04 アイスブレイク(with sleep me?)
エクラ・サミットが三日後に迫ってようやくアレクシスのスケジュールは白紙になった。もっと早く調整期間に入るべきだとラニウスは考えていたが、アレクシス本人がいつものペースが崩れる方が調子が狂うと言った。なか二日という極めて短い完全オフが妥協点だ。
そして貴重な二日間の一日目、アレクシスは出かけると言い出した。
「何故?」
ニューヨークにある高層マンション最上階で、ラニウスはこの仕事に就いてからもう何度目かになるかも分からない純粋な疑問を呈した。質問するにしても何かしらの予想をして疑問を呈するのが常だが、アレクシスの思想に関しては何もかもが参考にならない。
「生活必需品は全て揃っている。身体のメンテナンスは昨日済ませた。すべきことは静養と集中。これだけだ」
「ワンちゃんのくせに散歩嫌いだよな、お前って」
アレクシスはどういうわけかこの呼び方をいたく気に入っている。ラニウス・ルーラーを犬呼ばわりする人間が__それは常に国家の犬としてだが__これまでにいなかったわけではないが、こうまでしつこく同じ人間が犬呼ばわりしているのは初めてのことだ。
過去ラニウスを犬と呼んだものたちはみな、今では監獄に犬のように繋がれている。
「モチベーションの維持に必要と言うことであれば考慮するが、何処へ?」
「百貨店と美術館とあとリストに入れといたカフェ。買い物と、SNS用のストックを作っておく」
「化粧品や服を買うことは、果たして本当に今すべきことか?」
「黙ってリード持ってきな」
アレクシスは携帯をいじりながらオーバーサイズのジャケットを羽織った。ヴィンテージものらしい。黒い生地の表面には摩擦による光沢がついていて、それは明らかに人為的かつ位置を狙いすましてつけられたものだ。
この手の人間はフィジカルよりもメンタルの方が問題だ。寝不足はベッドに縛り付けてやれば治るが、一度不機嫌になると長い。
ラニウスはリビングのダッシュボードにある車の鍵を握り、仕方なく玄関へ向かった。
アレクシスが指定した百貨店というは、親子連れや一般人がウインドウショッピングで冷やかして回るようなデパートではなく、明らかに客を店側が選ぶタイプの店だった。
ニューヨークの一等地に立つ老舗ホテルも兼ねたビル一棟。ドアマンはにこやかな笑顔とは裏腹にその門を固く閉ざしており、彼らの目には通行人と客が明確に区別されている。
実際、アレクシスがまだ車から降りもしないうちに彼らは目の前の通りに寄せられた車を見るなり、迷いない足取りで後部座席のドアのそばに立った。
「いらっしゃいませ、お手荷物お持ちします」
「お車をお預かりいたします」
同じように運転席に回り込んだドアマンがラニウスに微笑みかけ、運転を代わる。
固く閉ざされた豪奢な回転扉の向こうは数階吹き抜けになっており、内部には想像より多くの客がいた。老若男女様々だが、少なくとも彼らは平日の昼間だというのにせかせかしたところがない。
ラニウスはタイタニック号のダンスホールを思い出した。巨大な螺旋階段と円形のホール、優雅な男女、流れる音楽。
「本日は何をお探しで?」
恭しく尋ねる店員にアレクシスがああ、とふと思いついたようにラニウスを顎で指した。
「彼にスーツを見繕ってやってくれないか、派手じゃなくていいが動きやすくて品のあるものを」
店員はさっとお辞儀するなり、また二、三人のスタッフに指示を出し、波紋が広がるように人が一斉に動き出した。
指定された仕立て屋のある階へ階段で向かう道すがら、ラニウスはもはや驚きもせずただ「聞いてないな」と言った。
「馬鹿言え、今言ったろ」
「情報共有の遅さは致命的な欠点だ」
「病院に来たわけでも無いのに吠えるな。唇にヒアルロンでもぶち込んでやろうか?」
「スーツならもう持ってる」
「安物のな」アレクシスが階段の手すりを思わせぶりな指付きで撫でた。「普段ならまだ目を瞑ってやるが、エクラサミットでそんなもん着てたら警備員に何回捕まえられても足りない。お前も含めて俺の衣装だ、粗悪品を着る気はない」
「……飾りはつけてくれるなよ」
「銀のカフスに睡眠薬仕込みのタイピン? それと腕時計型の小型爆弾とか?」
「ドラマの見過ぎだ」
「FBIにそういうのはないのか?」
「少なくとも腕時計型の小型爆弾なんて、外し忘れて朝起きたら手首が吹っ飛んでる危険性の方が高いだろう」
「確かに」
アレクシスがふいにラニウスの顔に向かって手を伸ばした。ラニウスは身を捻ってかわす。「なんだ?」さらに追いかけてくる手をラニウスが押し除ける。「なんなんだ」
「お前がサングラス外したところを見たことがない」
「そうか。それで? 何故俺を殴ろうとする」
「サングラスを外して顔を見せろ」
「断る」
「なんだ、ハムスターみたいな目でもしてるのか? その時は気持ちよく笑ってやる」
「階段から投げ落とされたくなければ今すぐやめろ」
「ああ、今度の休みは法廷にお散歩か? 裁判長にサングラスを外せって言われたら断れないよな」
