07 オーバードーズ(Overdose)
ギブス・エッジが勝利した。
____エッジ! エッジ! エッジ!
ギブスは豪雨のように降り注ぐ歓声にサンバイザーを外し、それを高々と掲げた。まるで王冠の如く翻ったそれは歓喜と興奮をかき混ぜ、さらに嵐を強くした。
____エッジ! エッジ! エッジ!
彼は一昨年、二十二歳にして欧州世界大会で優勝した。二十二歳という年齢は若いが、過去の最年少記録を破るものではない。
彼を伝説としたのは、対戦相手が一昨年優勝、去年準優勝の大会常連”赤の城砦”ローマン・アメルハウザーであったことだ。
芝や他のコートと異なり、赤土は球足が遅くなる。一打で決めづらいこの環境は、選手の忍耐力が試される。スライディングにより自分も相手も守備が広いうえ、強打は鈍って決まらない。
総じてラリーが続く傾向にあり、技術は当然ながら高い精神力と体力、集中力が求められ、粘り強いタフネスな選手が勝利を手にする。人でありながら城砦と称されるローマンにはその全てがあった。難攻不落の城砦を思わせる防衛力、そして機を逃さないセンスの鋭さ。彼は攻防一体の巨城だった。
対してギブスのプレイスタイルは、彼がその名を世界に轟かせて三年経った今でもこれという名を得ていない。ごく普通で模範的、強烈なショットを持っているわけでも、特徴的な彼だけの何かを持っているわけではない。それでも彼は勝った。
彼が勝った。信じられない。どのコメンテーターも自分の語彙力の限界をその言葉で言い訳した。
そして今、彼はローマン・アメルハウザーを下した一昨年、ジョアキム・ベルコとの驚異的な延長戦を制した去年に続き、ついに”超人”アルヴァロ・ゴッティをフィンランドの自然とテニスを愛する一人の男に過ぎないと知らしめた。
接戦ではあった。一球一球が息を呑むような接戦。審判ですら身を乗り出し、手すりを握る両手は擦り切れて血が滲んでいた。
だが、気の遠くなるような夢の果てに、現実はただ淡々と勝敗を決断する。
「誰が予想できたことでしょう、若干二十四歳のギブス・エッジ____どうして彼のような人間がこの世に存在しているのか……」
世界各国の実況が声を震わせ、口元を押さえ、首を振る。
「アメルハウザー、ベルコ、そしてゴッティ____二十一世紀テニス界の三大王者、この十数年間、テニス界はこの三人によって支配されていました_____」
独占放送、国営放送、どのマイクにも声の震えや歯のぶつかる音まではっきりと聞こえた。
「そして今日、テニス界はついに、今日、エックスデイを迎えたのです____その名は、ギブス・エッジ____!!」
二十四歳にして欧州世界大会三連覇、三大王者を下すという偉業を成し遂げた青年は、優勝トロフィを手に、金色のメダルを首に提げて朗らかな笑みでインタビューに応じた。部屋のキャパシティ以上に詰めかけた報道陣はこぞって手をあげた。
「エッジ選手、優勝おめでとうございます。一昨年テニス界に現れたあなたがついに三大王者を下し、新たな王座についた今の気持ちを」
「気持ち? 誰が相手だろうと、勝った後は嬉しいものじゃないかな。負けて悔しい、勝って嬉しい、そういうものだろう」
「エッジ選手、あなたはテニス界のエックスデイと呼ばれていますが、そのことについては?」
「もっと短くてシンプルで、かっこいいあだ名がいい。なんとかうまいことこう……お願いするよ」
「エッジ、あなたはしかし、本当にエックスデイのようではありませんか? かつて地球を支配していた恐竜たちを一夜にして滅亡せしめた彗星の如く、数年前突然国際大会に現れたあなたを……マイアミの海はどうやってあなたを我々の目から隠していたというんです?」
「マイアミの海の深さは知らないけど、僕はずっとテニスをしていたよ。子供の頃から、地元のサークルで、学校の部活で、体育の授業で……でも、スクールには通わなかった。そうしようという考えがなかったんだ、僕にはもう先生がいたから」
「エッジ、あなたを育てたその名匠とは? 元イタリアU18のロックベル監督とは幼いころに交流があったという噂もありますが。それとも貴方が通っていたフロリダ大学の教師の中に?」
エッジはかすかに声を出して笑った。そして用意された水を飲んだ。「いずれにせよ」と彼は言った。
「ノーコメントだ」
「我々はあなたという存在を一昨年まで知らされずに生きることを強いられていました。エッジ」記者は猶も食らいついた。「あなたが打ち立てた偉業を思えば、あなたにはあなたを生み出した秘密をそろそろ我々に明かす義務があるとは思いませんか?」
「僕は別に、何も目新しいことをしているわけじゃない。皆さんご存じだろう、僕の試合を擦り切れるほどご覧だろうからね」
エッジは試合中に見せるような、まるでこちらの全てを覗き込むような途方もない光と鋭さを孕んだ瞳でカメラレンズを射抜いた。
「僕はただボールを打ち返しているだけさ。どんな速度の球でも、どんなコースにきた球だって、そこにラケットを当てて返す。焦らず。ただ打ち返す。それだけだ。だから僕はテニスが好きなんだ、シンプルなことはいいことだよ」
エッジはしばしば伝統的なスポーツ雑誌で批判される。それでも彼はこの持論を決して曲げたことはない。
「僕は一度だって誰かに勝ったことはないよ。テニスをしているだけなんだ。こっちに来たボールを、ラケットに当てて打ち返す。
ただそうしていたら、これまでの全員が勝手に負けてくれただけさ」
このインタビューが大々的に報道されたのち、ギブス・エッジは正式に”エックスデイ”の異名を我がものとした。無論ギブス自身の本意ではないが、彼が嫌がった渾名をつけて呼ぶことぐらいでしか、世間は彼に対する愛憎を打ち明けることが出来なかったのだ。
/
ニューヨーク。午前二時十八分。
キッチンのダウンライトのみが広いリビングを細々と照らしている。アイランドキッチンのカウンターに置かれた無骨な黒の携帯が振動し、それは天板とぶつかりあいながらじりじりと横へ移動していく。
伏せておかれた端末の画面にはメッセージアプリの通知バナーが間抜けなバブル音と共に浮かび上がっていた。
>ハイ!
>今どこ?
