08 ゲートウェイドラッグ(On the way home)
エリオット・シュナイダーから着信があったのは、丁度ハリウッド映画祭の会場に入ったときのことだった。外に敷かれた光沢のあるオーシャンブラックのカーペットを白く塗り替えんばかりのフラッシュとシャッターを歩き終え、互いにあまり興味が無さそうな関係者たちはさっさと豪奢な会場のホールへ進んでいくが、アレクシスは案の定会場に飾られている絵画や建築様式を眺めている。
『無事に会場についているな?』
「今のところは問題なく」
『サンフランシスコでは随分大人しくしていたようだ』
エクラサミットの前後でエリオットの態度は殆ど変わらない。次期代表とはいえ事務所の経営方針を実質的に決めているのは彼の意見であり、アレクシスに負けず劣らずエリオットも多忙だ。
そんな彼が直に連絡を寄越す以上、ラニウスはそれなりの無理難題を覚悟して電話を取った。だがエリオットは数秒沈黙した。それは相槌を求める沈黙ではなく、彼が何かを思案する数秒だ。彼が他人との会話中にこうもあけすけに思案の素振りを見せるのは初めてのことだった。
「何かあったのか?」
『何も。今日のイベントはあくまで招待を受けた側だ、くれぐれも媚びを売るようなことはしないようアレクシスをよく見ておけ。奴は気に入った者には判断が鈍い』
「分かった。他に注意点は」
『商品に傷をつけるな。何が起きようと』
「どれが商品?」
『君がそこにいる理由を忘れるな』
電話はそれで切れた。ラニウスはひそかに眉を寄せた。エリオットらしからぬ物言いだ。道端で露店を開く占い師のような、それらしいだけの言葉。だがエリオットは占い師ではないし、彼自身占いなど信じないだろう。
「アレクシス」
アレクシスはガラスケースに展示させられた白く透き通った何かの破片を見ていた。
「そろそろ会場へ入る……それはなんだ? 石英か」
「白晶鉱石だ」アレクシスはガラスケースに触れない距離で鉱石を撫でるように手を動かした。「シルヴェストス沖の海溝深部でしか取れない希少な鉱石で、ミクロン単位の層が重なった構造をしてる。この一塊で同じ重さのダイヤモンドの何倍もの値がつく」
「随分歪な形をしているが、そういうものなのか」
「ああ、これは元々彫刻の一部だったんだ。だが作者が世界中に出回った作品を壊して回ったおかげで、今じゃ原型を残しているものはほとんど無い。都市伝説みたいなストーリーがついたことでこんな歪な破片が今じゃ芸術品として崇められてるってわけだ」
ラニウスはガラスケースの根元に置かれた金のプレートを見た。そこには簡素に一文彫りつけられている。”Old-All's heinous acts(オールドオールの凶行)”。
「シュナイダー氏から連絡があった」
「なんだって? 給与振込口座の確認?」
「お前に傷をつけるなと」
アレクシスは鼻で笑った。首元まで一部の乱れも無い(シャツの襟が浅く開いているところまで含めて)正装は冷え冷えとしたブラックスーツに、まるで現代の甲冑を思わせるような光沢のある銀のカマーバンドを腰に巻いている。両手には手甲代わりと言わんばかりのシルバーリングが嵌められている。
「どうだ?」
今更気にしてもいない質問に、ラニウスは答えた。
「非常にいい」
「へえ」
「本音を言えば胸元まで防弾チョッキを着せたいが、その腹部装甲は頑丈そうだ。両手の装飾も良い、いざというときメリケンサックになるし、衝撃を帯びても指の関節をカバーしてくれるだろう」
「死んでくれ、頼む」
「褒めたぞ。心から」
「ああ、そうだな」アレクシスは平行になった上瞼から胡乱とした目を覗かせる。「ありがとう、嬉しいよ。心から」
「どういたしまして」
会場は広く、映画館のように前方に大きなステージと後方へ向かって高くなっていく座席がある。座席の一つ一つは広く、二つ三つのブロックごとにティーセットを据えたテーブルが置かれている。
