旅路の始まり
石川の葵に対するあの態度が、どうしても私の脳裏から離れず、私は一晩中彼女を監視し続けていた。
朝が訪れると、石川から内科病棟での臨床実習のスケジュールに関するメッセージが届いた。
私は病院へと向かった。私の頭の中は、アパートで読みかけの小説の最終章を開いて私の帰りを待っている、葵の姿だけで満たされていた。
病院に到着した私は、出会うすべての患者に微笑みかけ、軽快なリズムで血圧を測定していった。
すれ違う他の実習生たちが、背後で不気味なひそひそ話を交わしているのにも気づいていたが、私はただそれを無視した。
私にしてみれば、彼らは皆、無機質な医学の教科書の中に閉じ込められた哀れな存在に過ぎなかった。
彼らには理解できないのだ。医療統計の数字を遥かに凌駕する「奇跡」というものが、現に存在することを。
「アスナ、ちょっと話せるか?」私は振り返った。
ナースステーションの入り口に、ユウジ先生が立っていた。
その顔はひどくやつれ、両目は何日も眠っていないかのように赤く充血していた。
ええ、ユウジ先生。次の外科ローテーションに関するお話ですか?」私は何気ない調子で尋ねた。
ユウジ先生は私を、人気のない静かなカンファレンスルームへと連れて行った。
彼は机の上に、一冊の赤いファイルを置いた――葵の手術記録と、病理検査報告書だった。
「アスナ、君に何度も連絡を試みたんだが」
ユウジ先生は疲弊しきった声で言った。
「葵さんの開胸手術に関する最終結果について、話さねばならない」
「結果なら、きっと素晴らしいはずですよね、先生?」私は問いかけた。
「今の葵を見てください。彼女は食事もできるし、歩くこともできる。末梢の組織灌流だって完璧です」
ユウジ先生は、深い戦慄と、底知れぬ憐れみの交じった眼差しで私を凝視した。
「アスナ、落ち着いて私の話をよく聴くんだ。あの夜、私たちが執刀したあの心臓は、機能的におのずと完全な壊死状態に陥っていた」
「あの黒い塊は腫瘍ではない。破壊的な性質を持った、組織の壊死残渣だ」
「医学的に、機能している血流循環など一滴も残されてはいなかった。私たちは、細胞レベルで完全に崩壊してしまった生命を蘇生させることなどできないんだ」
私は首を横に振った。
彼の言葉は、まるで理解不能な外国語のようにしか聞こえなかった。
「先生、一体何を言っているんですか? 葵は健康です。彼女は家にいます。私を待っているんです」
「アスナ!」ユウジ先生が声を荒らげた。
「葵さんは決してアパートへなど帰っていない! 葵さんは今、――」
突如として、私の聴覚が激しい耳鳴り(ディストーション)で満たされた。
ユウジ先生の声が、激しいノイズの混ざったラジオの音声のように歪んでいく。
彼の口元が動き、死後硬直、不可逆的な心停止、そして悲嘆のプロセスといった単語を発しているのが見えた。
しかし、私の耳に届いたのは、ただ一つの囁き声だけだった。
『あの男は、あなたから葵を奪おうとしている。あなたをここに閉じ込めようとしているのよ』
「違う! 先生は嘘をついている!!」
私は叫びながら弾かれたように立ち上がった。椅子が床と擦れて甲高い音を立てる。
ユウジ先生が、私をなだめようと肩に手を伸ばして近づいてくるのが見えた。
しかし私の目には、その動きが明確な脅威として映っていた。
彼は、私を葵から引き離そうとする、あの闇の亡者たちの一人にしか見えなかった。
葵の存在しない、あの暗黒の場所へと、私を連れ去ろうとしているのだ。
「私に触らないで! みんな、私が彼女を救い出したことに嫉妬しているだけよ!」
私は翻り、カンファレンスルームから飛び出した。
看護師たちが私の名を呼ぶ制止の声も、患者たちの困惑した視線もすべて無視して、私は病院の廊下を全力で疾走した。
漂う消毒液の臭いが、突如として私を追ってくる死臭のように感じられて息が詰まる。
ここから出なければならない。アパートへ戻らなければ。
私は駐車場へと駆け込み、激しく震える手でバイクのエンジンを始動させた。
脳内でユウジ先生の声がいつまでもワンワンと鳴り響いていたが、私はそれを葵の笑顔の記憶で無理やり掻き消した。
(科学なんて嘘っぱちだ。医学はあまりにも教条に縛られすぎている)私はそう確信していた。
アパートへ向かう道中、私の周囲の世界が徐々に色彩を失っていく(解離していく)のを感じていた。
信号機の光は私を監視する赤い充血した目のように見え、歩道を行き交う人々は、長く伸びた不気味な黒い影の群れのように視認された。
アパートのドアの前に到着したとき、私は一度足を止め、激しい息を整えた。
心臓は極限の頻拍を起こし、狂ったように脈打っていた。
震える手で鍵を探し当て、ドアを開けるや否や、私は室内に飛び込んだ。
「葵! ただいま!」私は半ばヒステリックに叫んだ。
リビングの暗闇の中、ソファに腰掛けている葵の姿を見つけた。
彼女は、部屋の明かりをつけていなかった。
葵が、ゆっくりとこちらを振り向いた。
その口元にはいつもの微笑が浮かんでいたが、今回のその唇の両端は、微かに肉が裂けており、その隙間から深淵のような暗黒が覗いていた。
「アスナ、どうしてそんなに遅かったの?」葵が言った。
私は彼女の身体を強く抱きしめ、その肩口に自分の顔を埋めた。
「落ち着いて、アスナ。私はここにいるわ」葵が優しい声で囁いた。
「ユウジ先生が、あなたに酷いことを言ったのね? 大丈夫、私は誰にもそんなことはさせない。もう二度と、あなたを失ったりしないから」
その時、アパートの外から、重々しい足音が近づき、私たちのドアの目の前でぴたりと止まるのが聞こえた。
夜の空気は窒息しそうなほどに張り詰め、不吉な予感に満ちていたが、私の決意はすでに固まっていた。
世界中の誰であれ、私の元から葵を奪い去ることは決して許さない。――たとえ、それが私自身であったとしても。
窓ガラスを絶え間なく叩きつける激しい雨が、東京の夜景を滲ませ、遥か彼方へと押し流していく。
階層17階の部屋から見下ろす外の世界は、濃い夜霧の底へと沈んでいく、かすかな光の海のようにしか見えなかった。
私は小さなキッチンに立ち,温かいコーヒーの器を両手で握り締めていた。
この一週間、私の身体から決して消え去ることのない不気味な冷気を、少しでも拭い去ろうと必死だった。
リビングのソファでは、葵が灰色の毛布に身を包んで丸くなって眠っていた。
何よりも重要なのは、彼女が生きているという事実だ。
彼女は、まだ呼吸をしている。
私が立っているこの場所からでも、彼女が刻む静かな呼吸の音が、はっきりと耳に届いていた。
だが、日の夕方にアパートに帰着して以来、すべての空気が奇妙に歪んでいた。
常に、誰かが私たちを監視している気配がするのだ。ある時は、コンビニの前に不自然なほど長く立ち尽くし、瞬き一つせずにこちらを凝視している一人の男がいた。
またある時は、アパートの間長い廊下の突き当たりに、何人もの人間の不気味な影が浮かび上がっていた。
そしてその瞬間、静寂を切り裂くように、重苦しい音が響いた。
トントン。
トントン。
トントン。
ドアを叩く、三度のノックの音が。
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次回の話は、2026年9月11日に投稿する予定です。
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