>女王陛下に電話したら三秒で切られたんだけど、
マイアミで最近負け戦でもあったのかな?
>ヘーイ
>既読がついていないのは読んでないの?
それとも?
>さてはアプリを開かないようにして読んでるんだね?
>僕にその手は効かないよ、慣れてるからね
>ちょっと相談したいことがある
>ベルがいいところのレストランを押さえてくれてさ
>二人きりで会えないかな
>いい返事しか聞かないよ、先生 =]
>(人気映画のキャラクターが壁からこちらを伺うスタンプ)
>僕はいいけど年下相手に30分以上の既読無視は「死ね」と言ってるのと同じだぜ!
優勝おめでとう<
携帯に国際時計のアプリがあるだろう、ニューヨークを登録しておいてくれ<
こちらは今夜の二時だ<
>XD
>ごめんごめん、飛行機の中で
>でも二度寝する前に新居のアドレスを返信しといてよ
>住所を教えてくれれば、ニューヨーク一等地の新居に
飛行機とホテルのチケットを入れとくからさ、先生と奥さんの二人分
おかまいなく<
それに飛行機のチケットならもう持ってる<
俺と依頼主の分<
>可愛い弟子の誘いを断るなんて、今回の仕事相手はどこのVIPだ?
守秘義務がある<
”先生”によろしくな<
そこまでメッセージを送ってしまうと、ラニウスは自分の携帯をスラックスの尻ポケットに入れ、そして冷蔵庫から取り出してすこしぬるくなった水入りのペットボトルを手に寝室へ向かった。
アレクシスは手足を広げてベッドに寝転がり、天井を睨みつけていた。
「サンフランシスコに行く」
「寝言は寝てから言ってくれ」
ラニウスの胸元に薄く横長の箱が押し付けられる。箱はマットな質感の黒に金色のリボンが中途半端にほどけたまま絡みついている。
ラニウスは箱を受け取ってサイドテーブルに置いた。不必要なキングサイズのベッドに間接照明、壁に映像を映して楽しむプロジェクターと音響専用のステレオスピーカー、ぐにゃぐにゃした線が数本描かれてただけの絵画。そして目の前にはおねむな男。
「寝ろ。一刻も早く、水を飲んで……」
「サンフランシスコに行く」
「そうだな、ああ、夢の中で行くといい。ベイカービーチで好きなだけ泳げ」
「箱の中にホテルチケットあるから、裏面に印刷されてる専用コードから予約しろ。仕事が入ってない日ならいつでもいい、出来るだけ早くな」
「夢の中でやっておく」
「俺が寝る前にやれ」
そう言った途端アレクシスはベッドに倒れ、それから一言も口をきかなかった。エクラサミット以来毎日のように続く嵐のような取材や財団関係者とのパーティ、顔合わせ、挨拶回り、取材、撮影、取材、そして取材。今日の仕事は終わったが、明日は明日で化粧品ブランドのコンセプトポスターの撮影が入っている。アレクシスがストレスを溜めていることは明らかで、ラニウスは可能な限りそれを取り除こうとし、少々手荒なオーダーには応えてきた。だがサンフランシスコは話が違う。
ニューヨークからサンフランシスコまでは直行便でも片道六時間以上かかる。そのうえ一般客と同じグレードの席は使えないため、必然的に予約枠は少ない。ただでさえエクラサミットで注目度が上がっているこの時に往復半日かけてバカンスに行くのはコストが高すぎる。
ラニウスは寝室にあるカウチに腰を下ろし、押し付けられた箱の中からチケットを取り出した。裏面の閃光バーコードを読み取れば、如何にも高級そうなプライベートプール付きのリゾートホテルのシルエットがベイカービーチを背景に浮かび上がる。
正直行きたくはない。アレクシスがオフの日に勝手に行くならまだいいが、予約をしろと言われているということは上手く過密スケジュールの合間を縫ってこれをねじ込めということで、そうなれば前後の仕事への影響がないよう調整と監視を兼ねてラニウスが随伴する必要がある。
ベッドに顔をうずめたアレクシスの寝息が聞こえる。やわらかいマットレスとシーツに全身で溺れるようにして、寝息は若干苦しそうでさえあった。
ラニウスがアレクシスの顔を埋め立てようとしているクッションやシーツを上手くどけてやると、風呂上がりでやけに艶々した頬が見える。帰宅早々ソファで寝ようとしたアレクシスをベッドへ運ぼうとしては、風呂に入っていない状態でベッドに上がるなと謎の叱責を何故かラニウスが食らい、シャワーを浴びる気力が無いから浴槽に湯を溜めろと言われ指示に従えば案の定湯船で寝始め、引きずり出して今度こそ寝室へ運びこみ帰ろうとすればやれ化粧水を持ってこいこれは違うブースターが先だまだ肌が冷えてないビタミンじゃないナイアシンアミドのやつだと終始理解不能な単語を並べ立てられ、それらもクリアしてようやく終わったかと思えばサンフランシスコに行きたいと言い残して寝た。
「誰がやるか」
そう言いながらラニウスは携帯をスラックスのポケットに押し込んだ。明日も仕事だ。スケジュールは共有され、このマンションを出立する時刻については何度も繰り返し伝えたが、アレクシスはきっと起きてはいないだろう。ラニウスは出立予定の二時間前にはこの部屋についていなければならない。そこからさらに逆算して自分の食事や朝のルーティーンを済ませなければならない。