アレクシスが会場に入るなり、数名の男女に声をかけられる。アレクシスはまるで隣の家に住む心優しい青年のように挨拶を返し、リップサービスの文句には言葉ではなく微笑んで何も言わない。賢い方法だった、是非映画にだのドラマだの言って過剰に煽ててくる相手に下手に乗ると安く見積もられる、この程度に喜ぶ人間だと足元を見られかねない。
そのうち同じくこの場に呼ばれていたエクラ財団の幹部がアレクシスを出迎え、一行は会場スタッフの案内で席についた。そこでようやくアレクシスは財団の美術監督やスタイリストと込み入った話をするようになった。
「俺は二階席にいる」
ラニウスはアレクシスに短く耳打ちすると音もなくその場を離れた。会場の警備はそれなりだ。執事風のガードが多い。そうでなくともこの会場へ入るまでの長々としたカーペットの一本道を不審者が侵すのは難しい。外には無数の目があり、よしんば会場に立ち入ったところで不審な動きをすれば目立つ。れっきとした参加者であっても素人素振りを人目を引いてしまうほどの状況だ。
ラニウスは一階の広いフロアに軒先をかけるように張り出している二階席へ辿り着いた。二階は一部のメディア向けの撮影スポットでここには報道関係者、会場の設備担当者が詰めている。
二階席の一番奥へ進み、隙間なく並んだ座席の一つに腰を下ろす。一階のアレクシスの姿も主な出入り口もステージも一面に収まる位置だ。
まもなく映画祭が始まり、会場の照明が絞られる。
「こんにちは」
太く芯のある声だった。通り過ぎて欲しいと考えていた男がラニウスのすぐそばに立っている。
ジョアキム・ベルコがそこにいた。テニス界においてその名を知らないプレイヤーは火星代表ぐらいだろう。二十世紀のテニス界三大王者の一角、そして“ウステオの太陽“と呼ばれ愛される由縁は彼の豊かで艶やかな黒髪と、凝縮されたエネルギーを感じるオレンジの目、そして甘いマスク___そしてウステオという暗黒の国家において、マフィアの銃撃事件、政治家の汚職以外でありとあらゆる新聞の一面を飾った功績による。
「隣、よろしいかな?」
「……どうぞ」
「ありがとう」ベルコは颯爽とした足捌きで身を翻し、席に座る。黒いレザーのコートにつばのついたハット、革の手袋、三揃のスーツはウステオ人にとっては血生臭さを感じさせるファッションだが、ベルコだけは例外だった。
ほのかに苦味の混じったオレンジピールとシトラスが香った。会場が暗くなり、盛大なファンファーレと共にステージがライトアップされ、拍手が湧き上がる。
ラニウスは変わらず、一階のアレクシスと他の要所を見つめていた。
「君は話題を振られるまでお喋りをしないタイプのようだね」
「仕事中なんだ。お喋りなら他を当たってくれ」
「君は話し方がローマンと似ているね。だからエッジに懐かれるのかな?」
「ローマン・アメルハウザーに謁見することがあれば、俺は今日の無礼を貴方の代わりに謝らなければならないだろう」
「彼はああ見えて冗談が好きだし、寛容だよ」ベルコは脚を組み、拍手をした。ほんの二、三回だったが深いものだった。「この拍手は、ゴッティを下した若きテニスプレイヤーへ」
今年の世界大会にベルコは参加していない。ウステオ内部で勃発したマフィアの抗争が激化し、彼は彼の縄張りを守らなければならなかったからだ。国外の多くの機関や団体、テニス国際連盟までもが彼の国外への脱出と支援を申し出たが、ベルコはそれらを断り、テニスプレイヤーとしてではなく一人のウステオ市民としてこの一年を過ごした。
「ゴッティから電話が来てね、ライバルの座を明け渡してしまってすまないと言われた。彼は時々妙にナイーブなところがある。折角大会に新しい風が吹いたというのに、私は来年それを止めなければならなくなった」
「貴方のことが心配だったんじゃないか、ナイーブなら」
「かもしれないね。だが無用の心配だ、太陽は常に沈みゆくものだし、そして常に昇りゆくものだ」
ベルコは座席の肘置きに頬杖をつき、革手袋をはめた指先で頬を撫でた。彼の顔にはマフィアに襲撃された際に負った切り傷が一筋大きく残っている。
だがその傷痕は地平線のようにゴッティの顔を傷つけ、彼に恐怖を与えても、地平線の上で燃える二つの太陽を消すことは出来なかった。
