06 爪には爪を牙には牙を(Payback time)
正直なことを言ってしまえば、アレクシスはほんの一カ月散歩に連れて行っただけの飼い犬が自分から賞賛を得ることはないだろうと思っていた。
元気よく首輪を外して駆け出して行った犬の後姿を見送った時も、全てのスタイリングを終えて控室を出ようとしたときに土色の顔をした運営側のスタッフと鉢合わせした時も、それに驚いて立ち尽くすスタイリストに大丈夫だから行けと声をかけるときも、アレクシスの内心には動揺はなかった。誰に何の期待もしていなければ、そこに落胆や驚愕など生まれない。
端からステージには自分しか立っていないのだ。どんなライトも、歓声も罵声も、浴びるのは自分だけだ。そしてその後どうするかも、どうなるかも自分の身に起きることだ。
どうするかな、とアレクシスは考えていた。
ただそのどうするかというのは、この件について誰に同落とし前をつけさせるかということではなく、ただ単に、当初予定の衣装と違う今日の衣装において最も印象的な振る舞いはどうすればよいか、ということだった。上空から空中通路を降りていくときの身のこなし、歩き方、肩の切り方。ジャケットが無い以上いくらか調整が必要だろう。
今日のアレクシスの衣装について全貌を事前に知っているのはごく一部の関係者だけだ。観客は初見だから会場のボルテージはそう変わらないだろう。とはいえ、無遠慮に切られるシャッターに映るものには責任が伴う。それがセンセーショナルで下世話なゴシップ紙に載るとしても、貧相な被写体になるわけにはいかない。
____シャツをもう少し気崩すか____とはいえやりすぎたらメンドーサやイサンドラに睨まれる。彼女らが共同で仕立てた衣装のコンセプトは間違っても気易さや性的なものではない。
____まあ、老衰や薬物中毒で死ぬよりその手のトラブルで表舞台から消される方がまだドラマチックだろう。
衣装の紛失を認めた周囲の絶望などアレクシスには無関係だった。彼らの対面だの評判だの、時にはアレクシスがこの式典後に受けるあらゆる評価について嘆いたり不安がれというのは、地球に住んでいるのに火星人のことを心配しろというほどのバカげた話だ。
(今頃どこをお散歩してんだか……)
まるで重犯罪者を移送するようにアレクシスの周囲に取り付いて実にもならない謝罪やお為ごかしを抜かしていたものたちは、ついにメインホール裏口の前で全員失せた。なんだかんだ言って、結局誰もが明るい世界に戻っていく。ドアの向こうは白色灯の届かぬ暗闇と、真っ逆さまに落ちるための断崖絶壁しかない。
出演者専用入り口のドアに立って、アレクシスは真っ白いドアの冷たいノブを握る。
「アレクシス」
純白の壁と真紅の絨毯。ドアの向こうから滲みだす暗がりがこちら側へ染み込むまさにその瞬間、少し掠れた声がした。
エリオット・シュナイダーがそこに立っていた。無人の廊下で彼一人、ビジネスバッグにしては随分と大きなサイズのものを片手に提げている。その洗練された佇まいは、このあと突然彼がステージに上がっても誰も不思議がらないだろう。
「あのマネージャーはどうした?」エリオットが聞いた。「どうしてお前は一人で此処にいる」
「確かにな」
アレクシスはドアノブを片手で握ったまま皮肉っぽく笑った。「どうして俺が一人になった途端、お前がたった一人で現れたんだろうな?」
「聞いていた衣装と違うな。イサンドラ女史はお前を安っぽいグラビア女優か何かだと思っているらしい」
「俺に色気を感じてるって白状するだけなのにやけに詩的じゃないか」
「馬鹿げたことを言う……イサンドラ女史の見立てが正しかったと自ら証明するような物言いだ、寒気がする」
「俺の気を引きたいならもっと面白いことを言えよ。それか贈り物でも持ってこい」
エリオットはその手に提げていたビジネスバッグを無造作に持ち上げて見せた。
「いるか?」
「クリスマスプレゼントか?」
「答えろ」
「いらねえよ」
アレクシスがそう吐き捨てた。エリオットの濃い緑色の目が少し動く。エリオットはドアノブを握るアレクシスの手を見ていた。アレクシスの手は白く、ドアノブ越しに伝わるメインホールからの音楽や光の振動で時々震えた。
「馬鹿な奴だ」
「化粧が崩れなきゃお前の面をガムみたいに踏んでやったんだがな」
「俺が企んだとでも? なら確かに馬鹿は俺だな、お前がまだ利口だと信じた俺の方がよほど馬鹿だった」
エリオットはビジネスバッグを開け、中に入っていた黒い衣装袋を無造作に廊下へ投げ捨てた。
それはちょうど男物のジャケットサイズを入れるような大きさの衣装袋で、重さで、音だった。
「お前に救いようがあるのかどうか……」
エリオットは憐れむような眼でアレクシスを見た。「教えてくれないか。馬鹿な俺にもわかるように」
アレクシスは自分の職業をこれほどまでに恨んだことはない。化粧くずれのために、ヘアセットのために、スタイリングのためだけに怒りを堪えなければならない。目の前の男に殴りかかれたら、きっとアレクシスは今日一番の表情ができると信じている。
だが人を殴って赤くなった手は醜い。白と銀を大部分にあしらった衣装では赤は目立つ。血液のような彩度の低い赤は質感に留意しなければ扱いが難しい。なにより、肌に傷でもあろうものならそれこそライトを浴びることが出来なくなる。
ほんのちいさなささくれひとつ、ステージのライトはがめつくそこに噛みついて影を落とすだろう。
「さっさと失せろ、**野郎」
アレクシスは最後にそう吐き捨て、暗闇へのドアを開き、中指を立ててその闇に呑まれていった。
