↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
15/19

廃ビルと歪んだ温もり(後編)

私は弾かれたように振り返った。


その音は、倉庫の奥にある暗黒の廊下から響いていた。


あおいの身体が瞬時に硬直する。


天井で明滅していた赤色の非常灯が、一つ、また一つと音を立てて消灯していった。


完全な暗闇が、部屋を飲み込み始める。


その時、一筋の光が浮かび上がった。


それは懐中電灯の光のようだった。


廊下の突き当たり、壁の影から「手」だけが姿を現していた。


懐中電灯を握った、あの不気味なほど蒼白い手。


放たれた光の束がゆっくりと動き、倉庫の床を不規則に這い回る。


すると、二本目の手が出現した。


続いて三本目の手。


そして、その数は異常な速度で増殖していく。


暗闇の廊下から何十本もの手が突き出され、それぞれが小さな懐中電灯を握り、狂ったように光を巡らせていた。

「葵...」私は低く囁いた。


あらゆる方角から、無数の足音が響き渡り始める。


コツン。

コツン。

コツン。


まるで何十人もの人間が、それぞれ異なる不協和音の歩調で歩いているかのようだった。


放たれた光の束が、今や広大な倉庫全体を白白と照らし出していく。


突如、一筋の光が、私たちが身を隠している場所のわずか数メートル手前でぴたりと止まった。


コンクリート壁の端を、あの蒼白い指先が鷲掴みにする瞬間が見えた。


そしてゆっくりと、その手が影から這い出てくる。


葵は私の腕を、壊れんばかりに強く握りしめた。


彼女の身体が激しく震えているのが伝わってくる。


みしり...。


鉄骨の擦れる音が響き、光の束の一つが、正確に私たちを捉えた。

「しまっ...!」


私は葵の手を掴み、遮二無二走り出した。


背後で、何十もの光の束が激しく躍動する。


建物全体に、無数の足音がワンワンと鳴り響いた。


私たちは狭い通路を駆け抜け、放置された鉄屑や機械の山に身体をぶつけながら進んだ。

「葵、左よ!」


私は二階へと続く鉄製の階段へと飛び込んだ。


私たちが駆け上がるたび、階段がギィギィと甲高い悲鳴を上げる。


階下では、不気味な懐中電灯の光が床一面を埋め尽くそうとしていた。


私は一瞬だけ、背後を振り返った。


あの亡者たちが暗闇の中に立ち並び、自らの顎の下から懐中電灯を照らし出していた。


私はさらに速度を上げた。


私たちは二階の古びた事務室へと滑り込み、すぐさま大破したデスクの下へと身を隠した。


廊下の外を、激しい足音が埋め尽くしていく。


コツン。

コツン。

コツン。


ドアの隙間から、懐中電灯の光線が室内を執拗に走る。


私たちはただ息を潜め、隠れ家のすぐ横をゆっくりと通り過ぎていく足音を、絶望的な沈黙の中で聴き続けていた。


やがて、あたりは再び静寂に包まれた。


私は乱れた呼吸を整えようと必死に息を吸い、それからゆっくりと顔を上げた。


その瞬間、部屋の隅にある「それ」が目に入った小さな、赤い光。


それは、CCTV(防犯カメラ)だった。


私はゆっくりと室内を見渡した。


二台目のカメラ、そしてドアの近くにもう一台。


そのすべてが、私たちが今まさに隠れているこのデスクの下へと、正確にレンズを向けていた。


部屋の隅で怪しく光るあの小さな赤灯から、私は視線を逸らすことができなかった。


古い防犯カメラ。


全てのカメラが、私たちの潜伏場所を真っ直ぐに監視していた。

「どうして……こんな場所にカメラがあるの……?」


この倉庫は、とっくの昔に放棄された廃墟のはずだ。


それなのに、あのカメラたちは現に作動している。


一体いつから、誰が、私たちのことを見つめ続けていたのだろうか。


葵は私の白衣の裾を、ちぎれんばかりに強く握りしめた。


光線が再びドアを透過した瞬間、私はさらに身体を丸めて平伏した。


階下からは未だに、目的を失った死者が彷徨い歩くかのような、重々しい足音が響き続けている。


ピッ、

ピッ、

ピッ。


私は必死に思考を巡らせた。


このままここに留まれば、遅かれ早かれ確実に発見される。


しかし、正面の階段から降りることは、自ら死地に飛び込むようなものだった。


部屋の側面に目を走らせると、書類棚の陰に半ば隠された、小さな鉄扉を見つけた。


それはおそらく、配管メンテナンス用の管理通路サービス・トンネルだ。


