彼女は戻ってきた
私の周囲の世界が、まるでその動きを止めてしまったかのようだった。
葵は、切り裂かれたあの緑色の術衣を着てはいなかった。
彼女は、汚れ一つない純白のドレスを身にまとっていた。
まるで、私には感じられない微かな風が彼女の周囲を吹き抜けているかのように、その裾が優しく揺れている。
ほんの数分前まで胸骨正中切開を受け、重大な術後外傷に晒されていたはずの痕跡など、どこにも見当たらなかった。
彼女の顔色には、完璧な血液循環が戻っていた。
頬には健康的な桃色の赤みが差し、さきほど術台の上で目撃したあのチアノーゼや青白さなど、微塵も残っていなかった。
「葵...?」
私の口から漏れた声は、乾燥しきった喉の奥から絞り出された、擦れた吐息のようだった。
「でも...あなたの心拍出量は……私は確かにグラフを見たの...ユウジ先生が諦めるのを見たわ...」
葵が微笑んだ。
それは、これまでの人生で見た何よりも甘く、澄み切った笑顔だった。
彼女はまるで水の上を歩くかのような、極めて滑らかな所作で私へと近づいてきた。
そして私の隣に腰掛け、その両腕を私の肩へと回した。
彼女の触感は異質だった。
酷く軽いのに、その冷気が私の骨の奥深くにまでじんわりと染み込んでくる。
私の手は本能的に彼女の手首を探り、彼女が生きている証であるはずの橈骨動脈の脈拍を確かめようとした。
しかし奇妙なことに、葵が私を見つめたとき、彼女の瞳孔は廊下の明かりに対して確かに光反射(対光反射)を起こしていた。
彼女が言葉を発するたび、病院の冷え切った空気の中に、白い息が微かに立ち上る。
それは、死体には決して存在し得ない、明らかな「代謝」の証明だった。
「私、今はとっても気分がいいのよ、アスナ。胸の中を塞いでいたものが、全部消え去ってしまったみたい。あの棘たちも……もう、ちっとも痛くないわ」
彼女は軽やかにそう言った。
私は遥か彼方にある、固く閉ざされた手術室の扉へと視線を巡らせた。
あの緊迫した「コード・ブルー(緊急救命)」の喧騒は、すでに跡形もなく消え去っていた。
廊下は突如として、死を孕んだ静寂に包まれており、まるで病院の全スタッフが煙のように消滅してしまったかのようだった。
私は、もう何も問いかけたくはなかった。
医学的論理も、組織灌流も、あるいは臨床的死亡の定義についても、一切を思考することを放棄した。
私はただ、葵の生命が、私の崩壊した理性を遥かに超えた「何か」によって連れ戻されたのだと、そう信じることを選んだ。
「お家に帰りましょう、アスナ」
葵が私の手を優しく引いた。
「お腹がペコペコなの。あなたのアパートで、あなたの作ったお料理が食べたいわ。病院の薬の匂いがしない場所で、二人きりになりたい」
私は呆然と立ち上がり、彼女に手を引かれるままに歩き出した。
その手は氷のように冷たかったが、あまりにも確かな現実感を伴ってそこにあった。
私たちは、廊下にある一枚の大きな鏡の前を通り過ぎた。
私はふと、鏡の中に視線を走らせた。
そこには、黒い液体と血液にまみれた、薄汚れた白衣を着た私が映っていた。
そして、その私の隣には、葵の姿も確かに鏡の表面に反射していた。
彼女は、本物だ。
彼女は、確かにそこに存在している。
私の脳内が作り出した、ただの幻覚なんかじゃない。
葵は鏡の前で自らの髪をそっと整えた。
生きている人間が日常的に行う、何気ないその仕草。
葵は弾むような足取りで、病院の出口へと向かって歩いていく。
その歩みは酷く軽やかで、まるで全身の循環不全から完全に回復したかのように見えた。
病院の外、薄暗い街灯の下で、私は彼女の手を強く握りしめた。
私たちは夜の闇を突き進み、あの白い巨塔の中に隠された、残酷な現実から遠く離れていった。
夜の静寂の中で、彼女の胸に頭を預けても、その鼓動(心音)が一切聞こえないという異様な事実に、私は気づかない振りをし続けた。
しかし、激しい夜風が吹き抜けたとき、彼女の髪が私の顔に確かに触れ、バニラと菊花の香りが混ざり合った濃厚な芳香が鼻腔を満たした。
これが超自然的な怪異の奇跡であれ、あるいは私の全感官をハッキングした強力な「精神病理的妄想」であれ、もはやどうでもよかった。
私にとっては、葵が今こうして言葉を発し、笑い、私の手を握りしめている限り、あの死亡宣告はただの『誤診』に過ぎないのだから。
「あなた、本当に本物よね?」
アパートの門前に到着したとき、私は小さな声で尋ねた。
葵の足が止まった。
彼女は私の目をじっと見つめ、それから私の頬にそっと口づけをした。
冷たかったが、私の全身に、言葉にできない感情の温かさが広がっていった。
「私はここにいるわ、アスナ。お医者様にとって、それ以上に大切なことなんてある? あなたの患者は、戻ってきたのよ」
私は微笑んだ。
しかし、視線の隅で、私はそれを見ていた。
遥か彼方の闇の中に、あの背の高い顔のない黒い影が未だに佇み、胸の前で腕を組んだまま、私たちをじっと凝視しているのを。
それはまるで、未だ果たされていないあの「約束」の残滓を、いつの日か奪い去るための適切な瞬間を辛抱強く待っているかのようだった。
しかし、私はその影に向かって、ただ静かに微笑みを返した。
その時の私は、心の中で彼に感謝さえしなければならないと感じていたのかもしれない。
医療器具の代わりに、葵の手術を成功に導いてくれたのは、もしかしたらあの影だったのかもしれないから。