____始めの頃はもう少ししっかりしてなかったか?
ラニウスは不可解に思った。一体どうしてこんなに堕落した? エクラサミットを恙なく終えたことで気が抜けたか? いや、それはない。それはこの男のプライドと警戒心を薄めるには足らない。単に疲労とストレスが溜まって言語中枢がバグっているのか。
サンフランシスコに行って帰るだけで十二時間。それは本来休息に当てるべきだ。移動する飛行機の座席で過ごすのではなく、清潔なベッドに横たわり、充分な水分補給と共に過ごすべきだ。
ラニウスは業務用携帯端末を操作し、ベイカービーチの夕焼けとホテルのシルエットを消した。そして歴史的居城を支える城壁のように隙間なく並んで摘まれたスケジュール表を眺め、スクロールする。
____来週、カリフォルニア州ハリウッドへ行く仕事がある。映画祭への招待を受けているのだ。前日はニューヨークでSNS更新用のデータ作成、撮影となっている。
____サンフランシスコもカリフォルニア州。
ラニウスはため息をつき、そして携帯端末を耳に当てながら腰を上げた。アレクシスがもっと怠惰な人間であれば、自分自身にしかプライドが無い男であればよかったのだ。だが現実はいつだって望むようにはならない。
現実は常にラニウスの期待と想定をここぞというタイミングで裏切って来る。
サンフランシスコに発つ日の当日、ラニウスはいつもどおりこの数カ月で随分着慣れてしまったスーツ姿でニューヨーク一等地ホテルのエントランスにいた。時刻は午前八時三十四分。
「八時半にエントランス集合だ。姿が見えなければ置いていく」
前日そういったラニウスに、アレクシスは「分かってる」と言った。録音すべきだったな、とラニウスは思う。だがあの男は妙に勘が鋭い。録音されていると察すれば黙りこくって頷いただけだったろう。
まだホテルの住民たちの大半も起きていない。エントランスを挟んで向こうのフロントに控えているコンシェルジュは時々ラニウスに視線を送り、そして何度か用向きを自ら伺うべきか悩んでいるようだ。
ラニウスはサングラスごしに遠くのエレベーターホールに据え付けられた壁掛け時計を見た。今まさに長針が一周し、時刻は午前八時三十五分になった。
溜息。
ラニウスの足元には小ぶりなキャリーケースがあった。ラニウスはそれを転がしながら歩き、そしてエレベーターに乗る。もうコンシェルジュはラニウスを引き留めたり、その身分証明を求めはしなかった。
アレクシスの部屋の前まで行き、ラニウスはインターフォンを鳴らす。ドア越しにベルの音が聞こえる。
ポーン、と音の余韻が響き、消える。
無音。
誰かがこちらへ歩いてくる足音一つしない。
もう一度ベルを鳴らす。反応はない。
ラニウスは懐から合いかぎを取り出し、ドアを開けた。玄関はいつも通りこざっぱりしていて、あとは持っていくだけというようなバッグの一つも置かれていない。
ラニウスはキャリーケースをそこに置き、自分はさらに先へ進んだ。広いリビング、アイランドキッチン。大概が果物と水入りのペットボトルで埋め尽くされた巨大な冷蔵庫の扉には、マグネットでサンフランシスコ行きの飛行機のチケットと荷物のチェックリストが張り付けてある。いずれも新品で、リストにはただの一つもチェックがされていないまま。
寝室のベッドでは案の定アレクシスが体を丸めて熟睡していた。
ラニウスは枕元に立ち、カーテンリールのリモコンを入れた。途端、健やかに寝入っているその顔めがけて強烈な日差しが差し込み、アレクシスが顔をゆがめる。日差しから自分を守るようにさらに丸くなる。
「んだよ……」
「おはよう」ラニウスは淡々と言った。「サンフランシスコ、フライト、時間が無い」
「…………あ?」
「サンフランシスコ」
サンフランシスコ、とアレクシスが復唱する。ラニウスは腕時計を確認した。何をどう見積もってもあと二十分以内にここを出なければならない。オンシーズンのサンフランシスコ行きのファーストクラスは満席だ。一般席にはまだ空きがあるが、アレクシスをそれに乗せるのなら取り急ぎ彼の特徴的なその髪を全て剃り落とさねばならない。
アレクシスはどうにか身を起こしたが、ベッドに突っ張った腕は粗末な小屋のように崩れた。
「おい」
「あと一時間寝る……」
「サンフランシスコ行きをキャンセルするというなら一時間と言わず好きなだけ寝ていい」
「なんとかしろ……」
「一時間かけてお前の頭からサンフランシスコの存在を消せってことか?」
寝息が返ってきた。ラニウスは本気で、枕もとのカウチに腰を下ろしこの男が自然に目を覚ますまで何時間でもここに居座り、そして緻密な計画が崩れたことに対する反省を求めようかと考えた。目が覚めた時、おそらく日が傾いているであろうニューヨークの空を見てこの男が落胆なり憤慨するさまを眺めていれば、少しは自分の胸もすくだろうか?
ラニウスはアレクシスが完全に眠ったのを見て、サングラスのレンズを少し押し上げた。
二秒寝顔を眺め、ラニウスは舌打ちをした。それは自分自身に対する舌打ちだった。
キッチンへ戻り冷蔵庫に貼り付けてあったチケットとチェックリストを引き剝がす。貴重品、必須のサプリメント、当日の服、歩きやすい靴、必要最低限の化粧品。たったこれだけのものをどうして昨日寝る前に用意できなかったのか? そう思いながらウォークインクローゼットから目についたスポーツバッグをひったくるようにして、ベッドの枕元にあるアレクシスの携帯を内ポケットに突っ込む。それから紫外線を遮るための帽子と何かあった時の着替えをワンセット、今日この後たたき起こして着せる服も適当に枕元へ、キッチンに戻り開いたドアの右手にストックされているビタミン剤をピルケースに移し替える、DHA、ハトムギ、乳酸菌……アレクシスが寝る前に何を飲んでいるかは何度か見ている、それから玄関____へ向かいかけてUターンし、ギフティングが山をなしている物置部屋から新品のスポーツサンダルを取り出し、袋に入れ替えてバッグへ、あわせてお誂え向きに洗顔から保湿クリームまでワンセットになっている化粧品のギフティングをポーチに入れ、浴室からはヘアオイルをわずかにフリーズパックに詰め替え、保湿ミストのスプレーボトルと日焼け止めだけバッグに入れる。
