第3章・第1話 :世界樹の麓、光放つ精霊の湖
鉄錆と煤煙の街『ザルツブルグ』を離れてから、馬車に揺られること数日。
私たちの眼前に広がったのは、先日の荒々しい岩山とは真逆の、息を呑むほどに美しい幻想的な光景だった。
――サラサラ、サラサラ……。
心地よい風が、見たこともないほど巨大な木々の葉を揺らしている。
視界の最奥にそびえ立つのは、雲を突き抜け、世界の天井を支えるかのようにそびえ立つ伝説の巨木――『世界樹』。その圧倒的な神威に、ただ圧倒される。
そして、その麓に広がるのが、私たちの目的地である『レミリア湖水地帯』だ。
「うわぁ……! せんせい、お水がピカピカしてる! お空の星くずが、お池の中に落っこちちゃったみたい!」
私の隣で、シルヴァが灰色の獣耳をピンと立たせ、きらきらと目を輝かせていた。
ドワーフの街でもらった銀のバッジを胸元で誇らしげに揺らしながら、湖の美しさに大興奮の様子だ。
彼女の言う通り、クリスタルのように澄み切った湖水は、太陽の光とは異なる独自の淡いエメラルドグリーンの光を放っている。
それは、この地に満ち溢れる濃厚な魔力と、水属性の精霊たちが活性化している証拠だった。
「そうだね、シルヴァ。ここは世界樹の根から溢れ出す純粋な魔力が、そのまま水となって溜まった場所なんだ。だから、普通の場所にはいない珍しい生き物がたくさん生息している」
私は歩みを止め、眼鏡のブリッジを指先でクイと押し上げながら、湖畔の草むらに視線を向けた。
(――『鑑定眼』)
瞳の奥で淡い知性の光が走り、目の前の生態系が瞬時にデータ化される。
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【名称:レミリア湖の水草(魔力結晶化)】
【品質:上級】
【特徴:世界樹の魔力を吸って成長した水草。微かな発光現象を伴う。乾燥させて煎じれば、最高級のマナポーションの原材料になる】
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「ほら、あそこを見てごらん。お目当ての『彼ら』がやってきたよ」
私が指差した先、光る水面から、ぽつり、ぽつりと小さな光の球が舞い上がった。
それは、手のひらほどの大きさを持つ、美しい結晶のような羽を持った美しい蝶の群れだった。
「わあ……! ちょうちょ! すっごくキレイなお羽なの!」
「あれは『フォトン・パピヨン(光殻蝶)』。日中は湖の底で眠り、夕暮れ時から夜にかけて、こうして水面に上がってきて魔力を放出する習性があるんだ。彼らの羽から落ちる鱗粉は、光合成を助ける不思議な力を持っていてね――」
私が博物学者としての解説を始めようとした、その時だった。
「――おい! そこのお前たち! 今すぐその場から離れろ!」
背後の鬱蒼とした森から、鋭い制止の声が響いた。
振り返ると、そこには美しい金髪をなびかせ、実戦用と思わしき見事な魔導弓を構えたエルフの少女が立っていた。
透き通るような白い肌に、尖った耳。植物の繊維で編まれた、隠密性の高そうな緑の軽鎧を身に纏っている。
「ここは私たちエルフ族が管理する聖域だ! 人間の学者と……そこの獣人の子供、観光気分で立ち入る場所ではない。今すぐ引き返さなければ、精霊の罰が下るぞ!」
エルフの少女は、強い警戒の眼差しで私たちを射すくめてきた。
エルフという種族は、総じて誇り高く、自然を荒らす他種族――特に人間に対しては強い不信感を抱いていることが多い。
シルヴァは、向けられた弓矢の殺気に少し驚き、私の背中へとトトトッと隠れてしまった。
「これは失礼。私たちは決してこの地を汚しに来たわけではありません。私は王都の博物学者、アルス。こちらは助手のシルヴァです。今回は『フォトン・パピヨン』の生態調査のために、事前に王宮からの通行許可を得て参ったのですが」
私は懐から、格式高い薔薇の刻印が押された『国家一級調査令状』を取り出して見せた。
しかし、エルフの少女はフンと鼻を鳴らし、弓を引く手を緩めない。
「王宮の許可など、ここの精霊たちには関係ない! 最近、お前たち人間がこの湖水地帯に踏み込んでから、森の様子が明らかにおかしいのだ。精霊たちは怯え、湖の主さえも狂暴化し始めている。これ以上、不浄な人間を聖域に通すわけにはいかない!」
なるほど、言葉が通じないわけではないが、相当な人間不信に陥っているらしい。
それに、彼女の言葉にあった「森の異変」と「主の狂暴化」という単語が、私の博物学者としての脳内アンテナにピクリと引っかかった。
「なるほど。精霊が怯え、主が狂暴化している、ですか。……エルフの狩人さん。君、その弓に塗っている『魔除けの香油』、一週間前に作った古いものを使っていませんか?」
「な……っ!? な、なぜそれを……!?」
少女の美しい眉が、驚きで大きく跳ね上がった。
「君の持つ弓の弦から、わずかに酸敗した『月見草』の匂いが漂ってきている。月見草の香油は、三日を過ぎると効果が反転し、逆に特定の水精霊を『激怒させる』悪臭へと変化するんだ。君が森を回れば回るほど、精霊たちがパニックを起こすのは当然の事実だよ」
「そ、そんな馬鹿な……っ! これは我が部族に伝わる伝統の製法で――」
「伝統を疑えと言っているのではない。今年の気候は例年より湿度が5%ほど高い。だから油の劣化が早まった、ただの科学的現象さ。信じられないなら、その弓を湖の水に浸してみるといい。怒っていた水精霊たちが、一瞬で静まり返るはずだ」
エルフの少女は動揺しながらも、私の言葉に押されるようにして、おそるおそる弓の先端を光る湖水へと浸した。
ジワァァァ……。
弓に付着していた目に見えない悪臭の成分が水に溶け出した瞬間、それまで波立っていた湖面が、嘘のように鏡のように静まり返った。
それどころか、近くを舞っていたフォトン・パピヨンたちが、嬉しそうに少女の周囲をひらひらと舞い始めたではないか。
「あ……、あ嘘……。精霊たちが、笑ってる……?」
少女は弓を握ったまま、信じられないものを見る目で私を凝視した。
「言っただろう? 自然を愛する気持ちは素晴らしくとも、正しい知識がなければ、良かれと思った行動が牙を剥く。……さて、誤解が解けたなら、案内をお願いしてもいいかな? その『湖の主の狂暴化』とやらについて、詳しく聞かせてほしい」
私は眼鏡の位置を直し、優雅に微笑んでみせた。




