第6話:掴んだ手と新たな旅立ち
巨木の隙間から、幾筋もの白銀の光が差し込み、樹海の濃い霧を優しく溶かしていく。
『昏き精霊の樹海』に、静かな朝が訪れた。
「……ん、うぅ……」
アルスの胸の中で、毛布にくるまれていた小さな体がもぞもぞと動いた。
天狼族の子供がゆっくりと目を開ける。十分な睡眠とアルスの特製スープのおかげで、その顔色には健康的な赤みが戻っていた。
「おはよう。よく眠れたかい?」
「あぅ……お、はよ……」
子供は眠そうに小さな手で目をこすりながら、アルスの顔を見上げて小さく微笑んだ。
「傷はもう痛まないね。……よし、それじゃあ少しだけ待っていておくれ。昨日の『お片付け』を終わらせてしまうから」
数メートル先では、一本の太いロープで芋虫のように数珠繋ぎにされた密猟者たちが、寒さと恐怖でガタガタと震えていた。
「私は博物学者だと何度も言っているだろう。……さて、君たちには少し効率的な方法をとらせてもらうよ」
アルスは空間転移の術式が刻まれた、極めて高価な使い捨ての魔導具の結晶を取り出し、男たちの足元へ放り投げた。
「行き先は、ここから一番近い『王都憲兵本部』の地下監獄だ。私のサイン入りの密猟報告書も一緒に転送しておくからね。……それでは、良い旅を」
アルスがパチンと指を鳴らすと、眩い閃光とともに、男たちの姿は空間ごと完全に掻き消えた。
「ふぅ、これで静かになったね」
アルスは再び子供のほうへと向き直り、その前に屈み込んだ。
「怪我も治ったし、悪い人間ももういない。この森にいる限りはもう安全だよ。……さあ、自分の家族のところへお帰り」
アルスはそう言って微笑み、リュックサックを背負い直して立ち上がった。ここで別れるのが、この子にとって一番正しい選択のはずだった。
「じゃあね。もう罠にかかるんじゃないよ」
アルスが歩き出した、その瞬間。
グイッと、アルスの紺色の外套の裾が引っ張られた。
振り返ると、小さな両手で必死にアルスの服を握りしめ、涙を浮かべて見上げてくる子供の姿があった。
「あぅ……っ、う、うぅ……!」
「どうしたんだい? お腹はもういっぱいだろう?」
「……い、や……。おいて、いかないで……。ひとり、やだ……」
子供は悲しそうに視線を落とし、ぽつり、ぽつりと、たどたどしい言葉を紡ぎ出した。
「みんな、いない……。ずーっと、ひとり、だった……。あかい目の、おおかみ、おそってきて……みんな、遠くに、いっちゃった……」
天狼族の集落は、別の強力な魔獣の襲撃によってすでに崩壊していたのだ。この子にはもう、帰る家も、待っている家族もいない。
「あぅ……、せんせい……。あったかい、スープ……くれた。やさしい、くれた……。だから……おいて、いかないで……!」
ボロボロと大きな涙を流しながら、子供はアルスの服の裾をさらに強く握りしめた。いつも冷静沈着な最強の博物学者が、その瞬間、初めて言葉を失った。
「……困ったね。私は気難しくて、旅暮らしだ。……それでも、本当についてきたいかい?」
子供は何度も、壊れそうなほど激しく首を縦に振った。
「うん……っ! ついていく! せんせいの、おてつだい、する……!」
「ふふ、お仕事の手伝いをしてくれるなら、『助手』ということになるね。分かったよ。私の旅に、君を同行させることを許可しよう」
「あぅ……っ、本当……!?」
「ただし、助手なら名前が必要だ。君のその綺麗な毛並みは、朝霧に濡れた銀の葉のようだね」
アルスは少し考え、優しく微笑みながら、子供に新しい名前を贈った。
「今日から君の名前は『シルヴァ』だ。私の大切な新米助手だよ」
「しるば……。しるば! うん! わたし、シルヴァ!」
シルヴァは嬉しさのあまりアルスの胸へと飛び込んできた。アルスは苦笑しながらも、その小さな体をしっかりと受け止め、ポンポンと背中を叩いてやる。
「よし、名前も決まったところで、さっそく次の調査地へ出発しようか。次はここの樹海を出て、珍しい魔鉱石が採れるという岩山の街を目指す予定だ」
「おいしい、ごはん……! シルヴァ、いっぱい食べる!」
シルヴァはアルスの手をきゅっと握り直し、元気いっぱいに声を上げた。
陽の光が満ち溢れる外の世界へと、二つの影が並んで歩き出す。
最強の博物学者アルスと、彼の服の裾を嬉しそうに握りしめる、幻の天狼族の子供シルヴァ。
一人の風変わりな学者の退屈な調査旅は、この日を境に、賑やかで、優しくて、ちょっぴり騒がしい『最高の冒険』へと姿を変えるのだった。