「エッジとは連絡を取っているのかい?」
「俺は今日突然、ジョアキム・ベルコに話しかけられて緊張しているただの会社員だ」
ベルコは開会のあいさつをしているステージを楽しそうに眺めたまま「私の半生にインスパイアされた映画が公開されるんだ」とラニウスに言った。「私が映画に出るわけじゃないんだが、今日は是非来てくれと招かれてね。エンタメや映画評論で発信力のある人がスポンサーにいるから顔と名前を覚えてこようかと。まさか君に会えるとは思わなかった」
「何処かで俺を見かけて一目惚れでもした?」
「残念ながら一目惚れはしちゃいない。でも君を見かけたのは本当だ」
ベルコもラニウスもそれぞれにステージや会場を好き好きに眺めたまま、言葉だけを隣の席に向けていた。
「何年前だったか、ミラノで開催されたボンフィリオ杯の会場で、当時イタリアのU18育成総監督だったロックベル・カーペンターと話す君を見かけた」
「人違いだ」
「間違いないよ」ベルコは断言した。「あのカーペンター氏が口を開けて笑う姿なんて、忘れたくても忘れられるものじゃない。君の名前を呼んでいたね、ラニウスさん」
司会の挨拶が終わり、早速今回の映画祭の各部門の表彰発表に移っていく。ステージのライトさえも絞られ、緊張を煽るようなドラムロールが鳴る。
「君が立ち去った後、私はカーペンター氏に挨拶し、君のことを聞いた。だがカーペンター氏は案の定私を野良猫のように追っ払った」
「私はそれから近くの図書館へ行き、誰にも読まれていないだろう古い地元新聞の綴りをいくつか読んでみた」
「すると1900年代後半の地方紙に君の名前を見つけた。それは当時16歳の青年がボンフィリオ杯出場権を獲得し、そのことについて本人や有識者からのインタビュー記事だった。
だが妙なことに……その新聞にあった名前は、その年のボンフィリオ杯の参加者リストにはなかった。翌年も、翌々年もね。何故かこの将来有望な青年は、グランドスラムのジュニア部門へ繋がるボンフィリオ杯の参加チケットを掴み取りながら、それを使わなかったらしい」
ボンフィリオ杯の出場可能年齢は十八歳までだ。イタリアにおける最もスタンダードで理想的なステップアップは、国内大会で経験を積み、頭角を現して、国内の若いトッププレイヤーたちが集うボンフィリオ杯で好成績を治めて全仏ジュニアへ出場という流れだろう。
その階段に足をかけておきながら、進む権利を手に入れておきながら自らその足を引っ込める馬鹿はいない。
「君は私に会えて緊張していると言ったが、私も緊張している。あの頃既に名将だったカーペンター氏がイタリアの小さな地方紙に実名でコメントを寄せるほどのテニス選手とお会いできるとは」
ドラムロールが途切れ、叫ぶような司会の言葉と共に再びの拍手が会場に満ちる。気の遠くなるような歓声のなか、しかしベルコの声は明朗だった。
「ラニウス・ヴァンダルシアさん。お会いできて嬉しいよ」
「……今はルーラーだ」
「では、ラニウス・ルーラーさん」
ベルコの視線はようやくラニウスに向けられた。ラニウスはそれを皮膚が痺れるような感覚で感じていたが、顔までそちらに向けはしなかった。ただ差しだされた手を握り返すことまでは拒まなかった。
「お会いできたうえ、握手までしていただけて光栄だ。ジョアキム・ベルコさん」
ラニウスは遠くのステージでトロフィが主催者から受賞作の主演に渡されるのをただ眺めていた。
「だが今の俺は一会社員に過ぎないし、今は仕事中だ。過去の俺がどこで何をしていたとしても、それは今語られることじゃない」
「気分を害したのなら謝罪しよう。安心してくれ、私はただあのカーペンター氏やエッジが隠したがった秘密に好奇心をそそられたに過ぎない。君に対して何か尋ねることも要求するつもりもない」
「それはよかった。俺の仕事が増えないで済みそうだ」
「今の仕事は何を? 俳優?」
「美人の番犬」
ベルコは笑顔だったが、口は閉じたままだった。ややあって彼が言ったのは「君はジョークが言えるタイプのローマンだね」だった。
