ラブホテル事件
葵と私がようやく東京都内へと戻ったとき、空は未だ深い闇に包まれていた。
雨に濡れたアスファルトが冷たく輝いている。
私たちはあの工業地帯から遠路はるばる歩き続け、すでに体力は底を突いていた。
身体を動かすためのエネルギーは、もう一滴も残されてはいなかった。
歓楽街の路地へと迷い込んだその時、私たちの目に巨大な看板が飛び込んできた。
LUNA HOTEL
葵がその建物をしばらく見つめ、ぽつりと呟いた。
「ここ……恋人たちのためのホテル(ラブホテル)ね」
「分かっているわ」私は短く答えた。
私たちは身体を休めるため、一部屋を借りることにした。
部屋の重い扉が閉まった瞬間、これまで私たちの心身を極限まで圧迫していたあの悍ましい緊張の糸が、ようやく微かに緩むのを感じていた。
葵が近づき、私の身体を強く抱きしめた。
私たちは無言のまま、互いの温もりを確かめ合うように寄り添った。
全身を支配していた恐怖と疲弊が、その静寂の中でほんの少しだけ溶けて消えていくかのようだった。
しかし、その平穏は長くは続かなかった。
――ズドオオオン!!!
凄まじい爆発音が響き、ホテル全体が激しく揺れ動いた。
直後に非常ベルがけたたましく鳴り響く。
窓ガラスが派手に粉砕され、外からは無数の銃声が轟き始めた。
私は咄嗟に葵の身体を庇い、窓際から強引に引き剥がした。
「奴ら……私たちを見つけたんだわ」
外からは絶え間ない銃撃の音が響いていた。
あの異形の亡者たちの群れと、黒服を身にまとった男たちが、ホテルの敷地内で激しい銃撃戦を繰іれ広げているのだ。
混沌がエリア全体を覆い尽くしていく。
その時、私はその中心に直立する「一人の男」を目撃した。
蒼白い肌をした、異様に背の高い男。
その両目は瞳孔を失い、完全に不気味な白目に反転していた。
男は、正確に私たちに向かって銃口を跳ね上げた。
――ダンッ!!!
私の肉体に凄まじい衝撃が走り、私はその場に激しくよろめいた。
「葵……!」
一瞬、葵が撃たれたのではないかという絶望が脳裏をよぎった。
しかし視線を走らせると、私たちの間に、あの白目の怪異の一体が立ち塞がっているのが見えた。
「逃げるわよ!」葵が叫んだ。
私は強く頷き、崩れ落ちそうな身体を無理やり駆動させた。
私たちは非常口に向かって全力で走った。
被弾した痛みのせいで全身から急速に力が抜けていくのを感じたが、ここで足を止めるわけにはいかない。
足元が狂いそうになる私の身体を、葵が必死に支えてくれた。
追跡者たちがホテルから這い出てくる前に、一刻も早くこの場から離脱しなければしかたがなかった。
裏手の非常口から外へ脱出したとき、私の肩からは絶え間なく血液が溢れ出ていた。
背後では、歓楽街の狭い路地裏にまで激しく反響する非常アラームの咆哮が響き渡っている。
足元が激しく揺らぎ、私は危うく崩れ落ちそうになったが、それでも歯を食いしばって歩みを進めた。
肩の激痛はますます増悪し、私の手はすでに自らの血液で真っ赤に染まっていた。
時間は、一分一秒の猶予も残されていない。
遅かれ早かれ、奴らはあのホテルから財い出てくるだろう。
私は人影の消え失せた深夜の街道へと目を走らせた。
遥か彼方を、数台の車両が通り過ぎていくのが見える。
その時、すでに閉店しているコンビニの脇に、一台の黒いスポーツタイプのバイクが停められているのが目に入った。
キーは、イグニッションに差し込まれたまま放置されていた。
「葵、乗りなさい」
葵は驚愕の表情で私を見つめた。「アスナ...これ、誰かのバイクよ?」
「背に腹は代えられないわ」
私はよろめく足取りでバイクへと近づき、セルモーターを回してエンジンを始動させた。
数秒の後、私と葵を乗せたバイクは猛烈な勢いで加速し、あの歓楽街を最速の速度で離脱していった。
「ア...アスナ、大丈夫なの……!?」背後から葵の悲痛な声が響く。
彼女が振り落とされまいと私の背中に強くしがみついた瞬間、彼女のあの独特な冷たい身体の感覚が、背中を通じてダイレクトに伝わってきた。
「まずは...この傷の処置をしなければ」私は掠れた声で呟いた。
「大学よ...大学のキャンパスへ向かうわ」
私の脳裏に浮かんだ隠れ家は、そこしかなかった。
大学の医学部研究棟のラボであれば、必要な医療資材や医薬品は全て揃っている。
そしてこの深夜の時間帯であれば、敷地内には誰一人として残っていないはずだから。