開け放されたドアがアレクシスを飲み込み、そして閉じるまで五秒となかった。再び静まり返った白い廊下で、一瞬漏れ出たメインホールからの音響とサイケデリックな光線の残響がまだ空気中を漂っている。
エリオットはその後もしばらく廊下に立っていた。エリオットはHARの代表として今日この式典に招かれ、彼のために最前列にほど近いテーブル付きの席が用意されていた。
だが、エリオットはもはやエクラサミットに対するすべての興味関心を失っていた。彼は手に提げていたからのビジネスバッグに衣装袋を乱暴に突っ込むと、上着の内ポケットから携帯を取り出した。そしてスケジューラーを埋め尽くしているタスクの一番上の項目をタップする。
エリオットはスケジューラーに書かれている名前も企業名もろくに確認せずかけた。だが電話が繋がった途端、即座にその企業にまつわる必要な情報のすべてが彼の舌先から滑り落ちていた。
「もしもし? 恐れ入ります、私HARのシュナイダーと申しますが……ああ、これは統括、ご無沙汰しております。まさか教えていただいた番号が統括直通だったとは。いえ、忙しくなどありませんよ、今年の年末はシルヴェストスへ旅行へ行く予定なぐらいで。
そういえば統括のご友人はシルヴェストスで劇団をされているとか____」
この退屈な式典が終わるまでに6つはタスクを片付けられるだろう。
エリオットは通話をしながらメインホールに入り、ホール前方からT字型になっている巨大なランウェイステージから右手側の関係者席に座った。ステージからは距離こそあれどこの席にはテーブルがついており、会場の音楽や映像を一望しながらもノイズキャンセリング装置が稼働しており、見えない壁を隔てたかのように周囲は静かだ。
実際、式典を横目に別件の通話をしているエリオットと同様に周囲のテーブルについているものはラップトップを広げたり、何やか顔を寄せ合って議論しているものばかりだ。彼らの立場は様々で、衣装を卸しているデザイナーだったり出演者の所属会社であったり、エクラ財団と懇意にある一部のファッションメディア、そして映像会社のディレクターなど。
少なくとも共通しているのは、式典に出演できて光栄だという感情など持っていないことだ。此処にいる人々にとってエクラサミットはオークションであり、コンサートであり、自分たちの方がこの出し物について評価を下すものなのだ。身に着けている衣装、アクセサリー、出演者、協賛団体……それらの動向を見据え、自らに益になりそうな情報を押さえ、回収し、周囲の動向を見張る。そのためにいる。
「忙しないことね、いつも、貴方」
シュナイダーが二つ目のタスクを終え携帯を耳から離したとき。
隣のテーブルに座っていたルス・イサンドラが不意に話しかけてきた。彼女のテーブルには白い一人掛けのソファが用意されており、それは彼女のテーブルだけだった。彼女の付き人である屈強な体格の男女は背もたれの後ろに立っている。
「それは貴女もでは?」
「ま。怖い……ご機嫌斜めなのねえ、騎士様。まるで恋破れた少年のよう」
「貴女ほど能天気なら誰もがそう見えるでしょうね、お嬢さん」
イサンドラは今日も漆黒のドレス姿だった。いつも被っているようなつばの広い帽子はなく、代わりに黒いレースのヴェールがついた髪留めをしている。蠱惑的な未亡人といった出で立ちだ。
イサンドラは背後で苛立ちを滲ませる付き人を手で制し、音も無く微笑んだ。彼女の黒く深い瞳はエリオットが足元に置いたボストンバッグを見た。
「アレクシスは貴方の手を取らなかったのね。愚かで、だから本当に可愛い子よ。若く美しいうちに死にたいと……そう思う気持ちは分からないではないけれど」
「奴の死に様を決めるのは私だ。貴女ではない」
「流石はマグヌス*。傲慢な男、好きよ」
*マグヌス=ラテン語で「偉大」を意味する言葉。ここでは「偉大なるポンペイウス(グナエウス・ポンペイウス・マグヌス)」を指す。
エリオットの秀麗な眉が寄る。イサンドラは暗がりを帯びて毒のような色になった唇でさらに弧を描いた。「私、正直なところ貴方とこんなに長く付き合うことになるだなんて思っていなくてよ」
「貴女に先見の明があるなどとは誰も思っていない」
「あら、あら。そんなに血気盛んになさらないで」イサンドラは右肩のほうへ纏めて流し、胸元へ流れるその黒髪を手で弄んだ。「先見の明に優れたマグヌスが、まさか愛を失って失意に陥るだなんて。そんな予想外を予想しろというのも無理な話よ、ねえ」
エリオットは携帯を操作していた。いくつかの関係先にメッセージを送り、調達や入札関係の情報を整理する。エクラサミットでこの後起きるであろう騒動に対し、いくつかの新聞社とネットメディアを押さえておき、メッセージを作成する。
「でも私、本当に驚いているのよ。まさか貴方が、貴方の愛するシーザーをその手で殺そうだなんて。貴方のことだから、アレクシスが自分に助けを求めないでいることすら、きっと許さないと思っていたの」
窮地に追いやり、窮地に手を差し伸べ、そして手を取らせる。
イサンドラの言葉にも、エリオットが携帯を操作する指の動きは衰えなかった。エリオットは四つ目のタスクに取り掛かりながら言った。
「奴は確かに素晴らしい人材だが、替えの利かない人材などいないということは、あらゆる国のあらゆる時代の歴史が既に証明している」
「そうは言いながら、きっと殺すつもりなどないのでしょう」
「殺してくれと言われてもな」エリオットようやく指を止め、携帯の画面をじっと見つめた。玲瓏な眼差しをブルーライトが照らし出す。「奴は子供だ。親がいくら言って聞かせても聞きはしない。子供はどこかで自分が万能で純潔であり、それは気の持ちようで永遠だと思っている。だがそれは誤りだ」