「俺を彼に喩えるのはやめてくれ、その手のジョークは受け付けられない」
「ローマンのファン?」
「エッジが彼を下したときは複雑な心境だった」
「私を負かしたときは?」
「よくやったと思った」
「フフ……フフフ!」
「静かに」
受賞部門について次々に発表が行われ、そのたび歓声が上がる。主演俳優や監督がステージに上がり、リラックスした様子でスピーチを行い、トロフィを掲げる。受賞作品のハイライトがステージの背景に映し出され、受賞部門の名前が金色の筆記体で踊る。
ベルコの半生にインスパイアされたという映画はヒューマンドラマ部門で優秀賞を受賞した。ベルコと少し雰囲気の似た主演俳優と痩せた監督が壇上スピーチを行う際にベルコの名を上げ、彼らはベルコが今日この会場に来ていることも仄めかした。一階の参加者たちはベルコを探したが、それは分かり切ったお遊びのようなリップサービスだった。ベルコがこの映画作製に際し、あくまで自身のドキュメンタリにしないことを課したこと、彼自身が自分の半生を誰かにあこがれとさせるつもりがないことは何度も過去のインタビューで語っている。
「サクセスストーリーとして描く以上私の名は使わせないと言ったのさ」
ベルコは独り言のようにつぶやいた。
「私はサクセスストーリーの最中にあるし、同時にとんでもない転落劇の渦中にあるとも言える」
「ジョアキム・ベルコになれると言われてなりたがる人間は実際少ないだろう」
「光栄だ」
「とんでもない。俺に礼儀を払わないでくれ」
ベルコが心得たように頷き、ラニウスもその理解に対する謝意として頷いた。
「私が君を見かけたのは、実は一度だけではないんだ」
ベルコが言う。だが言葉の続きを述べる前に、ベルコがふと目を細め、眉をひそめた。ラニウスは既に席を立っていた。
「次に静かになるまで席を動かないでくれ」
そう言い残し、ラニウスは二階席の最前列まで出ていき、安全柵の手すりに手をついて一階を見下ろした。アレクシスは変わらず中央寄りの席で財団関係者と共に座っている。
ラニウスは手すりを握って肘を曲げ、二度勢いをつけて三度目に自分の体を柵の外へ放り投げた。
銃声が鳴るのと、ステージにいた俳優が倒れるのと、そしてラニウスが一階のテーブルに着地するのはほぼ同時だった。
大半の参加者は銃声を銃声として理解したが、少なくとも目の前に突然大男が降ってきたアレクシスと財団関係者はそれを銃声だとは思わなかった。飾りのミニブーケが置かれたテーブルに降り立ったラニウスは、ただ唖然としているアレクシスとその両脇にいる財団関係者に言った。
「動くな、此処にいろ」
そして顔を銃撃犯の方へ向ける。参加者たちが使用した会場後方の大きな両開きのドアではなく、関係者用の片手開きのドアの一つから身なりのいい男が銃を掲げて立っていた。会場の暗さの中でその顔色の悪さとこけた頬が目立つ。男は踏み込んで一発と怒号を一言上げたきり、二階席から落ちてきて中央テーブルに立っている男に呆然としている。
だがそれも、テーブルから降りた巨漢が自分めがけて猛然と走り出したら固まってなどいられない。
「全員動くな!」
奇しくも銃撃犯が乗り込んできたときと全く同じことをラニウスが言った。銃口が自分に向いたことを察し、最短の直線距離で肉薄する。座席の背もたれ、テーブル、それらをパルクールの要領で飛び越えて進む。途中一発発砲があったがラニウスは止まらない。
二発目が腹に着弾すると同時にラニウスの踵が銃撃犯の顔面にめり込んだ。会場から押し返されるようにエントランスホールへ蹴り出され、ラニウスは会場に他の銃撃犯が侵入していないことを確認し、そのまま自らもエントランスホールに出た。
顔面を蹴られた男は口元を押さえ床をのたうち回っている。ラニウスがその横を通り過ぎ、床に転がった銃をハンカチに包んで拾い上げる。Colt-F1911。11.43ミリ口径。米国においては歴史のある銃だ。贋作でもない。だがそばでのたうち回っている男は見るからに一般人で、これを扱うにふさわしい犯罪組織の幹部とはとても思えない。
エントランスは無人だった。
