第3章・第4話:理を導く万年筆、精霊の湖に光が戻る日
頭上から迫る、ビルをも押しつぶさんばかりの巨大なタコの触手。
風圧だけで周囲の巨木がへし折れるほどの絶体絶命の状況下で、私は手にした一本の『万年筆』のキャップを、カチリと静かな音を立てて外した。
「――『鑑定眼・深度解放』」
私の視界が、一瞬で数次元上の情報領域へとシフトする。
迫り来る触手の内部、その網の目のように張り巡らされた「筋肉の緊張度」と「狂化魔力の水脈」が、鮮やかな光の線となって丸裸になった。
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【名称:リヴァイアス・クラーケンの第3触手(暴走状態)】
【問題点:密猟者の電撃により、筋肉の収縮率が臨界点を突破。しかし、付け根から三メートル上部、魔力経路が『交差』する一点に、全圧力を支える構造的弱点あり】
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「そこだね」
私は一歩前に踏み出すと、手に持った万年筆の先から、髪の毛よりも細く、しかしダイヤモンドよりも硬固に圧縮した「風属性の刃」を、無造作に一閃させた。
――スッ。
それは、攻撃とさえ呼べないほど、優雅で、無駄のない美しい軌跡。
直後、ドゴォォォォォンッ!!! という凄まじい爆音とともに、里を押しつぶすはずだった巨大な触手が、私の目の前わずか数十センチのところで、ピタリと、完全に停止した。
「え……?」
「な、何が起きたの……!?」
リィエルが呆然と声を漏らす。
次の瞬間、クラーケンの巨大な触手は、まるで緊張の糸が切れたかのように、力なく横へとズザーーッと滑り落ち、湖面へとバシャーンと激しく沈んでいった。
切断したのではない。筋肉の結合と魔力経路を完璧に「解除」し、強制的に脱力させたのだ。
「ひゃあ……! せんせい、タコさんの手が、フニャフニャのコンニャクになっちゃった!」
「これもお勉強さ、シルヴァ。力に対して力で対抗するのは、野蛮人のすることだからね。……さて、残るはあの『害虫』たちだ」
私は視線を、対岸の金眼商会の潜水艇へと向けた。
甲板の男たちは、何が起きたか分からず、ただ目玉を飛び出させて震えていた。
「な……、なんだあの人間は!? クラーケンの触手を、万年筆一本で止めたというのか!? ひ、怯むな! 最大出力で電撃を流せ! 主ごとあの学者を焼き殺せ!!」
潜水艇の魔導炉が激しく唸りを上げ、主を縛る鎖に、これまでにない漆黒の雷撃が奔った。
「愚かだね。世界樹の麓で、雷の魔導具を起動するなんて」
私はため息をつきながら、万年筆のペン先を、光る湖の水面へとそっと浸した。
「――『元素対流』」
トォン、と水面に広がった小さな波紋。
その瞬間、密猟者たちが放った漆黒の電撃は、主の身体に触れる直前で、まるで意志を持ったかのように進路を急変更した。
水伝いに、鎖を逆流し――そのまま、金眼商会の潜水艇へと、すべてのエネルギーが強制送還されたのだ。
「へ? あ、おい、電気の針が戻ってきて――」
――バリバリバリバリバチィィィィンッッ!!!
「ギャァァァァァァーーーッッ!!!???」
自分たちが放った最大出力の雷撃をまともに浴び、魔導潜水艇は一瞬でショート。激しい爆発音とともに黒煙を上げ、甲板の男たちは全員、アフロヘアのようになって気絶し、湖へとマヌケにドボンドボンと落ちていった。
それと同時に、主を縛り付けていた『精神狂化の楔』がパキンと砕け散る。
漆黒に染まっていた湖水は、みるみるうちに元の、澄み切ったエメラルドグリーンへと戻っていった。
「グオォォ……ン……」
リヴァイアス・クラーケンは、正気を取り戻した大きな単眼で私を静かに見つめると、感謝を示すように、残った触手を優雅に一度だけ振って、世界樹の根の奥深くへと、静かに帰っていった。
「す、すごすぎる……。これが、王都の国家一級博物学者……。理を操る、本当の知性……」
リィエルは魔導弓を落とし、私の前にその場に膝をついて、まるで神を仰ぎ見るような目で震えていた。
「すごーい! せんせい、また足も使わずに勝っちゃった!」
「はは、新米助手もよく索敵を頑張ってくれたね。よしよし」
私はシルヴァの頭を優しく撫でてあげると、彼女はふさふさの尻尾をプロペラのように嬉しそうに回していた。
◇
数時間後。
湖に落ちた金眼商会の密猟者たちは、駆けつけたエルフの憲兵団によって全員芋虫のように縛り上げられ、王宮の憲兵へと引き渡されることになった。
里の中央広場では、危機を救われたエルフたちによる、盛大な『精霊の祝祭』が執り行われていた。
「アルス先生、そしてシルヴァちゃん! これは我が里の全員からの、心からの感謝のしるしです!」
部族の長から手渡されたのは、世界樹の純粋な魔力結晶から削り出された、美しい『精霊の魔導ランタン』。そして、シルヴァには――。
「わあぁぁ……っ! これ、ぜんぶシルヴァの!? お花のパン、こんなにいっぱい!」
大きなカゴに山盛りに詰め込まれた、出来立てフワフワの『精霊パン』だった。
シルヴァはパンの山に顔を埋めるようにして、「んみゃい! んみゃい!」と、口の周りを白い粉だらけにしながら大喜びでハグハグと食べ進めている。
その無邪気な姿に、気難しかったエルフたちも「可愛い助手殿だ」と、すっかり相好を崩して拍手を送っていた。
「さて、シルヴァ。お腹はいっぱいになったかい? そろそろ、次のフィールドワークへ向かおうか」
「うんっ! せんせい、シルヴァ、もうお腹ぽんぽこりん! つぎはどこに行くの?」
「次は、さらに北にある『白銀の竜脈霊山』さ。そこには、氷のドレスを纏った美しい希少な狐の生態系があるらしいんだ」
「お狐さん! シルヴァ、もふもふのお友達、つかまえるのお手伝いする!」
世界樹の美しい光を背に受けながら、最強の博物学者と、食いしん坊な新米助手の旅路は、さらなる未知の領域へと続いていく――。