「クロエ・メンドーサの怒りを買ったら、アレクシスはきっと一人ぼっちで泣いてしまうわね。私も表立ってあの子にプレゼントが出来なくなる、寂しいわ」
「寂しい? ハッ……」
エリオットがはじめてイサンドラを見た。
「私が奴を殺したがっているように、貴女はメンドーサを殺したい。かつてメンドーサが暴露した業界の不祥事のせいで、貴女は針縫い女にまで落ちぶれた。対して同じ不祥事に関わっていたにも関わらず、メンドーサは革命家として今や業界の重鎮。
失ったものを取り返そうと躍起になる気概は認めるが、こちらに余計な手垢をつけないで欲しいものだな」
イサンドラはその嘲笑を変わらぬ微笑で受け止めた。
「貴方のこと……本気で好きなりそうよ、マグヌス」
「こちらから願い下げだ、エルジェーベド*」
*エルジェーベド=バートリ・エルジェーベト。年若い娘への残虐行為で「血の公爵夫人」と知られている。
「まあ!」
イサンドラは少女のように声をあげてはしゃいだ。彼女が肩を寄せて首を傾げれば、揺れた髪から熟れた果物の香りがした。
間もなくラストランが近い。会場のライトの種類が切り替えられ、光の当たらない部分の闇が濃くなる。地上の平坦なステージを歩く出演者たちはその平等に与えられる光を搔き集めるように全身で観客に自分を見せつける。
「……そういえば、エリオット」
イサンドラがそれまで以上に声を潜めて言った。「貴方がアレクシスの伴につけたあの男、彼は何者なのかしら」
「私が選んだわけではない。アレクシスが勝手に引っ張ってきた野犬だ」
「来歴を調べたのでしょう。貴方の愛する皇帝の側近につける輩なんて、今までは明らかに無能で反逆の知恵もない凡骨か、貴方に陶酔するお人形ばかりだったのに」
「前職はFBI、その前は陸軍。本人の申告の後、調査会社複数でも調べたが誤りはなあった」
「本当に戦士だったのね、彼」
「現在は後方支援でFBIアカデミーの教官をしているようだ。とはいえ現在はマイアミ在住で地域警察の研修を担当したり、昨年はイタリア警察に出向したりと、あのガタイで随分いいように使われているな」
「ふうん、マイアミにイタリア……」
「何か気になるのか?」
エリオットは基本的にイサンドラをビジネスパートナーとしては一切信用していないが、この女が普段は体の奥深くに隠し持っている直感と彼女自身の歴史から導かれる知見には一定の信頼があった。
「彼、顔立ちがアメリカ人らしくないと思わない?」
「国籍は間違いなくアメリカのものだが」
「ルーラーだなんて苗字も随分珍しい。そんな苗字、アメリカのどこの州にあるのかしら」
「合衆国がどうやって成立したのかを知らないのか? それこそ貴女が……」
エリオットの言葉がそこで切れた。エリオットの深いエメラルドの瞳がまるで御伽噺に登場する竜のように輝き、異様な迫力を伴ってイサンドラを見る。
イサンドラはエリオットを見ていなかった。だが会場の暗がりが深まれば深まるほど、イサンドラの白い肌は濡れた鱗のように細やかな艶を帯びた。
胸元が大きく開いたドレスの奥、彼女の右の乳房の下から谷間に向かって伸びる茨のタトゥーが蠢いたように見えた。
「彼……なんだか懐かしいわ」
イサンドラの声は微睡む少女のようだった。「私は彼を知らないし、彼も私を知らないでしょう。でも彼が纏うものは、私にとってどうしようもなく馴染み深いもののような気がするのよ」
イサンドラはイタリア人だ。イタリアの首都ローマに生まれ、七つの丘の中で育ち、そして海を渡り合衆国へ辿り着いた。彼女の人生は彼女の祖先がそうであったように蹂躙と征服の歴史だ。宗教と文化、そして美しさすらをも剣に変え、彼女は深い泥の中を這い進み、その足で海すらも踏破した。
彼女の前世はきっと名のある戦士であったのだろう。そしてその戦士の勘が彼女に囁くのだ。彼の者もまた同胞であると。
然る後、彼の者も戦士であるならば。
彼もまた、蹂躙と征服を己の歴史とするだろう。
「____おい、何を」
イサンドラはおもむろにエリオットの足元へその細い腕を突きこんだ。エリオットが流石に顔色を変えるが、その時にはイサンドラの手は目的のものをその眼前に掲げていた。
衣装袋のジッパーを開け切らないうちに、中から一枚の破れたメモがひらりと彼女の膝に落ちる。
その紙切れは駐車場のレシートのようだ。
そしてレシートの裏面には走り書きでこう書かれていた。
”Bad(全然だめ)”
会場が暗闇に包まれる。
そして光りと共に、歓声と悲鳴が上がった。
/
____アレクシスがエリオットと別れた直後。
メインホールへ入ったアレクシスと言えば、事情を知らないスタッフにはもてはやされ、事情を知っているらしいスタッフには視線を逸らされるという両極端な歓迎を受けながら地上百メートルの空中通路への階段を上がっていた。恭しく腰を曲げて足元を細いペンライトで照らしてくれている先導のスタッフは事情を知らないほうらしく、アレクシスの少し気崩されたシャツの襟や裾がはためくたびに暢気なほど素直な欲にまみれた視線を向けてきた。
「あの……」
「ン?」
階段を登り切り、いざランウェイのスタート地点となる透明な空中通路のたもとに立った時、か細くひっくり返った声がアレクシスにかけられた。振り向けば、暗闇でもわかるほど顔色の悪い痩せた男が、この空中設備の責任者らしいベストを着た男に羽交い絞めされていた。