正面玄関入ってすぐの場所に立っていた警備の姿もない、拘束されたか負傷して動けないか。建物に入るまでの警備はやたら厳重だったが、内部は手薄だった。とはいえ、それは相対的な話だ。
いくら防音性に優れた会場内で起きたこととはいえ、誰も駆けつけてこないのはおかしい。駆け付けられないと見るべきだ。
「他の仲間は何処だ?」
ラニウスは床に転がる男を仰向けにして尋ねた。鼻血が出ている。だがそれだけだ。歯ぐらいは折れたかもしれないが、子供だって転べば歯を折る。
「喋れるだろう。喋れるように加減したんだ、質問されている意味を考えろ」
襟首をつかまれた男は随分やつれていた。少なくともここ数日はまともな食事も睡眠もとっていないらしい。目は血走っていて、恐怖で動揺しているのに口元はうっすら微笑んですらいた。だがそれらの不健康さがなければ、もとは美丈夫だったのだろうと察せられる顔立ちだった。アレクシスならこの男を知っているのかもしれないが。
発砲の瞬間、ステージにいたのはベルコの半生にインスパイアされた映画の監督と主演俳優だった。
「何人で来た? 他の奴らは何処にいる?」
ラニウスは犬のような呼吸を繰り返す男の目の前で、指を何本か立ててみたり、いろんな方向を指さしてみた。だが男がぬめった眼球を不規則に動かすだけで反射的な反応さえしなかった。
そしてあるとき、男は首を伸ばしてラニウスに噛みつこうとした。開いた口の中に見えた歯も舌も真っ白だ。腐ったチーズのような異臭がした。そしてラニウスが返す頭突きで男はついに意識を失った。
会場に戻ると、一階は騒然としていたが出てきた時と状況は変わっていなかった。だがラニウスが見上げた二階席のほうでは、いくつかの大型カメラが無人で置き去られていた。あのカメラを操っていたスタッフらは?____揃ってフロアの奥の方へ移動している。ちょうどベルコが座っている場所に向かって。
STAFFの赤いビブスをつけたうちのひとりが尻ポケットから黒光りする銃を取り出すのが見えた。ラニウスは先ほどの男から回収したColt-F1911で発砲した。二階席で銃声が鳴るより早く。
二の腕のあたりを撃ち抜かれたスタッフがその場に崩れ落ちる。奥で同じく銃を構えたスタッフがいたが、それは横からぬうっと突き出た腕に絡め捕られて姿が見えなくなる。
さらに別のキャップを深くかぶった男が身を乗り出して銃口を一階に向けるが、相手が標的に照準を合わせる前に左肩から血しぶきが上がった。 左肩が後ろに下がり、重心が崩れた男の体がぐらりと右斜め前に傾く。そのまま二階席の柵を乗り越えて宙へ放り出された体を、ラニウスは一階で受け止めた。
「こんばんは」ラニウスは腕の中で肩を押さえて呻く男に呼びかけた。「ほかに仲間はいないな?」
その問いには二階から返事があった。ベルコの腕が突き出て、こちらに見えるように手を振る。あくまで自分が此処にいることは露見されたくないらしい。
ラニウスは左肩から出血する男を抱いたままステージの方へ向かった。他人事のようにきらびやかな映像だけが一人で再生を続けている。
「席を離れるなと言ったろ」
ステージには撃たれた俳優と顔面蒼白でそれを取り囲む監督、司会者、そして手を血まみれにしたアレクシスがいた。彼の手はあおむけに倒れた俳優の腹を押さえており、指の間から赤い血がにじんでいる。
アレクシスはラニウスを見て、そしてその腕に抱かれている血まみれの男を見て言葉を失った。「襲撃犯の方だ」ラニウスがそう言えば、「なんでんな奴連れて来てんだよ!」と激怒した。
「こいつはもう動けない。左肩を撃ったし」鈍い悲鳴が上がった。「今右肩を外した」
ラニウスが紐のようなもので拘束を依頼すると、司会者は慌てて参加者たちにテーブルクロスの提供を求めた。ステージにほど近い位置にいた俳優たちがクロスを持ってステージに上がり、中には身に着けたチェーンのアクセサリやベルトを提供しようとする女優もいた。
「傷を見せて」
