廃ビルと歪んだ温もり(前編)
その放置された建造物は、おそらくかつては何かの工業倉庫だったのだろう。
コンクリートの壁面は黒カビに覆われ、一部が崩落した天井からは錆びついた鉄骨が不気味に垂れ下がっていた。
室内には、湿った空気と強烈な鉄錆の臭いが充満している。
私は一本のコンクリート柱に背を預けて座り、震える手で医療鞄を開いた。
叔父の家で窓ガラスを砕いた際、手のひらを切った傷口から、未だに血液が滲んでいた。
張り詰めた緊張が解けた今になって、ようやく焼けるような激痛が現実味を帯びて襲ってきた。
葵は私の正面に腰掛け、完全に疲弊しきった様子で座っていた。
「葵、こっちへ来て」私は低く囁いた。
私は鞄から消毒液とガーゼを取り出し、まずは自分の手のひらの小さな傷たちを処置することにした。
アルコールが皮膚に触れた瞬間、まるで炎で直接焼かれているかのような激痛が走った。
しかし、私の脳内を占める葵への強烈な焦燥感は、己の肉体の痛みなど遥かに凌駕していた。
「上着を少し脱いで」
葵は大人しく、静かに指示に従った。
私は彼女の薄い衣類をめくり上げ、彼女の容態を確認し始めた。
それは、病院を逃げ出して以来、私の身体に完全に染みついた強迫的なルーティンだった。
私の指先が彼女の胸元に触れる。
呼吸の音を聴診し、心拍の波形が(無音のまま)安定しているかを確認していく。
「まだ息が苦しい?」私が尋ねた。
葵は私をじっと見つめながら、ゆっくりと首を横に振った。「私は平気よ。あなたと一緒にいられるなら、それだけで」
彼女の言葉に、私の胸の奥が全く別の痛みを伴って締めつけられた。
私は顔を赤らめているのを悟られまいと、咄嗟に視線を下に落とした。
本来であれば、私は極限の恐怖に支配されているはずだった。
私たちは何者かに追われ、これからどこへ向かうべきかも全く分からないのだから。
それなのに、こうして彼女の身体と至近距離で触れ合っているだけで、世界がほんの少しだけ静寂を取り戻したかのような錯覚を覚えていた。
「もう絶対に、奴らにあなたを連れて行かせはしないわ」私は無意識に呟いていた。
葵が微かに微笑んだ。
彼女はゆっくりと手を伸ばし、私の頬にそっと触れた。
その手のひらは氷のように冷たかったが、触れ方はどこまでも優しかった。「アスナ、あなたはいつも無理をしすぎるわ」彼女の指先が、私のこめかみの近くにある小
さな擦り傷に触れた瞬間、私はたまらず両目を閉じた。
この暗黒の空間の中には、今、私たち二人しか存在しない。
私がゆっくりと目を開くと、葵の顔がすぐ目の前に迫っていた。
彼女の(冷たい)吐息が、私の唇をかすかにかすめる。
私の心臓が一瞬だけ完全に停止したかのような錯覚に陥った。「あ...葵...」彼女は答えなかった。
ただ、その疲弊しきった、しかし私の思考を簡単に狂わせてしまうあの深い双眸で、私をじっと見つめ返すだけだった。
そして彼女は、自らの額を私の額へとそっと重ね合わせてきた。「私と一緒にいてくれて、ありがとう」私は彼女の手を、壊れんばかりに強く握りしめた。
「私はどこへも行かないわ」
二人の間に流れる沈黙が、この一連の狂気が始まって以来、初めて確かな温もり(安寧)を伴って部屋を満たしていった。
しかしその瞬間、突如として不気味な音が、その静寂を鋭く切り裂いた。みしり
いつも作品を応援していただき、ありがとうございます。
今回は諸事情、エピソードの投稿が遅れてしまいましたことを深くお詫び申し上げます。
お待たせいたしましたが、最後まで楽しんで読んでいただければ幸いです。
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