アレクシスが黙って男たちをじっと見つめていると、二人とも次第にばつの悪そうな顔で小さく縮こまり、そして羽交い絞めにされていた方の男がぼそぼそと言った。よく見ればなかなか端正な顔立ちをしている。額に最近直ったばかりだろうニキビ跡があった。
「あの……あの、マネージャーさんは……」
「散歩中」
「え」
「話は終わりだよな? 俺に落下死してほしくなけりゃ話しかけるな、集中する」
アレクシスは周囲のすべてを自分の意識からそぎ落とした。このバックヤードにいるスタッフは全員事情を知っているようだ。もの言いたげな視線と、そのもの言いたげな視線によって許されようとするべたついた期待が不快だった。
自分はこれから地上百メートルの平均台を罪人として歩くというのに、それを影で眺めるだけのお前たちは何がそんなに怖いのか。
衣装が無いという事実がもたらす影響はなにも評判や業界にかかわるものだけではない。アレクシスの体重は62キログラム。着るはずだったジャケットはおおよそ2キログラム。本番直前の練習では当然その2キログラム込みで歩いた。それが今は無い。
バランスを崩せば落ちる。ベルトとワイヤーが階段を降りきるまでつながっているとしても、そんなものに吊るされた時点で死も同然だ。
「この落下防止ベルト、デザインがダサすぎないか? ナイロン製、完全並行、太め……ライトに当たった時のこの安っぽい光沢。付けたくないんだが」
「黙ってつけろ」
お前のリードだ、と述べたサングラスの横顔を思い出す。
アレクシスはラニウスが頑なにサングラスを外したところを見せたがらない理由について色々と考えていた。似たような主義の人間は何人か知っている。彼ら彼女らは決まってサングラスで何かを隠しているか、サングラスによって隠すようなものを持たない自分をごまかしているかのどちらかだ。奴はどちらだろうか。
サングラスで隠れていない部分についていえば、体格は少々規格外で輪郭がいびつだが、身長が高く肩幅が広い分足が事実異常に長く見えてスタイルはいい。
「ベルト、装着します」
先ほどまでのおどおどしたスタッフではない。だが隠しきれない緊張感を押し殺した声がして、アレクシスの耳に金具がこすれあう音がした。何度見ても気に入らないデザインだとアレクシスは横目で思った。そもそもあまり目立ちにくい色や型にしてあるにせよ、とにかく美意識に反する。
帰ってこなかったな、とアレクシスは思った。あと三十秒で自分の姿は観衆に晒される。
もしかしたら今頃マイアミ行きの飛行機にすら乗っているかもしれない、とアレクシスは思った。落下防止用のベルトとワイヤーが装着される。息苦しさとデザイン性の悪さに吐き気がした。
____取ってこい、だってよ。
アレクシスがかすかに微笑んだので、ちょうどベルトを装着し終えて離れていこうとしたスタッフはその場に釘付けになった。
あれだけ犬扱いに苦言を呈していたくせに____取って来いと言われた時のあの自信満々な顔ときたら!
「取って、戻って来れなきゃ意味ねえだろうがよ」
努力には何の価値もない。努力が結果に通じて初めて、努力には価値がつく。どれほど素晴らしい金脈があっても、金が出るまで掘らなければいくら汗をかいても時間を費やしても無意味だ。徒労だ。無駄だ。そんな実らなかった努力への負け惜しみが世間に溢れて、今では努力そのものに意味を見出すことに必死になって誰もがもともと探していた何かを忘れている。
逃げたって良かったのだ。衣装を紛失した運営に責任を押し付けて、アレクシスは控室でふんぞり返ることだってできた。ニューヨークの自宅に戻って来週の仕事に備えて寝ていたって、SNSを更新してインプレッションを稼いだって、なんだってよかったのだ。
なんだっていい、いくらでも選びようのある選択肢の中から、アレクシスは今ここにいることを選んだ。
アレクシスは歩み出した。暗く重苦しい緞帳が垂れ下がる安全地帯から、逃れられない視線が飛び交う前線はもう目の前だ。
司令官は前に出るなと言われた気がするが、兵士がいないのだから仕方がない。不戦敗などごめんだ。
そもそも、アレクシスは兵士の側である。補給も司令も与えられず、ただ戦場にたったひとりで、勝てとそれだけ言われて放り込まれ、今まで勝ち続けてきた。
今更流れ弾に当たったところで、痛くも痒くもない。痛かろうが無様に泣き喚いたり涙を流したりしない、涙は涙を流すべき時にカメラのシャッターに合わせて流れるようになった。
笑うも泣くも自分で決めることだ。落ちるも飛ぶもそう。
上着が一枚無いぐらいで凍えるほどか弱くはない。
会場がぐんと暗くなる。次のライトアップが合図だ。
アレクシスは暗闇の中に目を向け____
「アレクシスさん?」
何も見えない暗闇で、唯一細いペンライトで足元を照らしていたスタッフは金具の擦れる音を聞いた。
そして驚愕した。
「____アレクシス! 安全帯を! どうして!」
床に音を立てて鎖が落ちる。ナイロン製のベルトもだ。「頭がいかれたのか!? 誰か、この人を……」
事態に気づいた他のスタッフが慌ててアレクシスの背に追い縋る。今から地上百メートルの綱渡りをする人間が突然落下防止用の帯を脱ぎだしたのだ。気が狂ったとしか思えないだろう。実際スタッフたちはアレクシスが今回の事故で自暴自棄になったのだと即座にそう判断した。最悪怪我をさせてでもこちらへ引き戻さねばならないと。
その彼らを嘲笑うようにアレクシスが振り返った。
すぐ背後にはもう壁も地面も無い。幅一メートル未満のあまりに細い階段があるだけだというのに、彼はその手前で振り返った。まるでこの先にも自分の為に広大な大地が広がっているとでも言わんばかりの態度で。