チェックリストがすべて埋まった。ラニウスはアレクシスの財布の場所に心当たりがあったがやめた。金を持たせるとこの大きな子供はさらに遠足をぶち壊しにするだろう。一度立て替えて、後で領収書を提出すれば済む話だ。
「アレクシス、起きろ。もう猶予が無い」
アレクシスはまだベッドで丸くなっている。丸さが増した気がする。日差しが当たって暑いのか、毛布とシーツはベッドの外に蹴り落とされていた。
「起きろ」
応答はない。ラニウスは自分の携帯のボイスレコーダーを起動し、ポケットに戻した。「現在時刻午前八時四十七分、依頼者のサンフランシスコ行きを達成するため複数回にわたる呼びかけをしたが応答なし、意識がない。これから搬送する」
そしてラニウスはアレクシスを担ぎ上げ浴室へ向かった。途中でアレクシスが流石に異変を察知して目を開けたが、そのときアレクシスの目に移ったのは真っ白な洗面器と底に流れる水だ。
「……あ?」
「洗顔」
「なん、」
「洗顔と歯磨きを一分以内に済ませろ」
「はあ?」
ラニウスが洗面台の前にアレクシスを下ろし、彼が混乱しながらも顔を洗う間に歯ブラシにホワイトニング用のチューブを絞る。そして顔から水滴を垂らしているアレクシスの口に歯ブラシを咥えさせると、化粧水を含ませたコットンでその顔を叩いた。いつもアレクシスがそうしていたとおりにしたが、力加減が違ったのか
「お前化粧水つかったことねえのかハゲ!」
「ハゲてない、剃ってるだけだ」
一分と十三秒で歯磨きまで終え、流れでシャワーを浴びに行こうとするアレクシスの襟首をつかんで寝室へ引き戻し、ああだこうだと用意した服にけちをつけられながらも着替えをさせる。
「八時五十六分。エレベーターでエントランスまで移動しても二分かかるかどうか、なんとかなったな」
「お前は最低限のコーディネートを学べよマジで……」
車に乗り込んで発進する。道路は正午の混雑ピークを迎える前で、渋滞は起きていない。
ラニウスは「何が悪いんだ」とバックミラーごしに尋ねる。後部座席で毛先が濡れたままの髪をしきりに手櫛で梳いているアレクシスは柄のない白のTシャツにジーンズというこれ以上なくシンプルな格好だった。
「こういう服の時はせめてアクセサリーをつけないと締まらねえだろ」
「何が? ジーンズのチャック?」
運転席が蹴られる。「やめろ」ラニウスが言った。「そもそもお前寝るときでもつけているだろう、今だってつけているじゃないか」
「これは細身すぎる」アレクシスの首と左手首には銀のチェーンが巻き付いている。
アレクシスは落ち着かない様子でラニウスが詰めたスポーツバッグの中身をあさっていたが、当然その中にアクセサリーなど指輪の一つも入ってはいない。「ありえねえコイツ。指輪の一つもなし?」
「お前の寝坊癖のほうがありえないだろ」
「マネジメントはお前の仕事だ」
「不当な請求に毅然として異を唱えることもまた就業環境の健全化にためのマネジメントだ」
アレクシスが助手席のリクライニングを後ろから抱きしめるように顔を覗かせる。そして彼のくっきりした青い目は、ハンドルを握るラニウスの手首に巻かれた腕時計を見付けた。見つけてしまったというべきか。
「それでいい、貸せ」
「は?」
「腕時計を寄こせ。もっといいもん後で買ってやる」
ラニウスは自分の手首に巻かれた腕時計を見た。何の変哲もない防水性の腕時計だ。頑丈で、いつ買ったかも覚えていない。少なくとも購入時に記憶に残るような価格ではなかった。
ラニウスは信号待ちの時にそれを外し、アレクシスに渡した。「お前は理解不能だ」
空路の六時間をアレクシスはほとんど寝て過ごした。起きている間は水を飲むか、機内食を食べるか、SNSを見ていた。ラニウスがアレクシスを軽蔑しきれないのは、彼が機内食を綺麗に平らげたり、寝ているときの静けさによるものだった。これでいっそ食わず嫌いだったり、寝ているときの歯ぎしりがひどかったりすればむしろ楽だったのに、とラニウスはしばしば思うことをこのときもまた思った。我儘に淵回されて嫌気がピークに達しようとしたその瞬間、まるでそれを嗅ぎつけた獣のようにアレクシスは急に大人しくなる。
彼の機嫌の乱高下の関数とラニウスの嫌気の関数は定数が近いらしい、まったく嬉しくないことに。
サンフランシスコ国際空港から海へ向かって車で数十分の立地にホテルがあった。強い日差しに漂白された淡い色の空と濃いエメラルドの海、遠くに見える真っ赤なゴールデンゲートブリッジ。ホテルは一階に広々としたフロントと、開放型の大型カフェテリアがあった。レストランやショップがある二階の共用フロアまでは吹き抜けで、三階以上は宿泊客専用の娯楽施設が数階あり、それ以上は全て客室だ。
部屋についてラニウスが粗方室内の構造や不審物を確認すると、アレクシスはこの頃になってようやく完全に目が覚めたのか、普段通りのうすら笑みを浮かべて早速バルコニーにあるプライベートプールを写真に撮っていた。
「ご希望のサンフランシスコはどうだ」
「まあまあ」
「明日は午後にハリウッド入りだぞ」
ニューヨークの自宅と遜色ない広さの客室は、最低一週間は滞在しなければ全ての部屋とアメニティを使いきれないほどのものだった。コンロが無いだけのキッチン、ダウンライトを吊るしたバーカウンター、巨大な薄型テレビにベッドソファとカウチ、窓は枠のない天井から床までのぶち抜きで広いバルコニーには専用プールとジャクジーがある。
「今日は二十二時就寝を厳守してもらう。明日は八時起床、朝食九時開始、十時には出立の準備を全て整えてブリーフィング、昼食後十三時に此処を出て空路、十七時定刻の三十分前には現地到着。異論は認めない」
「もっと面白い話出来ねえのお前」
「今朝の朝寝坊があと三十分長引いていた場合の損失の話をするか?」
アレクシスは獣のように歯を剝いて威嚇した。ラニウスが無反応でいると、アレクシスの手に持っていた携帯が振動する。ラニウスの業務用端末が震えないのでプライベートな着信だろう。アレクシスは画面をちょっと見てすぐに携帯をプールサイドの長椅子へ置いてしまった。着替えてくるというので水着に着替えるのだろう、この部屋にはアメニティの一環でそのままビーチやプールに入れる軽装が置いてある。
