第32話:余波
タカは目を見開いた。彼は地下室の床に倒れていた。不快なほど寒く、すでに悪臭漂う空気の中に、銅のような生臭い匂いが立ち込めていた。
全身が汗でびっしょりになり、服が肌に張り付くほどだったのも、気分を悪くさせる一因だった。呼吸は浅く、不安定だった。気を失っていたに違いない。
意識が戻った瞬間、そんな考えが頭をよぎった。アーサーが彼の上に身を屈めていた。
「タカ。大丈夫か?」
アーサーが手を差し伸べると、タカは力なくそれを受け取った。その握りは力強かった。温かかったが、ざらざらとしていて、たこで荒れた手だった。
「ア……アーサー……何が起きたんだ?」
「仕事は終わった」と彼は答えると、続けて尋ねた。「そんなことはどうでもいい。大丈夫か?」
「う、うん……俺――」
彼の視線は部屋中をさまよった。ネズミたちは皆死んでおり、床のあちこちに散らばっていた。死んでいたのだ。アーサーは無事だった。ベリルも無事だった……みんな無事だった。絶望的な安堵感が彼を襲い、唇が震え、彼はアーサーに抱きついた。目には涙が こみ上げてきた。彼は精一杯、その涙をこらえようとした。
彼の精一杯は、アーサーの名前をすすり泣くように呼ぶことだけだった。それ以上声を上げれば、喉元まで込み上げてくる感情に押しつぶされそうだった。アーサーの腕の中で、彼はひどくちっぽけに感じた。本当に、本当にちっぽけに……
外から見れば、それはまるで、周囲の恐ろしい世界から逃れるために父親の保護を求める子供のようだったかもしれない。
静かな時間が流れた。アーサーがそれを破った。
「泣いてもいいよ」
意志に反して涙が溢れ出し、タカは顔をアーサーのチュニックに押し当て、声を上げてすすり泣いた。自分自身への失望、安堵と恐怖が等しく入り混じり、疲労が体を蝕んでいた――涙が激しくなるにつれ、頭の中を駆け巡る思考が彼をさらに深い渦へと巻き込み、やがて全身が震え出した。アーサーは一言も発することなく、彼をしっかりと抱きしめた。
やがて、タカの泣き声は静まり、鼻をすする音と息を整えようとする息遣いに変わった。
その時、アーサーはようやく彼を離し、淡々と語りかけた。
「君は、まだこの覚悟ができていなかった」と彼は切り出した。「二人とも、そうだったんだ」。アーサーは期待を込めてベリルの方を見た。
しばらくの間、ベリルは何も言わなかった。彼は数フィート離れた床に座り、膝を胸に引き寄せ、遠くを見つめるような目をして……顔には血がにじんでいた。外見上は怪我をしていないようだったので、それは彼の血ではないはずだった。
「ベリル。大丈夫か?」
その言葉で、彼は現実に引き戻されたようだった。彼は驚きの息を漏らすと、自分に話しかけていた男をちらりと見上げた。落ち着きを取り戻したかのように、彼は体を起こして立ち上がったが、その動きが普段とは違ってぎこちないことにタカは気づいた。一体何なんだ、彼は彫像か? まるで彼の体がきしむ音が聞こえてきそうな気がした。
「えっと、その……はい、その通りです。ただ、あ、考え事をしてたんです! 僕は……まあ」
アーサーはうなずいた。
「わかった。」
ベリルは、あの不気味なほど硬直した仕草のまま、布を取り出し、魔法で濡らすと、血が消えるまで顔をそっと拭いた。
いずれにせよ、その反応はアーサーにとっては十分だったようだ。彼は部屋の中央へ歩み寄り、モンスターの死体の一つから自分の長剣を取り出した。ぼろ布を取り出すと、 刃の全長を上下に拭き、それから二人に振り返った。
「お前たちは二人とも固まってしまったな」と、彼は剣を鞘に納めながら言った。「だから、俺がお前たちを鍛えてやる」