顔面蒼白で自分に群がるスタッフを、アレクシスは本気で嘲笑っていた。まるで悪役のような笑みを浮かべ、勿体ぶった手つきでダンスへ誘うように自ら手を差し伸べてやる。
だが当然、差し伸べてやった手を掴む度胸も腕も誰も持っていない。
「落ちる!」誰かが叫んだ。
「落ちねえよ、間抜け!」アレクシスが歯を剥いて笑った。
背中から落ちるように仰け反ったアレクシスは、空中階段の一段目を後ろへ退いた右の踵で確実に捉えた。
強烈なライトが彼を地表へ叩き落とそうと降り注ぎ、間抜けな悲鳴が彼の背中を下から強く押し上げた。
そしてアレクシスは____くるりとターンした。
地上百メートルだ。彼が立っているのは手すりも何もない、幅一メートルとない段差だ。終いには、その階段は上りではなく下りだ。
段差を踏み外したら落ちるのだと、そんな子供でも分かることを、原始的な恐怖をどうして彼が味わうことなく、地上でぬくぬくと腰を据えている観客が味わっているのだ。
彼は本当に気が狂ったのだ、まるで平面を歩いているように進行方向へ背を向け、後ろ足で階段を踏んだかと思えば前方を確認することも無く身を翻す!
この会場にいる全ての人間が驚愕し、一人を除いて全員が自分の喉を自分で締めた。反射で挙げた歓声も悲鳴も続かない。誰もが息を忘れて、ただ頭上を悠々と歩いているきちがいの美しさに目を奪われていた。
今日の衣装はクロエ・メンドーサとルス・イサンドラの合作だとか。
メンドーサとイサンドラの過去の確執だとか、ファッション業界の歴史だとか、エクラ財団の歴史だとか、そんなものは今この時は全て下らない。
アレクシスが、そもそも百メートルも高い位置にいれば当然なのだが、周囲を見下ろすその視線が嗤っていた。
間抜けどもめ____そんなにどっかり椅子に座って、お前たちはこの星に生まれたくせにまだ重力も克服していないのか?
人間がどれだけ無力で間抜けでも、会場に設置された照明機器や音響機器は勤勉だ。彼らは無能な管理者に代わって粛々とスクリーンに映像を流し、スピーカーへ電力を送り、ライトを当て続ける。
大抵のことは人間がやるより機械がやったほうが的確だ。
そして寡黙な鋼の兵士たちは、真の管理者が現れたことに歓喜していただろう。ようやく己の忠誠を誓う美貌の皇帝が凱旋したのだ、間抜けで醜い暗君どもの時代が終わる。
彼が来た。彼が見た。ようやくこの暗く愚鈍な時代は終わった。
本来纏うはずだったジャケットもなく、色の薄いシャツ一枚にスラックス一枚(それに対して装飾はやや華美なほど揃っている)というアレクシスはあまりに無防備だったが、染み一つない白のシャツがくすんで見えるほどその体は玉のように輝いていた。メンドーサがデザインしたシャツに真珠の光沢が織り込まれていると言っても今この時ばかりは誰もそんなでまかせを信じるまい。
それほどまでに、アレクシスの振る舞いは堂々としていて、さり気なくて、気儘で、気さくで、傲慢で、儚げで、偉大で、あどけない。
まるで長い戦いの果てに甲冑と剣を失いながらも勝利を凱旋を告げに来た最後の騎士のようであり。
まるでおぞましくも艶めかしい夜を終え、老若男女を幾人も手玉に取って遊び疲れた悪女が寝所から現れたようであり。
まるで初めての恋人との待ち合わせに遅れて駆け足に家から出かけてきた純朴な青年のようであり。
まるで長い昼寝を終え、家の傍にある鬱蒼とした森と湖畔へ飼い犬を散歩へ連れて出かけようとする少女のようであり。
アレクシス自身がこうだと演じる間もなく、その場にいる全ての人間がアレクシスに自分勝手な欲望と願望を押し付け、捧げた。どうにか彼と自分の間にある身分の違いや文化の差、教養、思想、価値観、そういった途方もない超え難い距離を認められなくて、どうにかその深い峡谷を埋め尽くして渡ろうと妄想を繰り広げた。
誰もがどうにかしてあの男を手に入れたいと願うのに、そうして願えば願うほど、あの男はこちらを見下し、そして細い橋を前に臆病風に煽られながらおろおろしている我々に言うのだ。間抜け、と。
本来は尊大に冷酷に粛々と歩き通すはずだった空中階段を、アレクシスはあまりに軽やかに駆け下りた。
それは彼にとってこの日の全てが、彼の人生において日常の一つであると言わんばかりの奔放さだった。地上の関係者席中央のテーブルにいたクロエ・メンドーサまでもが言葉を失っていた。
____ÉCLAT SUMMITはブランドの祭典であると同時に、ファッション業界の絶え間ない変革を象徴する儀式である。
だが、今繰り広げられているのは変革などではない。変革すら蹂躙する侵略だった。
歴史。伝統。調和。共存。革命。主義。思想。
どれもこれも下らない。
そんなお為ごかしに夢中になっているから、自分が本当に探していたものがなんだったのか忘れてしまうのだ。
喝采だろう、とアレクシスは内心で咆哮した。
承認だろう、とアレクシスは正鵠を殴り殺した。
お前たちは、俺たちは、結局自分を認めさせたいのだ。そうだろう、違うか? 違うと言うなら言っていればいい、そうしてぐだぐだ能書きを垂れている間に俺は先に行っている。
金をかけてこんな式典をして、馬鹿みたいに頭を下げて、面白くも無い映像をテレビで流して、わざわざ使いでもない無駄な者ばかり買い集めてすぐ捨てて、真実かどうかも定かでない自己憐憫のポエムを書き下ろしては真の詩人が使うべき余白を無駄にして、それでも結局俺たちは認めさせたいのだ、自分が正しいと。
そうだろう、と問いかけて、そうだ、と言って欲しいがために馬鹿げたことをしているんだろう。
他人からの羨望と嫉妬を浴びるために己を曝け出しているんだろう。
業界の発展? 伝統の継承? 革新?
