恐ろしい旅の始まり
第4話をお読みいただき、ありがとうございます。ここから物語の雰囲気が少しずつ変わり始めます。次の章からは、よりダークで緊迫した展開が待っています。多くの医療知識が絡み合い、予想外のどんでん返し(プロットツイスト)も用意されています。二人の運命がどこへ向かうのか、これからの展開もどうぞお楽しみに!
大学生活への移行は、荒々しいものだった。
高校時代は、まだ授業中に現実逃避をする余裕があった。
しかし、医学部での時間は、息の詰まるような実験や実習のスケジュールに支配されていた。
私は午前中を解剖学研究室で過ごし、鼻を突くホルマリンの強烈な臭いに囲まれていた。
一方、葵はキャンパスの反対側で、文学や哲学の議論に没頭していた。
「アスナ、また遅刻ね」
ある日の夕方、大学の正門で葵が声をかけてきた。
彼女は木の下に立っており、その周囲には黄色い花びらが舞い落ちていた。
痩せた体に少し大きすぎる紺色のカーディガンを着た彼女は、しわくちゃの白衣を着たままの私とは対照的だった。
彼女は明るい笑顔を浮かべたが、私は何かが違うことに気づいた。
夕暮れの光の中で、葵の肌はいつも以上に青白く、まるで蝋細工のようだった。
「病理学の教授が、今日の課題を出しすぎたの」
私はそう答えて、彼女の手を握った。
冷たい。
いつものことだが、彼女の手が本当に温まることはなかった。
「そっちはどうだった?」
「最高よ! 生と死の境界についての詩を分析し終えたところなの」
彼女はそう言って歩き始めた。
「でも、アスナ……今日、急に気温が下がったと思わない?」
私は眉をひそめた。
正門にあるデジタル温度計は、29度を示している。
「疲れているだけよ、葵。貧血があると、暑い日でも寒気を感じることがあるから」
葵はただ小さく笑った。
その声は澄んだ鈴の音のようだったが、どこか遠い場所から響いているようにも聞こえた。
「あなたの科学は、いつも退屈な答えを用意しているのね」
大学に入学したとき、私たちは4階建ての小さなアパートで一緒に暮らすことを決めた。
私たちの部屋の、左側の机には、私の医学書が冷たく硬い束となって積み上がっていた。
事実という重みを伴って。
右側の机には、葵の原稿や文学書が散らかっていた。
温かく、想像力に満ちて。
私たちの日常生活は、まるでおいしい夢のようだった。
彼女は毎朝、濃いコーヒーを淹れてくれた。
そして私は毎晩、彼女の血圧を測った。
最初は嫌がっていたものの、私の安心のために彼女が受け入れてくれた儀式だった。
「いつも血圧が低すぎるわ、葵。もっとタンパク質と鉄分を摂らないと」
私は聴診器を外しながら言った。
「私はただ、ここにあなたが必要なの、お医者様」
彼女は囁き、私を抱きしめた。
このような瞬間が、私の酸素だった。
私は彼女の香りを吸い込んだ。
なぜか、その香りは枯れかけたジャスミンのように匂い始めていた。
彼女が眠っているとき、私はよく彼女の胸に耳を押し当てた。
彼女の、嘘のない心臓のリズムを聴きたかった。
しかし、その鼓動は不規則であることが多かった。
時に速すぎ、時に一瞬だけ完全に消え去る。それは永遠のようにも感じられた。
呼吸性不整脈ね、と私は心の中で思った。ストレスを抱えた若者にはよくあることだ。
私はその医学的な説明で自分を落ち着かせた。彼女の鼓動を聴くたびに、なぜか鳥肌が立つという事実から目を背けようとしていた。
その異変が始まったのは、同居を始めて3ヶ月目のことだった。
最初は、ただの気のせいだと思った。
ある夜、デスクライトの薄暗い光の下で心臓の解剖学を勉強していたとき、窓に映る影が目に入った。
リビングの隅に、背の高い何かが立っているのが見えた。
その影は動かず、ただ硬直した黒いシルエットのようだった。
私は息を呑んで振り返った。
誰もいない。
そこには葵の本棚と、枯れかけたヤシの観葉植物があるだけだった。
「アスナ? どうしたの?」
葵がソファから目を覚ました。目はまだ眠そうだった。
「そこに……影が見えたの」
私は激しく鼓動する胸を押さえながら言った。
葵はその角を静かに見つめ、それから薄く微笑んだ。
「外の木の影が、街灯に照らされているだけよ。それか、血管のことばかり読みすぎて目が疲れているのね」