アレクシスの携帯はその後も何度か短くバイブレーションを起こした。ラニウスが「鳴ってるぞ」と声をかけると、早速薄手のハーフパンツのみになったアレクシスは「ああ」と気のない返事をしてそのままプールへ行った。
真昼間のベイカービーチに繰り出そうとしたら昏倒させるつもりだったが、流石にそこまで本人も自分の立場に無頓着ではないようだ。エクラサミットでの凶行は業界の身の噂に収まるとしても、明日ハリウッドで開催される映画祭の前にサンフランシスコで騒ぎを起こせば大問題になる。
「お前も泳げば?」
ラニウスは自分のキャリーケースから取り出した双眼鏡で周囲を見ていた。背後では純白なタイルで飾られたプールを悠々と泳ぐアレクシスがいる。プールは客室の窓際から突き出た三角形の軒先で一部影になっているが、そうでないところは強烈な日差しで、アレクシスの肌は髪とほとんど同じぐらい白く見えた。
「日焼け止め塗ったのか」ラニウスは双眼鏡で周囲を見たが、同程度の高さの建物はまずない。地上からこちらを伺う不審者もいない。
「機内で塗ってる」
「ウォータープルーフ?」
アレクシスが少し笑ったようだ。初めてこの単語を聞いたのはマスカラについてアレクシスがラニウスに教えた時だった。これが寝る前につけるやつ、これは下地、これはボリューム、これはウォータープルーフ、それでこれが…… 防水性ってことか? まあそうだな、こっちもウォータープルーフだけどフィルムタイプで負担が少ない、ついてこれてるか? ……おそらく。
ラニウスの足元に水がかかった。
「なんだ」
「サンフランシスコの景色を邪魔するな。お前もそのダサいスーツ脱げ」
「結構だ。邪魔ならどける」
ラニウスはそう言ってバルコニーの隅にある一人掛けのベンチへ移動したが、アレクシスがプールから上がり、冷ややかな目で双眼鏡を奪い取った。そしてそのまま双眼鏡はアレクシスの手を離れ、鋭角の放物線を描いてプールに落ちた。
「……満足か?」
「わりと」
双眼鏡は防水性だ。それよりも椅子に座ったラニウスを見下ろすアレクシスの全身から滴る水がスーツを濡らしている方が問題だった。ラニウスの機嫌とアレクシスの機嫌に反比例の法則があるようだ。ラニウスが溜息をつくとアレクシスは上機嫌になる。数時間前までニューヨークのベッドで「あと一時間寝る」と豪語していた男と同一人物とは思えないほどに。
風が吹き、アレクシスの濡れた髪を揺らす。丸々と太った水滴がまた勢いよくラニウスの腹や膝に落ちる。スーツが張り付き、濡れた感覚とサンフランシスコの気温とで蒸される感覚。
「ハア」
と、ラニウスは声に出して息を吐いた。億劫だと分かるように緩慢な態度で椅子から立ち上がるとジャケットを脱ぎ、下に着ていたシャツも脱ぎ捨てる。靴を脱ぎ、靴下を脱ぎ、スラックスをまくってプールサイドに腰を下ろした。子供の水遊びのように投げ出した足だけを水に浸す。想像より水は冷たい。
「これでいいか」
泳げと言われたら断固拒否するつもりだった。だがアレクシスはプールに戻った後も、まるで物珍しい人間を目にした水生生物のようにラニウスの周りを漂うようにして泳いでいた。妙に真剣な目で見つめてくるのでラニウスも黙っていた。
「お前筋肉やべえな」第一声がそれだった。
「やばいってなんだ。やばくない、正常だ」
「正常ではねえだろ」
「お前が俺の胸筋をやたら気に入っているだけだ」
「俺がデカい胸なら何でもいい男みたいに言うな」
「違うのか」
「違えよ」
アレクシスはまるで美術品の真贋を確かめるように目を眇めている。様々な角度から眺めているその視線によこしまなものは一切感じられず、だからこそラニウスは居た堪れない気分になった。
「……お前、もしかして全身脱毛してる?」
ラニウスは首を傾げた。
「しているが」
水飛沫が立った。水面に向かって噴き出したアレクシスは自分で自分の顔面をずぶぬれにし、中途半端に腕組をしたような態勢でプールに立ち尽くしている。彼を震源にして細かい波がたっている。アレクシスはひきつけを起こしたように小刻みに震えている。
「それがなんだ」
「おま、」アレクシスはかぶりを振った。「お前、なに? なんで脱毛してんの?」
「中長期の行軍や野外作戦、潜入において衛生管理は重要かつ深刻な問題だ。衛生的であるために剃った、それだけ」
「美容脱毛の光レーザーで?」
「医療脱毛」
アレクシスがのけぞって背中からプールに沈んだ。ラニウスはいつかアルゼンチン沖で見たミナミセミクジラを思い出した。あの時は奇跡に等しい希少生物との遭遇に感動する暇がなかったが、今日になってその感動を遅れて感じた。
ラニウスは日陰に沿ってすこしプールサイドを移動した。そうしていると大の字になったアレクシスが浮かんできた。
「生きてるか?」
「フ、フフ……じゃ、ッフ、お前毛生えてんの鼻と顎だけ……?」
ラニウスは閉じた口を曲げた。サングラスで顔の半分が隠されているために、口元をひん曲げるとカートゥーンアニメの悪役のような不機嫌顔になる。だから頭は剃ってるだけで生えているんだと言いたかったが、それを言えばアレクシスがますます喜びそうだった。
「顎は生えない」
「ッフ____」
「顎も脱毛したから」
「! ヒ______っひ」
「もういいか?」
医療脱毛をしていることのなにがそんなに面白いのだろう。ラニウスは本気で不可解だった。何か本人の中で無自覚にため込んでいるストレスが彼を壊してしまったのではないかとさえ案じた。
「お前が医療脱毛でレーザー当てられてびくついてるところを想像した」
「楽しかったか?」
「最高だ」アレクシスが頷いた。「でも医者は怖かっただろうな」
「それは知らん」
「痛かったろ、俺もやったから分かる」
「あの程度痛くもない」
「嘘つけお前」
「医者には毛が太いですねと言われた」
「俺を殺そうとしてる?」
「他人の脱毛話に笑い死んだらダーウィン賞を受賞できるな、おめでとう」