それだってただの台詞だろう。感動的な映画を上映したくて頭をひねって考え出した打算と下心だろう。それでいい。そのままでいいのに、どうしてわざわざぐちゃぐちゃにして原型を濁らせる。無駄な贅肉をつけて醜くなろうとする。
自分が美しくあろうとして、その事実を知らしめるだけのことに、端から正当性などない。
そして正当性など求めなくていい。自分でそうあろうと決めたら、ただやるだけだ。
他人を嫉妬で苦しめ、羨望を奪い取ると決めたなら、グダグダ言わずに奪えばいい。
「そうだろ?」
アレクシスは地上ゼロメートルに降り立った。もはや周囲一帯沈黙と熱狂が混然一体として、その宇宙の始まりと同じ高密度の混沌の最中にあって、口が利ける人間はいない。
アレクシスが問いかけたのは地上ステージの緞帳の向こうだ。そこはステージへ代わる代わる出ては去っていく出演者たちの上座であり下座だ。
深く垂れこめた緞帳の僅かな隙間の向こうには凝縮された闇が固体のように鎮座している。
置物のようにステージに並んで立っている飾りの出演者たちは硬直し、もはやアレクシスが発した言葉すら聞こえていないだろう。
アレクシスは緞帳の向こうに手を指し伸ばした。
すると、闇が一部蠢き、そして獣のように飛び出した。
鹿のように飛び上がり、狼のようにアレクシス目がけて飛び掛かった影は____しかし即座に調教された。アレクシスはそれの首を鷲掴み、そして無秩序な獣を掴んだまま振り回すと、ステージに向かって叩きつけた。
風を切る音がした。そのときアレクシスの手にあったのは恐るべき獣ではなく、それは美しい光沢を纏った黒いジャケットだった。
まさにたったいま黒獅子から服従の証として剥ぎ取ったそれはたてがみをファーとしてふんだんに使われ、他の動物を蹂躙することで帯びた艶のある革は刻まれ、縫い合わされて大胆なスリットの入った裾と袖になっている。やや古めかしいほどのヴィンテージ加工がされた金具でベルトを渡し、あらゆる時と角度においても完璧なフォルムを保てるように設計されている。
____これこそ、クロエ・メンドーサが設計し、ルス・イサンドラが仕立てた一着だった。
「……イサンドラ、鞄を貸せ」
今まさに目の前のランウェイを凱旋の如く颯爽と歩いてゆくアレクシスを横目に、エリオットはそう言った。だがイサンドラが紙切れを手に動かないので、エリオットは彼女の膝に落ちていた衣装袋をひったくってその中身を引きずり出した。
中に入っていたのは確かに男物のジャケットだった。
だが、見覚えのないオータムベージュのスーツジャケットだった。ご丁寧に同色のスラックスまで揃えてある。
「なんだ、これは」
「俺のスーツだ」
エリオットは振り向いた。イサンドラも同時に振り返った。
誰もがアレクシスに釘付けなせいで、関係者席に忽然と現れたスキンヘッドにサングラスの大男に気づいているものはいなかった。
イサンドラの背後に控えていたはずの付き人はいつのまにか近くの椅子に座っている。エリオットやイサンドラには背中を向けて座っているせいで、やけに丸まった背中の二人の様子は伺い知れない。
「申し訳ない、シュナイダーさん」ラニウスは言った。「俺の手違いで、貴方に返すべきバッグを間違えてしまったようだ」
ラニウスは右手に種類の異なるバッグを三つ提げていた。どれも似たり寄ったりで地味なボストンバッグと、トートバッグと、スポーツバッグだ。
ラニウスはその三つのバッグをエリオットの座る席の右隣へ置いた。そしてエリオットの手にある自分のスーツが入った衣装袋を手に取る。
「それと、もう一つ謝罪しなければならないことがある」
ラニウスの表情は見えない。サングラスの所為でもあり、左手をポケットに突っ込んだまま一切のジェスチャーを取らない所為でもあり、そして度々開閉しても歪まず横一線の口元の所為だ。
「恥ずかしながら俺はファッションには疎いもので。このバッグにそれぞれ入っているジャケットについて、どれがシュナイダーさんが協賛会社から手配したもので、どれがイサンドラさんがご自身のブランドから手配したもので、そしてどれが……最近アレクシスがアンバサダーをした美術団体からの寄贈品なのか、判別がつかない」
ラニウスはそこではじめて首を九十度動かし、ランウェイを歩き終えようと踵を返したアレクシスの姿を見とめた。
「とはいえ、まあ、今日着るのはあれで良かったのだろう。当初の予定通りにな____よもや貴方がたが不慮の事故に備えてこれほどまでに代わりの衣装を用意していたとは、危機管理意識の高さに感心した。今回はたまたま俺が対処できたが、ともすれば貴方がたの手を借りることもあったろう」
「何が言いたい?」
エリオットの言葉に、ラニウスは「何も」と言った。どちらも冷静な声だった。「俺の言葉には、その言葉に定義された以外の意味も意図も無い。本当に感謝している」
「それは明らかな皮肉だろう」
「もし言葉に本来の意味以外の意図を見出すことが当然なら、俺の言葉を皮肉と受け取るあなたの言葉は、自らに後ろめたいことがあると自白していることになってしまうんじゃないか?」
「君は誰の味方になるつもりだ」