乱視ね、と私は自分に言い聞かせた。新しい眼鏡が必要かもしれない。
外からの光は、疲労した眼球のレンズに錯覚を引き起こしやすい。筋は通っている。医学的にも、十分にあり得る話だ。
しかし数日後、それは再び起こった。
今度は浴室の中だった。
顔を洗っているとき、鏡の中に青白い手が見えた。まるで私の肩に触れようとしているかのようだった。
私は勢いよく振り返った。そこには誰もいなかった。
深呼吸をして、鏡に映る自分の顔を見つめた。
私の顔は青白かった。睡眠不足、それが私の下した診断だった。
睡眠不足は、軽度の幻視を引き起こすことがある。
もっと水を飲んで、睡眠のスケジュールを改善しなければならない。
私は医者の卵なのだから、自制心を失ってはいけない。
4学期目に入ると、アパートの雰囲気が変わった。
葵は、かつての溢れるような明るさを失い始めていた。
彼女はバルコニーで静かに過ごすことが増え、うつろな目で夜空を見つめていた。
彼女の体から漂う菊花のような香りは、次第に濃厚な薔薇の香りへと変わっていった。
「香水を変えたの?」
私が尋ねると、葵は振り返った。
その顔は以前よりやつれていた。
「変えてないわ。どうして? 変な匂いがする?」
「変な匂いじゃないわ、ただ……嗅ぎ慣れない匂いだから」
私は彼女の首のリンパ節を調べようとした。体臭の変化(臭汗症)を引き起こすような、全身性の感染症を恐れたからだ。
しかし、すべては正常だった。
それから、咳が始まった。
最初は、ただの乾いた咳だった。
私は彼女に市販の咳止め薬を飲ませたが、効果はなかった。
ある夜、私の試験の満点を祝って夕食を食べていたとき、葵が激しく咳き込み、ハンカチで口を押さえた。
彼女がその布を引いたとき、私は目を見開いた。
黒い液体が飛び散っていた。通常の血液のような赤ではなく、どろりとした漆黒の液体だった。
「葵、それ吐血(吐血)? それとも咯血(咯血)!?」
私はパニックになり、すぐに彼女の手を掴んだ。
「ただのインクよ、アスナ」
彼女はかすれた声で冗談を言い、ハンカチを隠そうとした。
「詩を書きすぎちゃって……言葉が溢れ出てきたのね」
「冗談を言わないで! 病院に行かなきゃ!」
葵は私の手を強く握りしめた。
いつもは輝いている彼女の瞳が、今はひどく疲れているように見えた。
「アスナ、聞いて。病院に行ったら、彼らは私をただのデータの塊としてしか見ないわ。
私はあなたに、私を『葵』として見ていてほしいの。お願いだから、まだ連れて行かないで」
そんな彼女の姿を見て、私はすぐに折れてしまった。しかし、私の恐怖は現実のものとなった。
その週の終わりに、最悪の事態が起きた。
葵がコップの水を吸おうとしたとき、アパートの真ん中で倒れたのだ。
彼女の体が床に叩きつけられる音が、私には死の鐘の音のように聞こえた。
私は彼女の元へ駆け寄り、緊急処置を行った。
しかし、彼女の心音を聴くために胸に耳を当てた瞬間、私の論理は粉々に砕け散った。
その内側から、僧帽弁や三尖弁が閉じる音は聞こえなかった。声が聞こえた。
何百もの声が、私の名前を囁いていた。そして視界の隅に、あの黒いシルエットが再び現れた。
今度は窓ではない。その影は、私たちのベッドのすぐ横に立っていた。その長い手をゆっくりと伸ばし、葵の顔を撫でようとしているかのようだった。
もう、これを医学的に説明することはできなかった。
これほどまでにリアルな空気の重みを持つ影に対する診断名など、存在しない。
「救急車!」
私はスマートフォンを掴みながら叫んだ。
その夜、サイレンが鳴り響く中、葵は大学附属病院へと搬送された。
私は彼女の隣に座り、今や蝋のように白い恋人の顔を見つめていた。
そして、私の論理的な世界と、超自然的な世界との間のゲートが、正式に開いたことを確信した。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。アスナの信じる医学の世界と、葵の周りで起きる怪異。医療ホラーとしての本番は、ここから幕を開けます。もし「この先の展開が気になる!」「面白い!」と思っていただけましたら、画面下部からブックマークや評価(☆☆☆☆☆)での応援をよろしくお願いいたします。皆様の応援が、執筆の大きな励みになります!