プールから上がったアレクシスは濡れた体のままプールサイドの長椅子に横たわる。生成りのクッションやタオルケットの中に沈み込み、ここに来るまでの不機嫌ぶりが嘘のようにニコニコしている。
「この数カ月お前に対して純粋な好意を抱けたためしがないが、休暇を満喫できているなら嬉しいよ」
「面白い話しろ」
「前言撤回」
「あと飲み物」
「水なら飲み放題だぞ、今ならサンフランシスコ限定のカルキフレーバーが」
「面白い話をしろ」
「どうして俺とお前は同じ言語を使っているのにこうも意思疎通ができないんだ?」
ラニウスはプールに足を浸したまま空を仰いだ。さっさと沈めと太陽に願ったが、逆に他の階層で同じようなプライベートプールに今まさに出会ったらしい宿泊客の歓声がかすかに聞こえてくる。
「俺が医療脱毛を受けたとき……」
「それはもう飽きた」
ラニウスはサングラスの中で固く目を瞑った。バカンスの予定をどうにか確保し、ねじ込み、ホテルを手配し、バカンス用のごく最低限の持参品チェックリストを作り、それらを無視されてもどうにか軌道修正し、現地に着くなり服を脱がされ、全身脱毛を散々笑い話にされた挙句、恥を忍んで娯楽にしてやろうと気を使った瞬間に“もう飽きた”だ。
「早くしろ」
「……お前が毎朝塗っているあれはなんだ」
寝転がっているアレクシスが両方の眉を上げた。ラニウスは自分の頬の高い部分や、鼻の脇、唇の端を指で示した。
「絵の具みたいなものを塗っているだろう」
「絵の具?」
「グリーン、イエロー、オレンジ、ピンク、パープル、ブルー、ホワイト、ベージュそれから赤みのないグレーのようなブラウン」
アレクシスの眉間に皴が寄る。「は?」アレクシスが上体を起こした。
「お前まさかコントロールカラーのこと言ってる?」
「多分それの事を言っている」
「絵の具じゃねえよ!」
「それは今理解した。だが結局絵の具みたいなもんだろう、幼い子供用に口に入れてもいい絵の具が販売されている、あれとだいたい同じ……」
「お前、お前____馬鹿かお前? 俺が毎朝せっせと顔に絵の具塗ってると思ってたのか?」
「たまに色を混ぜたりしていたし筆を使ってたからてっきり顔用の絵の具かと」
「あれは俺の肌の色にあうファンデーションが無いから混ぜて作ってるだけで、その日の体調とか服装に合わせて質感を変えてんだよ」
「そうか」
「わかってねえな」
「そういうものだということで認識した」ラニウスは首を傾げた。「同じ場所に日によって違う色を塗っているのは何故だろうと思っていたがそういうものか。寝不足の日にオレンジを目元に塗っていたのは補色の関係で青黒いクマを」
「それ以上喋ったら殺すぞ」
「……頬についてる色のついてないきらきらしたやつは?」
「ハイライト」
「なんで鼻筋にもつける、鼻にはもう黒い粉塗ってあるだろ」
「鼻を高く見せるため。あと黒い粉なんて塗ってねえよシェーディングだアホ」
「今言うことではないかもしれないが、お前たまに口紅を本来の唇の外まで塗ってるぞ。鏡をちゃんと見ろ」
「わざとそうやってんだよ」
「どうして。折角綺麗な唇をしているのに」
気づけばラニウスはプールに突き落とされていた。アレクシスの機嫌は悪くなっていて、ホテルの床には濡れた足跡が主賓室まで点々と続いていた。序盤は面白がっているようなそぶりだったが何が気に入らなかったのか、やはりラニウスには理解できなかった。
夕方に一度、人気が引いてきたベイカービーチを歩きにでも行くかと主賓室に声をかけたが、中でなにやらスプラッタ系のドラマ化映画を見ているアレクシスからの返事はなかった。
日没寸前にようやく部屋から出てきたアレクシスは不機嫌そうではなかったが、濡れたまま寝転がっていたのか髪に変な癖がついていた。部屋まで運び込まれた夕食を広いキッチンテーブルに並べ、バルコニーに向いた窓を全開にして食べた。ちょうど凪の時刻だったらしく吹き込む風はほとんどなく、オーガニックな野菜や新鮮な海鮮をふんだんに使ったカルパッチョやフライ、パエリアを散々味わった後、アレクシスが無駄に注文したよくわからないスノードームのようなケーキまで並んだ。許容カロリーの範囲内であったことと、あくまでオフでの食事ということでラニウスは何も言わなかった。
どうせ半分も食べたら本日の我儘ノルマのため「残りやる」と言ってくるだろうと思っていたし、実際そうなった。
「残りやる」
「全部食えるものを頼め」
「一番小さい奴でこれだったんだよ、チョコレートケーキはニキビ出来たら困る」
「本当はそれがよかったのか」
アレクシスは椅子の上に器用にあぐらをかいて「別に」と窓の方を向いた。空は薄紫色に陰り、遠くの水平線に沈みかけの太陽の残光が赤く潤んでいる。
くぐもったバイブレーションの音が聞こえた。アレクシスの携帯は主寝室にある。固いサイドテーブルの天板とぶつかって、音がキッチンまで聞こえてきた。ラニウスはケーキを食べながら「鳴ってるぞ」と言った。アレクシスは返事をしない。
「アレクシス、携帯が鳴っている」
「うるせえな、分かってるよ」
「昼間も鳴っていた。折り返すなり着信拒否にするなりしろ、寝ている最中に鳴ったら睡眠が妨げられる」
アレクシスが勢いのいい溜息をつき、主寝室へ行った。彼は電話を取ったらしい。ごもごも喋る声がして、意外だったのはアレクシスが妙に下手に出ている様子なことだ。
電話はすぐに終わり、アレクシスが戻って来る。そのままキッチンを横切ったかと思えばバルコニーから水飛沫の音がした。
ラニウスはケーキの皿を持ったまま窓際へ行き、頭からプールに飛び込んだアレクシスがそのまましばらく水中に潜って泳ぐのを眺めていた。携帯は流石にプールサイドに避難させられていた。
「席をはずそうか?」
「なんでだよ、そこにいろ」
アレクシスが水面に浮かび上がると同時に、プールの底がうっすらと点灯した。アレクシスの顎や首筋を伝っていく水滴が白く玉のように光っている。
「つーかお前いつまでサングラスしてんだ、もう日も落ちたし、そもそも屋内だろ」
ラニウスはケーキを大きく切り分け、それを頬張った。アレクシスが鼻で笑った。
「お前」アレクシスが言った。「俺の出身がどこか知ってるか」
「テキサス州」