「憶測とマウンティングの取り合いで会話をしようとしないでくれ」
ラニウスはおもむろに左腕の袖をまくり、時刻を確認した。そして袖を戻す。まだ次の行動まで猶予はある。
「俺は誰の味方でもない。俺はただ規律規定に則って行動しているだけだ。今日はアレクシスの仕事に同伴し、アレクシスの仕事が当初の計画通りに進むように尽力することが俺の規律であり仕事だ。そこに敵と味方がいるなら、俺はこの式典を計画通りに運営しようとする人々の味方であり、計画を乱そうとするものが敵ということになる」
「そこまで規律に従順ならさぞや心穏やかな人生だろう」エリオットは小さく息をついた。既に彼の頭は別のことに動き出している。「その規律がどれほど古く腐っているかということに気が向かないでいられる」
ラニウスはそれに対して特に意見を述べなかった。エリオットは自分の足元に三つ置かれた鞄をそれぞれ開け、そしてスポーツバッグのそれを除いた二つを自身の左側へ移動させた。
「だがミスター・ルーラー、あなたは今日のご自身の働きにさぞやご満足だろうが、もし今日の働きが、今後のアレクシスの活動にとって最善でなかったどころか、却って奴の足枷になったらどう責任を取るつもりだ?」
「その責任の大きさを決めるのは俺ではない。俺の行為が損害に当たったのなら、損害を被ったアレクシスが文句をつけるべきだろう。責任の取り方も奴が決めることだ、俺が勝手に責任を見積もってどうこうすることではない」
「君の働きは奴にとって最善のものではない」
「まだ起きてもいない最善の結果を知っているような口ぶりだな、シュナイダーさん」
ラニウスはその場に踵を返した。今更、周囲はスタンディングオベーションと喝采、そして雷のようなカメラのフラッシュが嵐を巻き起こしている。
クロエ・メンドーサがステージに上がり、アレクシスと握手を交わしているのが掲げられたカメラと光の激しい乱反射の向こうに辛うじて見えた。
その熱狂と羨望の渦の中で、エリオットの目には深い影があった。
「奴は自分が欲すればいつか全てが手に入ると信じている。自分が信じたものは永遠だと信じていたように」
ラニウスは足を止めた。エリオットはラニウスがまだそこにいるかどうかなどあまり気にしていないのか、その言葉は誰に聞かせるでもなく零した独白のようだった。
「だから俺は奴に永遠など無いと教えてやった。俺が、給料日に銀行口座の残高さえ気にしていれば、後は何も心配しないでいられるような気楽な会社員ではいられなくなったのだと」
「……」
「奴は決して認めないがな。奴は俺の変化を、まるで余所から貰った風邪のようなものだと信じて疑わない。俺は病気を治そうとせず、辛い治療から逃げているだけなのだと。そうして自分こそ高潔で健康だと信じている」
エリオットは今日こなそうと思っていたタスクのうち、まだし終えていないものについてとうに忘れ去っていた。どれもこれも些事となったのだ、今となっては。
「だが、奴がそうして自分を信じ込めば信じ込むほど、何者からも侵され難いはずの自分は他でもない自分自身によって内側から腐っていく。
それに気づいたときには、もはや奴は侵しがたい美しい何かではなく、誰かも興味を向けられない空虚な妄想に取り付かれた男に成り下がっていることだろう」
今日のアレクシスは完全なる侵略者であり、そしてその一方的なまでの侵略と蹂躙は勝利に終わった。
だが、それは永遠ではない。今日の彼は若く美しい。歳を重ねても別の美しさがあるだろうが、今日の美しさは今日だけのものだ。今日の名声も、評判も。
刹那的な輝きは一度きりのものだ。ゆえに、伝統や歴史が絡んだそれよりもてはやされがちになる。だがその刹那を繰り返せば、輝きは途端に色褪せ、空虚なぽっと出の目新しさはすぐ飽きられる。
歴史を積み重ねようと思えば、今日から政治の舵を取らねばならない。早ければ早いほど積み重ねは厚くなる。後になってどれほど過去の浅慮や独りよがりを美徳として残そうとも、そんな薄っぺらい書物の一ページは指先ひとつで破れさる。
「情熱と意志だけで生きることを今日の君が後押しした。奴は破滅へさらに突き進むことになるだろう、心躍らせながらな」
エリオットの言葉に、ラニウスはしばし沈黙した。
それから____ラニウスはかすかに、だが確かに笑った。二人の会話が始まってからずっと押し黙っていたイサンドラがかすかに驚きをその目に浮かべた。
「面白い人だ、シュナイダーさん」
「なにが……」
「情熱と意志で生きることをそれほどまでに蔑みながら、他人が情熱と意志で破滅することをそれほどまでに嘆くのか」
今度はエリオットが沈黙した。ラニウスは口元に一瞬浮かべた笑みを消した。
「賢明なあなたに対して偉そうなことは言えないが、強いて一つ言うなら、今回のようなやり口はもう止めた方がいい。俺は壊せそうな玩具を見つけると壊さずにはいられないんだ」
ラニウスは今度こそその場を後にした。事態は収束したが、当初の行動計画はまだ続いている。式典が解散次第、アレクシスを出迎え、車に乗せ、そしてニューヨークまで帰る。まだ仕事は終わっていない。
「閣下」
