歪な彼女を、それでも愛している
医学界にとって、葵は本来存在し得ないはずのアノーマリー(例外)だった。
しかし、私の通うアパートの中では、彼女は確かに現実だった。
呼吸をし、言葉を紡ぎ、そして微笑んでいる。本来であれば、葵は未だICU(集中治療室)のベッドの上で、超厳重な急性期管理の最中にいるはずだった。
「アスナ、また私の脈を取っているの?」私が彼女の手首を握ると、葵はくすくすと楽しそうに笑った。
私は硬直したまま、無理に微笑みを返した。
触診した彼女の脈拍は、あまりにも異質だった。
橈骨動脈が刻むべき規
則正しい力強い拍動ではなく、まるで皮膚の下を微弱な電流が絶え間なく走り抜けているかのような、細かな振動だった。
しかし私にとって、それは末梢組織への灌流が維持されている絶対的な証明だった。
葵は、生きている。術後感染の兆候はなく、手術創の創部裂開も見られない。
胸元にあるあの正中切開の痕跡は確かに生々しいが、数日もすれば自然と通常の状態へ戻るだろうと、私は脳内で結論づけていた。
「アスナ、どうしてそんなに実験室の標本でも観察するような目で私を見るの?」葵が可笑しそうに笑う。
私はぎこちなく笑いながら、手の中にあったステトスコープ(聴診器)をそっとズボンのポケットへ隠した。
「組織の血流が良好に保たれているか、確認していただけよ、葵。肌が、少し白すぎるから」 それが嘘であることは、自分が一番よく分かっていた。
臨床的に見れば、葵の肌は単なる色白などではなかった。
それは、重篤な貧血か広範な循環不全を示すべき、あの死体特有の蒼白そのものだった。
それなのに、彼女は現に歩き、喋り、笑っている。
私は脳内に、頑強な論理の防壁を築き始めた。
これは、極めて稀な未知の表現型の症例なのかもしれない。
あるいは、これまでの医学文献に一切記載のない、特殊な代謝適応の形態なのかもしれない。
その夜、私はコーンクリームスープを作った。
葵はそれを、ひどく美味しそうに平らげてくれた。
しかし、私の目は彼女の微細なディテールを凝視することを止められなかった。
葵は、一切の汗をかかなかった。
偶然触れた彼女の体温は、重篤な偶発性低体温症の限界値――摂氏28度を遥かに下回っていた。
生理学の常識では、この温度に達した人間は即座に心室細動(VF)を起こして心停止に陥るはずだ。
それなのに葵はそこに座り、私に向かって微笑みかけている。
「スープ、とっても美味しいわ、アスナ」彼女の声が響く。私は彼女の喉元を注視した。
液体を飲み込む際、そこには明らかな蠕動運動の収縮が見られなかった。
私の医師としての思考が、食道ディストニアや神経学的障害の可能性を一瞬だけ示唆したが、私は即座にその思考のノイズをかき消した。
彼女がここにいて、私に語りかけてくれている限り、彼女は健やか(健康)なのだ。
私は自分自身の精神に「幸福」という名の診断を下した。
それだけで十分だった。
「どうしてあなたは食べないの、アスナ?」葵が尋ねた。
その両目が、じっと私に固定される。「あなたがこんなに早く回復してくれたことが、嬉しくてたまらないのよ」私はそう答えた。
私がこれまで血の滲むような思いで学んできた医学の知識は、愛という名の絶対的な力の前に敗北したのだと、そう信じたかった。
ユウジ先生が摘出したあの黒い棘は、単なる良性の腫瘤に過ぎず、今はもう完全に消滅したのだと。
しかし、あの菊花の香りは、未だに漂っていた。それはもはや、かすかな残香ではなかった。葵の身体に染みついた消毒液の臭いと混ざり合い、濃密に室内に充満していた。
翌朝、私は一睡もすることができず、ただ夜通し葵の姿を見つめ続けていた。
葵はまだ眠っていた――あるいは、少なくともそう見えた――が、その顔はひどく穏やかで幸せそうだった。
私は綺麗にアイロンのあてられた白衣を身に纏い、ほんの少しだけメイクを施した。
いざ部屋を出ようとしたその時、葵がいつの間にかドアの前に立っていた。私が近づくと、彼女は私の唇にそっとキスをした。
「お勉強、頑張ってね、アスナ。ここで待っているから」 その響きに、私は弾かれたように彼女の唇に応えた。
私の手は、焦燥感に駆られるようにして彼女の衣服を掴んでいた。
このまま彼女を再びベッドへと連れ戻し、今日の講義なんてすべて放棄してしまおうかという衝動が、脳裏を支配しかけた。
しかし、葵が私を優しく制した。
「遅刻しちゃうわよ」彼女は耳元で囁いた。
「私たちは、いつでもできるんだから」その言葉に背を押されるようにして、私はアパートの一歩を踏み出した。
葵が愛おしそうに手を振って見送ってくれる。医学部のロビーへと足を踏み入れたとき、私の心の中に「恋人を亡くした哀れな医学生」の悲壮感など微塵も存在しなかった。