アレクシスがまた笑った。ラニウスは正解を言い当てた。アレクシスの出身はあらゆる雑誌や公的な場面で発言した覚えはないが、ネットや雑誌の表現上ではニューヨークであるかのように書かれている。少なくともそこにテキサスの文字はない。
「この業界に入ってから長い間、テキサス訛りがあるって色んな奴に言われたよ。半分寝てるみたいにだらしなくて、はっきりしない発音だって」
「偏見だな」
「でも当時の俺はそれを真に受けて、テキサス出身の俳優ばかり出てる映画と、テキサス出身者がいない映画を何度も見比べて、聞いて、それで矯正しようとした。でも矯正し終わる前に俺が売れ出したら、誰も俺の訛りに気づかなくなった。以前俺の発音が悪いって言った奴とは会えなくなってそれきりだ」
「矯正はしたんだろ」
「完全じゃない。お前に気づかれた」
「職務上知りえた秘密情報について契約期間中は勿論、期間終了後三年に渡って秘密とすることになっている。お前がこれを秘密情報だと指示すれば、俺は誰にも漏らさない」
「別に隠してるわけじゃない。ただ好きで触れたい話題でもない、家族のことは。俺が色物だからな、家族までそういう目で見られるのは御免被る」
その言葉で、ラニウスは今日アレクシスの携帯にかかっていた通話がテキサス州の彼の実家からであることを悟った。だが少なくともラニウスがアレクシスと一日の大半を共に行動するようになって数カ月の間、彼が実家から連絡を受けていた素振りは無かった。メールやチャットはあったのかもしれないが、今日ほどの着信はなかった。
ラニウスはケーキを綺麗に平らげ、その他の皿とあわせてワゴンへ戻した。どの皿も綺麗なものだ。重ねて入れればどんな素人でも運び込まれた時のワゴンに全て納められる。
「言いたいことがあるなら言えよ」プールサイドのベンチに座ったラニウスにアレクシスが言った。「上から目線の説教はお手の物だろ」
「俺を警戒するな。疲れるだけだし、俺はお前に危害を加えるつもりはない」
「家族を大事にしろとか?」
「俺はお前の家庭環境を知らない。ただ事実として、今の状況にあるお前を害そうとして出来る奴はそういない。それが法的に、お前へあれこれ干渉することが最も強く認められている親だとしても」
ラニウスの目から見て、アレクシスは過剰なほど警戒心が強く、物事への反射神経がよく、そして個人で保有する資産も十分にある。有事の際には自分の身を自分で守ることへの意識も高く、それが出来ない場合に投げ打てるだけの資材も有している。
「逆に、お前の方が家族に対してなにか害をなしてしまうのではないかという懸念についても、そう深刻に考えなくていいだろう。少なくとも俺の目が黒いうちはお前は三十分以上の朝寝坊も出来ない」
「俺の寝坊がテキサスにどんな悪影響を及ぼすって? いつまで引きずってんだよ」
「俺は執念深いぞ」
「ケーキやっただろ」
「ケーキはいらんから時間に余裕を持って寝起きしろ」
また携帯が振動した。今度は短く、何度か振動してそれきりだった。アレクシスが顎で指す。ラニウスはアレクシスの携帯を取り、画面をプールの中央に立っているアレクシスへ向けた。足元からのライトアップで照らされたアレクシスの目は昼間より透き通って淡い青色になっていて、そのせいか顔認証がなかなかうまくいかなかった。
最新の通知バナーにはメッセージアプリのアイコンと、短い動画が添付されていた。アレクシスが画面をタップする。動画が再生された。
そこは強烈な西日に照らされた芝の庭だった。ぽつぽつと中途半端なところで折れたり曲がったままの木の柵が生えていて、師ばかりを怠っているのか草は大分長く生えている。遠くに逆光で黒い人影が立っているのが見える。
『OK、いいわ!』
溌溂とした女性の声がした。すると遠くの人影がばねのように少し跳ね、かと思えば長く生えた芝が突然激しく揺れ出し、その間から白と黒の毛むくじゃらの何かがよぎった。
『いけ! いけ!』低い男の歓声が聞こえた。『サイダー! ぶっちぎってやれ!』
『負けた方はおやつ抜きよ』撮影している女性の声はクリアだ。『さあ、おやつを食べられるのはどっち?』
カメラが下を向き、そこだけ綺麗に刈られた芝の道を履き潰れたサンダルが左右交互に進んでいく。そしてあるとき、細長い鼻先がぬっと突き出た。
舌を垂らし、激しく息をきらしているのは二匹のボーダーコリーだった。片方は全体が黒で鼻先だけが白く、もう一匹は全身真っ白だ。黒いボーダーコリーが大きく吠えて勝利の報酬をせがむのに対し、白いボーダーコリーは哀れっぽく鼻をピーピー鳴らしている。
『ラリホー! サイダーが勝っ、』
動画はそこで急に終わった。
ブラックアウトした画面に、アレクシスとラニウスの顔が映り込む。二人とも神妙な表情だった。
「今のは?」
「実家の犬」
「当てるまでもないが、白い方がサイダー? 黒いのが……」
「コーラ」
ラニウスが指を伸ばし、動画の再生キューを初めまで戻す。再び始まろうとしたテキサスでののどかな一幕をアレクシスがさえぎった。
「やめろ、触んな」
「もう一度見せてくれ」
「駄目だ」
「だったら初めから見せるな」
言い合う二人の真下で携帯画面が再び点灯する。通知バナーには短いメッセージがついていた。
>今度安全ベルトを忘れたらおやつ抜きよ
「エクラサミットでの記事を読んだんだと」アレクシスが濡れた前髪にふっと息を吹きかけた。「俺が紐無しバンジーをしたんだって思い込んでる」
「間違いではない」
「間違いしかねえだろ」
ラニウスが画面の再生ボタンを押す。すかさずアレクシスが一時停止ボタンを押した。
「他に動画は無いのか」
「無い」
ラニウスは携帯を覗き込むように丸めていた背筋を伸ばし、そして昼間アレクシスが寝転がった長椅子に座った。敷き詰められたクッションたちはまだ湿っている。
「なんだ?」プールの中に立っているアレクシスが両手を広げた。「なにへそ曲げてる」
「お前の狭量さに驚きの余り腰を抜かしたので座っている」
「ハア?」
ラニウスはビーチの方へ体ごと向いて沈黙した。
「何お前、犬好きなの? それとも上から目線のいい話しようとしたのに俺が家族と仲良かったから見当違いの説教しようとしたのが恥ずかしくなっただけ?」