アレクシスの手をどかせる。撃たれた俳優は息が上がり、アレクシスが手をどけた途端シャツに広がる赤いシミを見てさっと顔を蒼くした。ラニウスは血に濡れて張り付いているシャツの前をくつろげ、傷口を見た。そしてすぐそばのステージの床板に破損を見つける。
「大丈夫だ、弾は貫通してる」
「それ大丈夫なのか?」
「吐血もしていないし、腹部側面の浅い部分を貫通してる。臓器に傷はついていないはずだ。致命傷にはならない」
他の参加者が持ち寄った水で傷口を洗い、テーブルクロスを細くちぎって腹に巻き付ける。「抱き着いて」ラニウスが言うと、俳優は腕をどうにか首元に回してきた。ラニウスがかがめていた背中を伸ばし、俳優の状態を持ち上げて包帯を回す。アレクシスが横から補佐した。
「筋トレはあまりしてないようだが、今日だけはそれが良かったな。君が俺みたいな体の持ち主だったら弾が腹筋に埋まって摘出手術するはめになった」
俳優がかすかに笑った。どうせ手術だ、と彼は言った。
「手術室に入る頃には塞がってる」
「だといいけど……」俳優はどうにか息を整え、そしてラニウスを見た。「なあ、二階席にいたよな? ベルコもあそこにいたのか?」
「いいや、俺は見てない」
「彼がもし今日此処に来てたら……がっかりしただろうな……自分の映画の主演がこんなので……」
「映画とベルコは無関係だろう」ラニウスは言った。「誰しも彼にはなれないし、彼も君にはなれない」
ラニウスはクロスをきつく巻き終えると、駆けつけてきた本来の会場スタッフに俳優を任せて引き上げた。一旦は事態が収束したと見えて、一部の参加者たちの方が会場側や自らの所属先と連絡を取り合っているのが見える。
二階席を見ると、帽子を深くかぶったベルコは既に外通路への扉に手をかけていた。そしてラニウスの視線に気づくと、わずかに帽子を持ち上げてから姿を消した。
「アレクシス、怪我はないな」
「ねえよ」
アレクシスの両手は血まみれだった。だがよく見れば衣装の裾や袖にも血がついている。
「席を動くなと言っただろ」
「お前が大声で動くなって言ったから誰も動けなかったんだよ、ステージで血を垂れ流してる人間がいるにもかかわらずな」
「それはすまない。俺の指示が悪かった、だが」
「反論するな」
ぴしゃりと切り捨てられ、ラニウスは閉口した。そしてアレクシスは血に濡れた自分の手を見つめ、溜息をついた。
「風呂に入りたい」
「しばらくは無理だ。救急車と警察が来るまで勝手に撤収は出来ない」
「手ぐらいは洗ってもいいだろ」
「ああ」
ステージから降りて手洗い場へ向かうアレクシスの方を通りすがりの様々な人々が叩いた。流石にハイタッチや握手は求められてもアレクシスがやんわりと拒否したが。
エクラ財団の関係者はアレクシスの無事と貢献をたたえ、そしてラニウスには財団事務局に連絡したことを伝えた。HRAにも情報が届くだろう。特に役に立つとは思わないが、警察が到着して解散してもよいとなるまでは此処に留まるとも。
広い手洗い場は無人で、アレクシスは豪快に汚れた服を脱ぎ、シャツにスラックス姿で手を洗った。そしてふと、隣の流し台でアレクシスが外したアクセサリーを洗っているラニウスを見た。
「そういやお前、撃たれてなかったか?」
「ん?」
ラニウスのスーツには穴が空いていた。腹部と胸元に二つ。
「中に防弾チョッキを着ているから平気だ」
「ああ、そう……」
アレクシスは粗方血を流し終えたのか、蛇口をひねって手を拭いた。ラニウスが同じように血を洗い流した銀の装飾品を差し出す。白い指先が雲の足のようにそれらをとらえ、そして指先に通していく。
「やっぱ先にサンフランシスコ行っといて正解だった」
「結果論だ」
エントランスに戻ると、締め切った正面扉ごしにもサイレンや報道ヘリと思しき騒音が聞こえた。正面入り口の野次馬は大変な数に膨れ上がっていることだろう。主催者側の幹部が勢ぞろいしており、司会者はラニウスを見つけると事情聴取への協力を求め、ラニウスは快諾した。
「負傷者は?」
「先に到着した救急隊が搬送していった。監督と会社のマネージャーが同乗して行ったよ。救急隊とも自分で話していたようだし、あちらは大丈夫そうだ。ああ、バックマンさん、貴方に感謝を伝えていたよ。後日正式にお礼をしたいと」
