第5話:特製スープとモフモフの胃袋
密猟者たちが身動きの取れないよう完全に縛り合わされたのを横目に、アルスは天狼族の子供との距離を慎重に詰めていた。
「シャーーッ……!」
精一杯の威嚇。しかし、その声はひどくかすれており、今にも泣き出しそうだ。
アルスは子供から二メートルほど離れた位置で完全に足を止め、その場に静かに腰を下ろした。両手を広げて武器を持っていないことを示す。
「怒らせてしまったなら謝るよ。だけど、まずは君の体を診せてもらえないかい?」
【状態詳細:左足首に鉄製罠による裂傷。傷口から微量の破傷風菌侵入の兆候。胃腔内はほぼ空。約三日間の絶食状態】
(……思った以上に深刻だね。一刻も早く栄養を補給させないと、魔力の自己回復が追いつかなくなる)
「よし、分かった。無理に触ろうとはしないよ。まずはその足を治そう」
アルスは懐から、透き通った淡い緑色の液体が入った小さなガラス瓶を取り出した。彼が自ら樹海の希少薬草を調合して作った、最高品質の治癒ポーションだ。
アルスがボトルに自身の魔力を優しく通すと、緑色の液体が柔らかな光を放ちながら、ふわふわと空中を浮遊し始めた。
「……あ?」
子供の丸い目が、宙に浮かぶ光の球に釘付けになる。
その光の球は生き物のように滑らかな軌道を描き、子供の傷ついた左足首へと吸い込まれるように触れた。
シュウ、と心地よい音がして、子供の足首の生々しい裂傷が、見る見るうちに塞がっていく。
「あん……っ」
痛みが消えた驚きからか、子供は自分の足を何度も見つめ、それから不思議そうにアルスの顔を見た。先ほどまでの敵意が少しだけ和らいでいる。
ぐぅぅぅぅ……。
静かな森の中に、あまりにも盛大な、可愛らしい音が響き渡った。声の主は、間違いなく子供のお腹だった。
子供は一瞬で顔を真っ赤に染め、恥ずかしそうに両手でお腹を押さえ、巨木の幹に顔を埋めてしまった。
「はは、お腹は正直だね。よし、特製のスープを作ろう」
アルスはリュックサックから、小型の魔導コンロと銀色の片手鍋を取り出した。
「さて、今の君の胃腸は飢餓で弱っているから……まずは優しく栄養を吸収できるスープにしようね」
湧き水を鍋に注ぎ、コンロに火を点ける。
取り出したのは、先ほど森の入り口付近で収穫した『ソーマの果実』。リンゴに似た甘みを持つ、滋養強壮に優れた魔法の果実だ。これを素早くサイコロ状に刻んでいく。
次に投入するのは、丁寧に乾燥された『コカトリスの干し肉』。上質な旨味が凝縮されたこの肉を細かく刻んで鍋に投入すると、湯気とともに、じわじわと肉の芳醇な脂が溶け出し始めた。
コトコトと鍋が鳴り始めると、樹海の冷たい空気の中に、爆発的な『ごちそうの香り』が広がりだした。
干し肉から出た濃厚な黄金色のダシ、ソーマの果実のほんのり甘酸っぱい爽やかな香り。それらが完璧な黄金比率で混ざり合い、鼻腔を激しくくすぐる。
「くぅぅぅ……」
子供の口から、今度は小さく情けない鳴き声が漏れた。
子供はゴクリと大きな音を立てて唾を飲み込み、完全にスープの匂いに敗北した様子で、じりじりと、本当に少しずつ、アルスへと近付いてきた。
「はい、出来上がりだよ。『ソーマ果実とコカトリス肉の特製養生スープ』だ。熱いから気をつけてね」
アルスは木製の器にスープをたっぷりと注ぎ、子供の前の地面にそっと置いた。
子供はアルスの顔を一度チラリと見上げ、彼が優しく頷くのを確認すると、意を決したように小さな両手で器を持ち上げた。
まずは、ふうふうと息を吹きかけ、恐る恐るスープを一口すする。
「っ……!」
次の瞬間、子供の体中に電撃が走ったかのように、ふさふさの尻尾がピーンと垂直に跳ね上がった。
「あ、うみゃ……っ! うみゃいっ!」
あまりの美味しさに、子供の警戒心は完全に消し飛んだ。
器に直接口をつけてハグハグとスープを飲み干していく。アルスが二杯目を注いであげると、子供はもはや威嚇の気配もなく、耳を幸せそうに揺らしながら、夢中でスプーンを動かし続けた。
「ふぅ……きゅう」
実に三杯ものスープを綺麗に平らげた子供は、満足感に満ちた長いため息をついた。心地よさそうにへにゃりと垂れ下がった灰色の獣耳。
子供は自らじりじりと、アルスの膝のすぐ近くまで寄ってくると、ふかふかとした毛並みの尻尾をアルスの手元にそっと擦り付けた。
「お腹はいっぱいになったかい?」
「う,うん……。ごち、そ、しゃま……」
アルスの細く、温かい指先が、子供の柔らかい耳の付け根を優しく撫でてあげる。子供は気持ちよさそうに目を細め、「くぅ、くぅ」と喉を鳴らし始めた。
「あぅ……あ、あったかい……」
連日、密猟者に追われ、冷たい泥の上を逃げ回っていた幼い肉体に、猛烈な睡魔が襲いかかった。
子供はこっくりこっくりと船を漕ぎ始め、やがて耐えきれなくなったように、アルスの膝の上へと頭を預けて倒れ込んできた。小さな両手でアルスの紺色の外套をぎゅっと握りしめたまま、すやすやと規則正しい寝息を立て始める。
「本当に、よく頑張ったね」
アルスは予備の毛布を取り出し、子供の小さな体の上へと優しく掛けた。
巨木がざわざわと風に揺れる精霊の森。その中央で、世界最強の博物学者は、胸の中の小さなぬくもりを守るように、静かに夜が明けるのを待った。




