第3章・第2話 :エルフの隠れ里、極上の精霊パンと危機
先ほどの月見草の一件で、エルフの少女――リィエルは、私たちに対する警戒をすっかり解いていた。
それどころか、「精霊の声を正しく理解する偉大な学者様」として、異例の待遇で彼らの居住区である『世界樹の隠れ里』へと案内されることになった。
里は、生い茂る巨木の幹をくり抜いて作られた、自然と調和した美しい木造建築が並ぶ場所だった。
通りすがるエルフたちが、人間の私と獣人のシルヴァを珍しそうに見ていたが、案内役のリィエルが「このお方は精霊の恩人だ」と説明すると、一様に納得したように深く一礼してくれた。
「アルス先生、先ほどは無礼な態度をとり、本当に申し訳ありませんでした。我が部族の長にも話を通しましたので、こちらで旅の疲れを癒してください」
案内されたのは、湖を一望できる見晴らしの良いテラス席だった。
シルヴァは、初めて見るエルフの街並みにキョロキョロと首を振っていたが、テラスのテーブル席に座った瞬間――お約束のように、その小さな鼻をピクピクと動かし始めた。
「くぅぅぅ……。せんせい、なんだか、すっごくあまくて、香ばしい匂いがするの。ザルツブルグのお肉とはちがう、お花とお日さまの匂い!」
「ふふ、お腹の虫は相変わらず正確だね。シルヴァ。どうやら、エルフの特産品が運ばれてくるようだ」
リィエルが木製のトレイに乗せて運んできたのは、焼き立ての香ばしい湯気を上げる、この里の名物料理だった。
「お口に合うか分かりませんが……我が里の主食である『世界樹の恵みの精霊パン』と、湖の特産である『銀鱗魚のハーブムニエル』です」
「わあぁぁ……っ! パンがピカピカしてる!」
シルヴァの目が一瞬でハートマークに変わる。
テーブルに置かれたのは、ほんのりとした薄緑色の焼き色がついた、ふっくらとした美しい丸パン。そして、湖で獲れたという、白銀に輝く美しい魚のムニエルだった。
上からは、森で採れたばかりのみずみずしい香草と、特製のナッツバターソースがたっぷりと注がれている。
「ほう、これは素晴らしい。シルヴァ、さっそく『観察』してみようか」
(――『鑑定眼』)
====================
【名称:世界樹の恵みの精霊パン】
【品質:至高】
【特徴:世界樹の葉から集めた希少な酵母と、魔力を帯びた小麦を使用。一口食べれば魔力が回復し、肉体の疲労が完全に霧散する。味は極めて上品な甘み】
====================
「よし、合格だ。シルヴァ、冷めないうちにいただこう」
「うんっ! いっただっきまーす!」
シルヴァは小さな両手で、自分の顔ほどもある精霊パンを贅沢に掴むと、大きく口を開けてかぶりついた。
――ふんわり。
「……っ!?」
シルヴァの丸い獣耳が、まるでバネが仕込まれているかのようにピコーン!と垂直に直立した。
あまりの美味しさに、ふさふさの尻尾が千切れんばかりの勢いで左右に大回転を始める。
「ん、んみゃい……っ! せんせい、これ、すっごくフワフワなの! 雲クッションを食べてるみたい……っ! 噛むと、お口の中に、あまーいハチミツとお花から採れたお汁が、じゅわぁぁって広がるのぉ!」
シルヴァは頬袋をリスのようにパンパンに膨らませながら、夢中でパンをモグモグと咀嚼した。
エルフのパンはパサついているという人間の偏見を見事に覆す、圧倒的なしっとり感。世界樹の魔力酵母が、生地の水分を極限まで保っているのだ。
「どれ、私も」
私はナイフで銀鱗魚のムニエルを切り分け、口に運んだ。
サクッとした皮目の歯ごたえのあと、舌の上でホロリと崩れる白身魚の極上の脂。そして、爽やかなハーブの香りがナッツバターの濃厚なコクを完璧に引き締めている。
これには私も、思わず感嘆の吐息を漏らさざるを得なかった。
「素晴らしい。素材の鮮度、魔力の保有量、調理の火加減――どれをとっても博物学的に満点だ。リィエル、君たちの食文化は誇るべきものだよ」
「あ、ありがとうございます……! 高名な学者様にそう言っていただけるなんて……」
リィエルは白い肌をほんのり赤くして嬉しそうに微笑んだ。
しかし、その表情はすぐに、陰りのある真剣なものへと戻ってしまう。
「……ですが、この穏やかな時間が、いつまで続くか分からないのです。先ほどお話しした通り、湖の主である『リヴァイアス・クラーケン(魔導大章魚)』が暴走を始めていて……」
「リヴァイアス・クラーケン。通常は世界樹の根の隙間、最深部で眠っているはずの温厚な水棲獣だね。なぜそれが地上付近で暴走しているんだい?」
「それが分からないのです……。一週間ほど前から突然、湖の底から不気味な魔力の波動が響くようになり、主が正気を失って水面を荒らすようになりました。このままでは、里の結界が壊され、私たちは住処を追われてしまいます……」
リィエルが悲痛な面持ちで俯く。
私は最後の一口の精霊パンを優雅に飲み込み、ナプキンで口元を拭った。
すでに私の脳内データベースは、その「一週間前」というキーワードと、この地を取り巻く魔力の歪みから、ある一つの『答え』を導き出していた。
「なるほどね。一週間前、ですか。……どうやらこの美しい湖にも、ドワーフの街と同じように、自然の理を解さない『愚かな足音』が紛れ込んでいるようだ」
「え……? それって、どういう……?」
リィエルが目を丸くしたその時。
――ズガガガガガァァァァンッッ!!!
隠れ里全体を、かつてないほどの激しい大地震が襲った。
テラスの木製の柵がメリメリと音を立てて軋み、湖面からは、天を突くほどの巨大な「水の柱」が何本も巻き上がった。
「ひゃぅっ!? せんせい、お水が……お水が怒って大爆発してるよ!?」
シルヴァが空になったパンの皿を抱えたまま、私の足元に飛びついてくる。
「始まったか。リィエル、主のいる現場へ案内してくれ。これ以上、美味しいパンの産地を荒らされては、私の研究に支障が出るからね」
「は、はいっ! こちらです!」
私は新米助手の小さな手をしっかりと握り、激しく揺れるテラスから、光る湖の最前線へと向けて駆け出した。