アレクシスが肩をすくめる。
「襲撃のとき、警備は何処で何を?」
主催者はとたんに苦い顔になり、口ごもった。ラニウスは「まあ、詳しい事情は警察に話してくれたらいい」と言った。少なくとも現場にいた参加者たちは救命活動に協力的で、混乱や不安をあおるような不届き物はいなかった。
そのとき正面玄関が明け放され、ねじ込むような激しいフラッシュの中をカリフォルニア州警察の制服を着た警官や捜査官たちがぞろぞろと入って来る。位置口には規制線が二重三重に敷かれ、警官が報道陣や野次馬とにらみ合っているのが見える。
州警察の担当者が早速主催者と話し、捜査チームが二分して現場となった会場へさらに進んでいった。主催者から事情を聴いているチームのうち、女性捜査官がラニウスとアレクシスの方へやってきた。
「こんばんは。今お話を伺えますか? お怪我などはされていません?」
捜査官の目はアレクシスの服についた血と、そしてラニウスのスーツに空いた穴を見ていた。
「これは負傷者の傷を押さえたときの血だ。俺は何とも」アレクシスが言った。
「同じく」ラニウスも答えた。
「スーツに穴が空いているところを見るに、襲撃犯に対処されたのはあなたですね」
「俺は仕事で、隣の彼の安全確保に責任を負っている。銃を持った男たちに対して対処はしたが、彼らが何処の誰かはまったく存じ上げない」
「犯人たちの身元はすぐ明らかになるでしょう。銃を奪って反撃したと聞いていますから、あとで指紋をとらせていただきますね」
「勿論」
「それと、防弾チョッキに弾が残っていたらそちらも回収させていただけますか。できればチョッキごとお借り出来たら助かるのですが……」
「好きに持っていって構わない」
ラニウスはその場でジャケットの下に着ていたチョッキを脱ぎ、女性捜査官に手渡した。捜査官は「ありがとう」と言って受け取り、そして眉を浮かべた。「このチョッキはプレートが入っていないわね。本当に怪我はない?」
防弾チョッキには弾が二発埋め込まれており、それは辛うじて貫通していない、というような様子だった。
「スーツの下に着るので、ある程度伸縮性があるものを選んだ。怪我はない、撃たれたところが多少痣になるぐらいだろう」
「あとで見せろ」アレクシスが言った。
「なんでだ」
「なんで? 帰りの車内でお前が突然胸を押さえてハンドルを離しでもしたらどうなる?」
「車は止まる。何故なら俺がブレーキを踏むからだ」
「急ブレーキで俺がフロントガラスぶち破ったら、今度こそ俺は自分の血でこの服を汚すだろうな」
「シートベルトをしろ」
「ヘイ」女性捜査官が手をあげた。「貴方たちが仲良しなのはわかったわ、じゃあこうしましょう。銃弾を受けた箇所をそちらのハンサムな彼に見せるか、うちのお堅いリーダーに見せるか、好きな方を選んで」
ラニウスは女性が示した方を見た。そこにはしどろもどろに話す主催者の前で腕を組んで立っている長身の男性がいる。ブルーのシャツに黒のスラックス、きっちりわけた髪にリムレスフレームの眼鏡。眉が細く、その下にある三白眼が異様な迫力を持っていた。
「……アレクシス」
「判断が遅い」
アレクシスはラニウスの胸元を思い切り叩いた。そしてラニウスがむせると「負傷者一名だ」と言った。女性捜査官もすぐに背後の同僚たちに向けて「負傷者もう一名!」と声を張り上げた。「すぐに医者が来るからお待ちを。くれぐれも、此処を離れずにね」
それきり女性捜査官は颯爽と去っていった。ラニウスは仕方なくエントランスの階段に腰掛けた。アレクシスもその隣に座る。
「俺の方は長くなりそうだ。他の参加者が解散となったら、お前だけ先に財団の関係者とホテルに戻るか」
「いや。だるいから此処にいる」
「だるいから……?」
「財団の奴らに身内顔されんのも面白くねえしな」
アレクシスは足を床に向かって伸ばし、その場で前屈した。
「お前とエクラ財団は今後懇意になると思っていたが」
「仕事はするが、財団の顔にされるのはお断りだ」
「独立したいのか」
「出来れば」