メインホールを出てすぐ、通路にブルックスが立っていた。呆れ顔を隠そうともせず腕組をして、ブルックスは右手をラニウスに向けて差し出した。
「なんだ?」
「言われなきゃわかりませんか、閣下」
ラニウスは首を傾げたが、ブルックスが右手をひねる仕草をするのを見て展望デッキへの鍵を出した。
「帰る前には警備室に返すつもりだったぞ」
「実は午後の巡回で展望デッキの外扉が外れてたんですが、お心当たりは?」
「あの扉は元々立て付けが悪かった。俺はただ肘で押しただけだ」
「肘で? どんなふうに」
ラニウスが当時の動きを再現すると、ブルックスがぐにゃぐにゃになった持ち出し防止チェーンのついた鍵とその動きを交互に見て「ハーア」と大きな溜息をついた。
「どうしてあなたのコードネームは”CRUSHER”じゃなかったんでしょうな」
「他の奴が使っていたんだろう」
「そんな奴がいたなら謹んで返上すべきでしょう」
「フ……」
「今の会話に笑うとこありましたかね」
「構わないだろう、ハンター。お前こそわざと見逃したくせに」ラニウスは口元を撫でた。「紛失した衣装を見つけた手柄はお前の会社にやった。ペイバックタイムはもう終わりだ」
ブルックスは不遜に肩を竦めた。「あなたは何処にいて何をしていようと変わらない」
「人はそう簡単に変わらない」
「まあ、でも随分丸くなったじゃありませんか。FBIで美人の尻にでも敷かれましたか」
「俺は生まれた頃から丸かった」
「ここは笑うとこですか? サー」
「勿論」
ブルックスは顔を顰め、そしてすぐにひょいと眉を浮かべた。彼らが向かう方向の突き当り、曲がった角から大股でこちらへ向かってくる人影に気づいたせいだろう。そしてその人物が人生で遠目にも早々お目にかかることも無さそうなほどの美形であれば、足も止めざるを得ない。
まだランウェイを蹂躙した衣装のままツカツカとこちらへ向かってきているのは、他でもないアレクシス・バックマンその人だった。
「あちらはボスの新しいダーリン殿では?」
「止めろ。違う」
とはいえラニウスもまさかアレクシスが此処で落ち合うとは思っていなかった。出番自体は終わっただろうが、通路にいても会場の盛り上がりはまだ伝わってくる。アレクシスがステージを降りても周囲があれこれと放さないだろうに、それを振り切ってまで何をしているのだろうか?
「アレクシス、どうした。問題か?」
両者の距離がもう数メートルほどになってもアレクシスが減速する様子はない。ブルックスはそれとなくラニウスの背後に移動し、ラニウスは衝突なり殴打の可能性も考慮して半歩引いた。
アレクシスの表情からは何も読み取れない。それこそランウェイを歩く多くのモデルたちは基本的にはそうしているように凛とした無表情だ。その所為で近寄りがたい気迫を周囲に絶えず放っている。
「アレ、」
反応が遅れた。ラニウスは油断していた。
アレクシスの手がラニウスの着ていたスーツの襟を掴み、そして有無を言わさず強い力で引き寄せる。
起きたのは衝突でも殴打でもなく接吻だった。
だがそれを接吻と呼ぶには、それはあまりに暴力的で、唇で殴打したと言う方が近い。
とはいえ、事実としてアレクシスはラニウスにキスをした。
「____、_________」
ラニウスがかけていたサングラスがアレクシスの鼻筋に押し上げられ、上に少しずれる。よってラニウスは直にアレクシスを至近距離で目の当たりにすることになった。キスには唇さえ合わせればいいというのに、二人の顔面はほとんど押し付け合うような格好で、ラニウスは自分の頬でアレクシスの頬の熱さや、閉じた瞼から伸びる長く睫毛が自分の目元を撫でるのを感じた。
ラニウスは自分の口に熱い舌が滑り込んでくるのを感じ、そしてアレクシスが一種の興奮状態にあると察した。
引き剥がすか? 出来なくはないが、力加減が難しい。
いっそこちらからも乗ったら正気に戻るか? 正気に戻った後に別の問題に発展する恐れがある。
一秒か二秒、そんなことを考えながらもラニウスはアレクシスの好きにさせた。そうしてラニウスが決断を下すより前に、絞め殺さんばかりの勢いで襟元を掴んでいたアレクシスの手が離れ、そして重なっていた口も離れた。
ふう、とアレクシスが零した息が濡れた唇をひやりとさせた。
「よくやった」
と、アレクシスはそう言い残し、それきり颯爽と来た道を戻って行った。やはり群がる周囲を置き去りにして抜け出してきたらしく、突き当りのドアを開けてメインホールに戻るその瞬間だけでアレクシスの名を呼ぶいくつもの声が聞こえた。
そしてそのドアが閉まってしまうと、通路にはラニウスとブルックスだけが取り残された。
「……新しいダーリン殿は熱烈ですな」
「……ダーリンではない」
「では、ハニーですか」
ハハハ、とブルックスは場を取りなすように笑って見せた。だが笑い声がすぐに途切れ、その場に空虚で気まずい沈黙が充満した。
「ハンター」
「ハイ」
「この通路にある監視カメラはきっと、先ほどの時間は動作不良を起こしているだろうな」
「はっ?」
ラニウスがぐるりと首を回してブルックスを見る。
「カメラはいいとして、目撃者はどうしたものかな。どう思う、ハンター?」