私は静かに近づき、その扉を押し開けた。


狭い暗黒の通路が、建物の反対側へと真っ直ぐに伸びていた。

「葵」私は低く囁いた。 「裏手から回り込むわよ」


私たちは無音の足取りで、管理通路の中へと侵入した。


自分の足音が一歩一歩、異様なほど大きく周囲に響く。


背後から迫るいかなる怪異の足音をも聞き逃すまいと、私は呼吸を止めて耳を澄ませた。


時折、通気口の隙間から懐中電灯の光がチカチカと漏れてくる。


奴らはまだ、私たちを執拗に狩ろうとしているのだ。


通路は幾度か折れ曲がり、やがて建物のさらに深い、光の一切届かない暗黒の区画へと私たちを導いた。


その時、私にある企てが閃いた。

「奴らに、私たちがまだ二階にいると錯覚させるのよ」


私は足元に転がっていた小さな鉄の棒を拾い上げ、通路の突き当たりにある鉄製の手すりに向かって全力で投げつけた。


ガシャーーーン!!!


金属の破砕音が、建物全体に激しく反響した。


数秒の後、その音の発生源に向かって、狂ったように駆け出す激しい足音が聞こえていた。


何十もの懐中電灯の光線が、一斉に私たちの位置から遠ざかっていく。


私は葵の手を、強く握りしめた。

「今よ」


私たちは一気に闇の部屋を駆け抜けた。


遥か彼方から、奴らの歪んだ声が響いてくる。

『アスナ……』

『上だ……』

『二人を出してはならない……』


しかし、奴らは完全に逆の方角へと動いていた。


私たちは誰の目に触れることもなく、建物の内部を完全に回り込むことに成功したのだ。


裏手の廊下の突き当たりに、一枚の鉄製の非常口のドアが、微かに開いているのが見えた。


私はゆっくりと、その重い扉を押し開けた。


ギィ……。


私たちは建物の外へと脱出した。


そこは、うっそうと生い茂る雑草と、錆びついた放置車両が無残に転がる裏庭だった。


私は振り返った。


私たちは、生き延びたのだ。


私はたまらず安堵の息を漏らしそうになった。


その瞬間、私は「それ」を目撃した。


有刺鉄線のフェンスの傍らに、一人の人物が直立して佇んでいた。


彼女の長い純白のドレスが、夜風に吹かれて美しく揺れている。


葵が私の隣でピタリと足を止めた。


その女性は、近づいてこようとはしなかった。ただそこに立ち、私たちの方を静かに見つめていた。


私は葵の手を、さらに強く握りしめた。


「お願い……もうやめて。私はもう、走るのに疲れ果ててしまったの……」私は掠れた声で静かに呟いた。


しかし奇妙なことに、その白いドレスの女性は、一切身動きをしなかった。


彼女は、これまでに出会ってきたあの凄惨な亡者たちの群れとは、決定的に何かが異なっていた。


私は気づけば、吸い寄せられるようにして一歩前へと踏み出していた。

「お願い……」私の声が激しく震える。 「私たちを、行かせて……」


女性は沈黙を守り続けた。

「私たちはただ、逃げ出したいだけなの。だからお願い、私たちの邪魔をしないで……」


数秒の時間が、まるで永遠の刑罰のように長く感じられた。


やがてゆっくりと、その女性が動き出した。

しかし、彼女は襲いかかってくることはなかった。


彼女はただ自らの片手をゆっくりと持ち上げ、フェンスの一部が大きく切り開かれた、外へと続く脱出口の方向を指し示したのだ。


一瞬、どういうわけか、その顔のない彼女の佇まいが……酷く「哀しそう」に見えた。


私はしばらくの間、その姿をじっと見つめ続けた。


そしてゆっくりと、私は小さく頭を下げた。

「……ありがとう」


女性は答えなかった。


彼女はただそこに、静かに、微動だにせず佇み続けていた。


その姿を背に受けながら私と葵は脱出口へと向かってゆっくりと後退していった。


十分に距離が離れたころ、私は最後にもう一度だけ振り返った。


そこには、もう誰もいなかった。白いドレスの女性は、すでに虚空へと消滅していた。

いつも作品を応援していただき、ありがとうございます。


今回は諸事情(ネットワークの不具合など)により、エピソードの投稿が遅れてしまいましたことを深くお詫び申し上げます。


お待たせいたしましたが、最後まで楽しんで読んでいただければ幸いです。


感想やコメントもぜひお待ちしております!後編もどうぞお楽しみに!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。