「できれば」
ラニウスがわずかに笑うと、アレクシスが毛の一本もない頭を軽くたたいた。
「三年以内に事務所を抜けて独立する」
「具体的な数値目標があるのはいいことだ」
「止めるかと思ったがな。戦略的ではないとか言って」
「この業界の戦略は俺には分からん」
今更、ラニウスはアレクシスと所属事務所が裁判中であることを思い出した。きっと当人らもそうだろう。あまりにずっと延々と争っていると、次第にそれは日常になる。ラニウスから見て、エリオットとアレクシスは確かに価値観が異なるようだが性格は似ているように見えた。実際、昔はエリオットがアレクシスのそばで活躍を支えていたのだろう。
事務所に所属していることで得られる恩恵は多大なものだ。特にHRAともなれば。アレクシス個人のネームバリューもけして卑下するようなものではないが、それでも独立は彼から多くのものを奪うだろう。それでもアレクシスはそれを選び、裁判という手段で対立を明言している。
「お前が後悔しないようにやればいい。人間は遅かれ早かれ皆堕落する、その日をどれほど先送りにできるかが重要だ」
「相変わらず上から目線だな」
「それは物理的な高低差であって、少なくとも謙虚と献身を心がけている。お前が寝坊しても見捨てずにサンフランシスコへ連れて行った」
「それは単にお前が美人にこき使われるのが好きなだけだろ」
「否定はしないが」
ラニウスが眉を寄せ、盛り上がった眉間に押されてサングラスがちょっと浮き上がる。「だが物事には限度というものがある」
「知らねえよ。お前は一生俺にこき使われてろ」
「俺の契約期間は一年間だ。更新の有無は乙の勤務態度や実績、甲の経営状況などを総合して期間満了の30日前までに甲によって決定し乙へ通知される。この場合の甲は事務所、乙は俺だ。お前じゃない」
気づけば二人は既に半年近くを過ごそうとしていた。出会ったばかりの頃に出向いたヴィラのことが急に懐かしく思われた。別に何かが変わったわけではないが、お互いへの第一印象は大きく変わった(あるいは、大きく確信を深めたというべきか)。
「お前って昔軍にいたんだろ」
「ああ」
「そのときもこうやって暴れてたのか?」
「暴れたことなど一度もない。俺は在軍中、ただの一度も口頭注意さえ受けたことはない」
「ああ、そりゃすごい。じゃあ一生軍にいりゃよかったのに」
「ああ」ラニウスは頷いた。「その道を進んだとしても、俺は良い人生を過ごせただろう」
事情聴取を受け続ける一部を除く参加者たちに解散の許可が出たのか、会場から次々に着飾った映画界のスターたちが出ていく。彼らが外へ出ると激しいフラッシュが一層激しさを増し、まるで空気そのものが爆発しているようだった。
ラニウスはその人の流れをぼんやりを眺めていた。だがすぐに、外の野次馬やメディアによって築かれた壁に吸い込まれていくように左右へ別れてい人の波の合間を、逆光を背負った黒い影がふたつ、ゆっくりとこちらに向かってくるのが見えた。
そのうち先頭を歩く影の動きは特徴的だった。右足を庇って歩いている。光沢を散らしたカーペットの上をまるでなんてことない田舎道のように悠々と、そしてぎこちなく、右手に松葉杖を突きつつやってくる。
色褪せたデニムジャケットにジーンズ、Tシャツ、レザーのスニーカー。
州警察の捜査官が一人、松葉杖の人物を止めようとしたがすぐに引き下がる。忘れ物に気づいて引き返してきたアジアの若手俳優とばかり思っていた男が取り出したのが紛れもない連邦捜査局の捜査官手帳だったからだ。
ゴン、ゴン、ゴン____ゴツン!
外のフラッシュやヘリの音で今まで気づかなかったが、男は松葉杖を医療用具というよりもまるで武器のような勢いで扱っていた。彼が歩くたび、杖の穂先が床を強烈に叩き、それは戦闘民族が己を鼓舞する儀式のような音を立てた。
そして男は目的地に着くと、松葉杖を両手で持ち直し、思い切り床へ突き立てた。階段に座っていたラニウスが足をどけなければ、杖の先端はラニウスの足を貫いただろう。
「よう相棒。俺がいなくて寂しかったか?」




