それは、私の手のひらから体温を直接吸い尽くしていくような冷気だった。
「この病院、白すぎるわ...」
葵は疲れた目で天井を見つめ、静かに呟いた。
「この点滴の液で、私の色を消そうとしているみたい」
胸が締めつけられるのを感じながらも、私は無理に笑顔を作った。
「みんな、あなたの心臓を元に戻そうと頑張ってくれているのよ、葵。明日はユウジ先生が心エコー(超音波検査)をしてくれるわ。何が起きているか突き止めましょう」
葵はただ、私が知らない何かを知っているかのような笑みを浮かべた。
葵はただ、私が知らない何かを知っているかのような笑みを浮かべた。
それから目を閉じ、ひどく疲れ切った様子で眠りに落ちていった。
しかし翌朝、混沌が始まった。
ユウジ先生がシニア医師のチームを率いて、葵の回診にやってきた。
私は彼らの後ろに立ち、次第に困惑の色を帯びていく医学的ディスカッションに耳を傾けていた。
「胸部レントゲンは綺麗だ。心拡大(心肥大)は見られない」
研修医の一人が言った。
「しかし、この血液検査の結果は奇妙です。ヘモグロビンは正常なのに、末梢組織の酸素飽和度が極端に低い。まるで、血液は存在するのに、その血液が酸素を運んでいないかのようです」
「それから、これは何だ?」
ユウジ先生が、心臓超音波検査(ECHO)のプリントアウトを指差した。
「左心室を見てくれ。内部で動く暗い影がある。これは血栓(血の塊)じゃない。形がまるで...髪の毛? あるいは根っこのように見える」
医師たちは互いに顔を見合わせた。
彼らは、稀な寄生虫、全身性の真菌感染症、あるいは未発見の自己免疫疾患にいたるまで、あらゆる可能性を議論し始めた。
「アスナ、彼女は最近、辺境の地へ旅行に行ったり、珍しいものを口にしたりしなかったか?」
ユウジ先生が尋ねた。
私は首を横に振った。「いいえ、先生。彼女はアパートを出ることも滅多にありませんでした」
私は知っていた。超音波画像に写ったあの「根」が、寄生虫などではないことを。
それは、以前私が目撃したあの黒い影が具現化したものだった。
しかし、どうして彼らに話せるだろうか。
もし私が影や囁き声について口にすれば、ストレスで理性を失ったと見なされ、葵のそばで看護を続けることさえ許されなくなるだろう。
病院での二日目の夜は、さらに恐ろしいものとなった。
葵が再び呼吸困難に陥ったのだ。
しかし今回は、何かが決定的に違っていた。
当直だった中年女性のモーラ看護師が、突然、顔を青白くして葵の病室から飛び出してきた。
「どうしたんですか、看護師さん?」廊下ですれ違いざまに私は尋ねた。「402号室の患者さん...一体、誰と話しているの……?」
モーラ看護師はガタガタと震えていた。
「点滴のバッグを交換しようとしたら、あの部屋の温度が急に下がって、ボトルが霜で真っ黒に凍りついたのよ。それに、ベッドの後ろに背の高い影が見えたの...!」
私は凍りついた。
恐怖が現実のものとなり始めていた。
超自然的な怪異が、もはや医学的な説明の裏に隠れようとしなくなっている。
私は葵の病室へと急行した。
部屋は確かに凍りついており、廊下よりも遥かに寒冷だった。
葵はベッドの上にまっすぐ座り、目を大きく見開いていたが、その視線はうつろだった。
酸素マスクは外されていた。
「葵! マスクをつけ直して!」
私はパニックになり、マスクを装着しようとした。
彼女は私の手を優しく拒んだ。
そして、病室の暗い隅を指差した。
「あの人が言ってたわ。白は私に似合わないって、アスナ。彼は私に暗い赤を身につけてほしいの。流れを止めた血の色をね」
その角に、私はまたそれを見た。
顔のない、背の高い黒い不気味な存在。
今回は、その姿がよりはっきりと視認できた。
長い手が壁を這うように伸び、その後ろに薄い霜の跡を残していく。
その影は、まるで何かを待っているかのようだった。
「出て行って!」
私は声を引き攣らせて叫んだ。
「私が手術をするわ! 彼女の心臓の中にあるものを、何だって引きずり出してやる!」
影は動かなかったが、私の脳内に虚無的な嘲笑が響き渡るのを感じた。
葵が突然激しく咳き込み、再び黒い液体が吐き出され、まだ新しかった病院の白いシーツを汚した。
その瞬間、あの黒い影は忽然と姿を消した。私は葵の吐瀉物をきれいに拭き取り、彼女を再び横たわらせた。
葵を一人にしておくのはあまりにも危険だ、と私は確信していた。
大学の課題は山積していたが、私は今夜この部屋に留まることを決意した。
自分の荷物をすべて、葵の病室へと持ち込むために。