ベリルは抗議しようと口を開きかけたが、顔を引きつらせた。
「でも、でも、俺は……固まってなんてない! ただ……考えてただけだ!」
アーサーは首を横に振った。「たとえ『ただ考えていただけ』だとしても、戦いの最中にあれほど長く動きを止めるのは危険すぎる。動きながら考えることを学べ――プレッシャーのかかる状況下で考えることを学べ。ベリル、もし俺がここにいなかったら、どうなっていたと思う?」
ベリルは喉を鳴らした。「えっと、あの……へへ。まあ、もちろん、俺が全員殺してたよ!ただ、あ、あの……」彼は言葉を途切れさせ、突然、言葉に詰まってしまった。
「そうか」アーサーはそう言うと、タカの剣が落ちていた場所へ歩み寄り、そっとそれを拾い上げた。そして、その剣を少年のほうへ差し出した。
「タカ、剣を落としたな。もし僕がここにいなくて、君がそんなことをしていたら、どうなっていたと思う?」
タカの胸が締め付けられた。何が起きたか、彼はよく分かっていた。彼は馬鹿ではなかった。
「僕たちは……死んでたよ」
彼は馬鹿ではなかったが、まるで馬鹿になったような気分だった。なぜ今までそのことに気づかなかったのだろう? 冒険者は毎日死と向き合っている。そして、彼は今まさに死を直視してしまったのだ。もしアーサーがここにいなかったら、彼は本当に……
生き延びたことを喜ぶべきだったのだろうか? もしそうなら、なぜこれほどまでにひどく苛立ちを覚えるだけなのだろうか?
「違う?!」ベリルは抗議して叫んだ。「なんで俺たちが死ぬんだ?!ふん!自分のことだけ言えよ。もしかしてあんたは――」
「準備ができていなかったからだ」とアーサーは言った。「君たちは固まってしまった。もし二人きりだったら、本当に同じように事態が収まっていたと思うか? 俺たちはパーティーだが、もし俺がいなかったらどうなる? 冒険者になりたいのか? それならもっと強くなるんだ。 自分たちを守る術を知っておく必要があるんだ」その声は、行儀の悪い子供の尻を叩く厳しい手のようだった。痛々しく、怒りに満ち、そして苛烈だった。タカは後ずさりし、身を引いた。これまでアーサーが声を荒げるのを聞いたことがなかったが、その……その突然の物腰に、彼は少し怖気づいた。
「タカ」と、彼の声は落ち着いた。「君にとって、これが初めてだったんだね?」
一瞬、タカの頭は「初めて」が何を指しているのか理解できなかった。
『初めてのクエスト? 初めての……ああ。初めて戦ったことか』
彼がその意味を理解した頃には、ベリルはすでに嫌味たっぷりの返答を口にしていた。
「もちろん違うよ! 俺は世の中のあらゆるものと、少なくとも一度は戦ってきたんだ!」
アーサーもタカも、彼に反応を示すことはなかった。アーサーはタカの剣を柄が外側になるようにひっくり返し、彼に受け取るよう差し出した。
「お前のものだ。受け取れ。そして、二度となくすんじゃないぞ」
彼は無言で剣を受け取り、しばらくの間、刃にぼんやりと映る自分の姿をじっと見つめていた。
『……もう落とさない。約束する……』 自分だけに誓った静かな誓いだった。彼は、その誓いを守れることを願った。
「俺が君を鍛えてやる」アーサーは繰り返した。その声は次第に小さくなり、かろうじて聞こえる程度になった。「……君を死なせはしない」
アーサーは目を閉じ、深く長い息を吸い込んだ――そして再び目を開けた。
「よし。行こう」
帰り道は沈黙に包まれていた。その場の雰囲気は、「重苦しい」と「憂鬱」という言葉がまさにぴったりだった。
今のところ、タカの涙は乾いていたが、胸の重苦しさは残っていた。
なぜ? 帰路の途中、タカの頭の中を、様々な形でその問いが駆け巡っていた。