「全部違う。断じて」
「“断じて”」アレクシスが過剰にきざったらしく真似をした。「悪かったよ、好きなだけ偉そうに説教していいぞ。気分がいいからしおらしく聞いてやる」
「今日この時までの約十時間の間、お前はいったい何度上機嫌と不機嫌を繰り返せば済む」
「お前が勝手に俺の顔色にびびってるだけだろ」
「びびってない」
「“断じて”」アレクシスが言った。「俺は“断じて”びびっていない」
湿り気を残したクッションに再び水滴が降り注ぐ。生成りのクッションカバーは水を吸ってもそう色は変わらない。
アレクシスは今にも鼻歌を歌い出しそうなほどの嬉々とした顔をラニウスの鼻先に近づけた。夕暮れの海風よりずっと冷たい空気がラニウスの顔や首もとにかかった。ラニウスは半裸を強いられていた昼間からシャツを取り戻していたが、それでもアレクシスが纏う冷気にも近い温度は化学繊維を容易く貫いた。
「お前、やろうと思えば俺の言うことなんざいくらでも無視できるくせにしない」
「今日だってサンフランシスコに来ないことも出来たのに俺をわざわざたたき起こして飛行機に乗せて此処に来た」
「俺のことああだこうだ文句言うくせに俺の周りにぴったりくっついて、犬扱いされても嬉しそうにしてる」
アレクシスの濡れた指先がラニウスのサングラスにかかった。そしてゆっくりと引き抜かれていく。
顔の輪郭に沿って湾曲した大判のフルミラーレンズはラニウスの眉から頬の高い部分までを覆っている。
サングラスのブリッジがラニウスの耳裏をなぞり、レンズの淵から眉毛がわずかにのぞく。
張り出た眉間と、眉と、それから断崖のように内側へ落ちくぼんでいく目元の影が見え。
「そこまで」
ラニウスの右中指がサングラスを隙間なく眉間まで押し戻した。
「なんだよ、ハムスターみたいな目でもしてんの」
「かもな」
「とれよサングラス、業務命令」
「お前は俺の指揮監督者ではないし、今の俺にそんなものはいない」
「昔はいたのか? お前の飼い主が」
「いた」ラニウスはアレクシスを押し返して立ち上がった。「俺が勝手に懐いていただけだが」
へえ、とアレクシスの声がした。この話題がアレクシスのお気に召したようだ。
「レイリー・フォルツ?」
アレクシスがその名を知っていることに驚く必要はない。彼の二番目の息子ギャラン・フォルツはニューヨークにこぢんまりとフロアを構える税理士で、アレクシスから個人的な業務を請け負っていた。HRAの圧力に負けてその情報を一部明け渡したことでアレクシスの怒りを買い、それから逃れるために彼の始祖たる恐るべき悪魔と契約した。
「レイリーは確かに俺の上司だったが、彼の部下はワシントンにごまんといる」
「じゃ、任務で一緒になったCIAとか? それか潜入捜査で知り合った女スパイ?」
「フィクションを現実に持ち込むな。俺は007じゃない」
「ああ、相手男か」アレクシスは自分の手首を握るしぐさをした。「口説きのテクニックまで自慢気に話してたもんな」
「お前も好きな奴に使っていいぞ」
「当ててやる」
アレクシスは腕組みをし、プールサイドを歩きながら挑発するように首を様々に傾げながらラニウスを見た。太陽はもはや完全に水平線の向こうに沈み、プールの底から放たれるライトが水面の揺れにあわせて輝く。二人はプールを挟み、まるでこれから決闘するかのようにきっかり対角線上の位置を保って時計回りに歩いた。
「年下」
「ほんの一歳差だ」
「気が強い」
「それは以前俺が証言している、ノーカウントだ」
「お前は振り回されるのが好きなくせに叱るのも好きだ、そういう欲求を満たしてくれる程度のやんちゃな性格、他人の決定より自分の直感を信じるタイプ」
「……正解と言っておこう、一応」
「あとワガママ」
「ここまで碌な性格が出てこないな」
「マッチョ好き」
「それは知らん」
「ちゃんとしてない、だらしがない」
「そろそろやめとこう」
最早プロファイリングというよりただの悪口大会だ。
「なんで別れた?」
「価値観の相違」
「売れないバンドの解散文句だな」
「実際そうとしか言いようがない」ラニウスは足を止めた。「お互い最も大切なものをどう大切にするかでは真逆だったし、その点について互いに一切妥協できなかった」
お前だったらどうする?
ラニウスは水面に尋ねた。水面は白く輝きながら問いを返すようにうねった。
「何かを一切の傷がつかないよう守ろうとしたとき、それを懐の奥深くに仕舞い込むか、或いは、手の届かない遠くへやるか」
「遠くにやる」
ラニウスは心から同意して頷いた。「そうだ。それしかない」
「お前の飼い主がお前を捨てた理由がよく分かる」アレクシスはもうラニウスの目の前まで迫っていた。「そうやって上から目線で抜かしたんだろ? “これはお前の為だ”って」
「お前には言うかもしれないがあいつには言わなかった」
「未練がましい奴だな」
「未練も抱かない相手ばかり愛してきたのか?」
ラニウスは伸びてきたアレクシスの腕をひょいと避け、逆にその手首をつかんでプールへ落とした。
予想外だったのは、アレクシスがラニウスのこの反撃を予期し、それどころか落ちる最中にあってもラニウスの腕をつかんで離さなかったことだ。
二人分の水飛沫があがり、プールサイドに置かれたインテリアのすべてが水浸しになった。
ラニウスがすぐさまプールの底に足をついて水面に出た。まっすぐに立てば水面は胸元にも及ばない。ずれたサングラスを戻し、長く息を吐く。特段腹立たしくもなかった。サンフランシスコの夕暮れはまだ熱気を残していたし、そろそろシャワーを浴びたいと思っていた。
左手首を見たが、そこに腕時計はなく、ラニウスは水中にまだ潜っているアレクシスの左手首を掴んで持ち上げた。時刻は十九時を過ぎた。就寝時刻三時間前を切っている。ラニウスは速やかにアレクシスを風呂に入れて(それだけで一時間かかる)ベッドへ搬送しなければならない。
「風呂の時間だ」
「運べ」
「Volentieri.」
「ああ?」
「喜んで、陛下」
ラニウスはすこしサングラスのレンズを浮かせた。水車が回ったときのように目元に溜まっていた水が勢いよく落ちる。アレクシスは声を出して笑った。