私は、完全なる勝者だった。
私は、人間の真摯な愛と献身が、医学の下した残酷な死亡宣告を打ち破ることを現に証明してみせたのだ。
「みんな、おはよう!」私が学生控え室のドアを開け、快活に挨拶をした。
その瞬間、近くで談笑していた何人もの同級生たちが、文字通りピタリと会話を止めた。
彼らは、形容し難い奇妙な眼差しで私を凝視した。それは、恐怖と、底知れぬ深い同情(憐れみ)が混ざり合った、酷く歪んだ表情だった。
数人が口元を手で覆いながらひそひそと囁き合ったが、私はそれをただの羨望だと受け止め,満面の笑みを返し続けた。
「ねえ聞いてよ、葵ったら今朝はもうバルコニーまで歩けたのよ!」私は興奮を隠せずに言葉を弾ませた。
「私の作ったスープが、彼女の代謝をすごく助けてくれたみたい。みんなも今週末、ぜひ私のアパートに遊びに来てよ」
同級生たちは、互いに無言のまま視線を交わし合った。
その中の一人、マヤが、喉に何かつかえたような様子で恐る恐る口を開いた。
「あ...アスナ...あなたが、その...元気そうで、本当によかったわ」彼女はそこで言葉を一度区切った。
「そういえば...来週の臨床実習の試験、かなり難関らしいわよ。あなた、対策は大丈夫?」私はただ、軽合点に肩をすくめてみせた。
私は心の中で、彼らを見下していた。
彼らは医学の教条に脳を縛られすぎているがゆえに、目の前で起きたこの「奇跡」を素直に受け入れる合理性を失っているのだ、と。
その日の夕方、石川(琴)が私のアパートへとやってきた。
彼女の手には、いくつかの最新の循環器系の論文が握られていた。
私がドアを開けると、彼女は酷く戸惑った様子で室内へと足を踏み入れてきた。
彼女はトレードマークのロリポップキャンディをくわえたまま、怪訝そうに首を傾げて言った。
「あなた、まるで酷い睡眠不足の寝ぼすけみたいな顔してるわよ」「入りなさいよ、石川! 葵は今バルコニーにいるわ。
私たちのために、ちょうどお茶を淹れてくれたところよ!」私は顔を輝かせながら言った。
しかし石川は、リビングルームの中央で完全に氷結したように立ち尽くした。
「アスナ、あなたが要求していた心筋症に関する論文を持ってきたわ。これ、次の臨床ローテーションにすごく重要だから」石川の声は、微かに震えていた。
彼女は、まるでそこに葵が「存在していない」かのような口調で喋り続けた。
まるで、私がこの広い部屋の真ん中に、ただ一人でポツンと立ち尽くしているかのように。
「石川、聞こえないの? 葵があなたに挨拶しているのよ」
私は小さく笑いながら言った。彼女のその頑なで奇妙な態度に、次第に不快な違和感が胸の奥で燻り始めていた。
石川の表情には、何の生気も浮かんでいなかった。
彼女は乱れた所作で、カバンの中から無理やりノートを取り出し始めた。
「あと、今日の講義のノートも置いていくわね。第5章の血行動態の部分、ちゃんと目を通しておきなさいよ。遅れをとらないでね、アスナ」
「石川!! 彼女を見なさいよ! 彼女は治ったの! どうしてそんな、彼女がまるで幽霊であるかのような態度を取るのよ!?」
私の声が、室内に激しく響き渡った。
私は明確に怒りを感じていた。石川が、ようやく私の目を真っ直ぐに見つめてきた。
彼女は私の両肩を、強く鷲掴みにした。
その手のひらは、まるで氷塊のように冷え切っていた。
「アスナ、お願いだから。何か食べて。あなた、信じられないくらいガリガリに激ヤセしてるわよ。……私、もう行くわ。ラボの課題が残ってるの」
そこに佇む葵の姿へとただの一度も視線を向けることなく、石川は弾かれたように部屋を飛び出していった。彼女は、アパートの玄関のドアさえも、乱暴に全開にしたまま走り去っていった。
私は振り返り、葵を見つめた。
葵はただ、静かに私に向かって微笑みかけていた。
石川が去った後、私はソファへと深く腰を下ろした。
すると葵が、私の膝の上へと滑り込むようにして腰掛けた。
「どうして彼らはあんな態度を取るのかしら、葵?」
私は掠れた声で問いかけた。
「だって彼らは、自分たちの科学(医学)で説明できない存在が恐怖でたまらないのよ、アスナ。理由なんて求めず、ただ純粋に私を愛する勇気を持っているのは、世界中であなただけよ」葵が答えた。
私は彼女の細い身体を、壊れ物を扱うように強く抱きしめた。
そして、彼女のあの完全に静まり返った、一切の拍動を持たない無音の胸元へと、静かに耳を押し当てた。
その瞬間、私は決意した。私の最愛の恋人の存在を、この世界から綺麗さっぱり消し去ろう(否定しよう)とする全人類のノイズなど、今後一切無視して生きるのだと。