三階にある仕立て屋はウインドウショッピングが許されない密室だった。入り口は両手開きの大扉で閉ざされ、招いた客しか立ち入れないことを暗に示している。
その扉が今まさに内側へ向かって開く瞬間、アレクシスの指先がサングラスのブリッジへ触れた。
だが同時に、ラニウスの手がアレクシスの腕を捉えてもいた。
「”好奇心は猫をも殺す”と言うだろ」
ラニウスは無造作に掴んだアレクシスの手首を離し、そしてその手のひらをわざとらしいほど丁重に取って下ろしてやった。「飼い犬に嚙まれたくなきゃお行儀良くすることだ、子猫ちゃん」
アレクシスが手を振り払う。ラニウスは動じなかった。どころかさらに挑発するように両手を広げ、自分が如何に無害で従順であるかを示して見せた。ドアが開く。
「ようこそお客様、どうぞこちらへ」そんな二人の攻防を知らない店員が丁重に促す。グルマン調の柔らかいフレグランスが漂う。
「まずは採寸を。フィッティングルームへご案内します」さらに一歩歩み出たブロンドの女性店員が如才なくラニウスへ微笑みかける。
ラニウスは唯一表情を表現できる口元で微笑み返し、店員の案内に従った。
まるで国立図書館のような高い壁には一部の隙も無く棚が並び、知恵と書物の代わりにそれらには色とりどりの布地が整然と仕舞われている。おおまかに二列、幅を空けて点在する作業机では今まさにテーラーたちが布地に鋏やペンを走らせ、首に巻いたメジャーの端を当てている。
「あいつマジでムカつく」
「はい?」
「ン?」
アレクシスの呟きに遅れて反応した店員に対し、アレクシスは首を傾げて見せた。それだけで将来有望なテーラーは思わず目をそらして狼狽えた。その予想通りの反応はまさに、飼い主に照れろと命令された犬のようだ。アレクシスは一つ息をついて溜飲を下げた。
「そういえば此処って、犬用の首輪は取り扱ってなかったか」
「はい、ございますが……」テーラーは気を取り戻しつつ、言い辛そうに「サンプルをお持ちしましょう。犬種などはお分かりですか?」
「さっきの奴」
「はい____はい?」
「さっきフィッティングルームに入って行ったスキンヘッド」
テーラーが完全に固まった。アレクシスがすぐに笑い出す。「冗談だよ、悪かった。揶揄ったんだ!」まるで無邪気な子供のように言われては周囲はどぎまぎするばかりだ。
「まあ、でもサンプルは見せてくれ。大型犬用のをね」
今にも四つん這いになって飼い犬に志願しそうな周囲のスタッフを無視して、アレクシスはフィッティングルームのある待合室へさっさと歩みを進めた。
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スーツに限らず、採寸というものをラニウスはこれまでしたことが無かった。SMLという記号から最も塩梅のいいものを選ぶだけだ。身に着けるものは身に着けているうちに馴染んでゆくもので、着古して履き潰すことでオーダーメイドになる。
ただ的確で明確な指示に従うのは得意だ。そして分厚いカーテンに囲われたフィッティングルームに共に入ったスタッフの指示はまさにそうだった。
「非常に均整の取れたお身体をされていますね」ラニウスの肩幅にメジャーを当てながらスタッフが言った。「何かスポーツを?」
「テニスを子供たちに教えるぐらいだ」
ラニウスがそう答えると、スタッフは小さく微笑み、そしてそれ以上は何も聞かなかった。ラニウスの身体が子供テニスチームの指導をするだけで出来上がるものでないことと、そしてそれを言わなかった以上積極的に話したい背景でないことを察したのだろう。
腕を上げ、肘を曲げ、スツールに足を上げ、膝を曲げて伸ばす。
深いテラコッタのカーテンは緞帳のようで、ダウンライトが灯る円形のフィッティングルームは舞台裏のようだった。初めのうちは一つ一つ指示を出していたスタッフも後半はほとんど黙りこくって動き回り、ラニウスも相手の測りたい場所をなんとなく読み取ってされるがままにしていた。
「バックマン様からは色の指定はございませんでしたが、何かお好みの色はございますか」
「目立たない色であればいい」
「光沢は?」
「光る?」ラニウスは微笑んだ。「論外だ」
ラニウスが脱いでいたジャケットを羽織る。スタッフはダウンライトを消し、カーテンを開けた。
フィッティングルームが集められた奥の一室からまたさらに別の部屋に案内される。そこは小ぢんまりとした(あくまで相対的な意味での”こぢんまり”であって、平均的な家のリビングルーム二つ分ぐらいはある)個展のような部屋があった。室内にはいくつかのアンティークと絵画が飾られていて、部屋の中央には広々としたソファにテーブルがあった。
アレクシスはソファに座っていた。その手には陶器の皿と銀のフォークがあり、フォークの先にはマスカットが一粒刺さっている。どうやらテーブルに広げられたティーセットの中でアレクシスのお眼鏡に一番にかなったのはフルーツタルトだったらしい。
「早いな」アレクシスが言った。「もっともたつくかと」
「そういうものなのか」
「かかるやつは一時間以上かかる」
「成程、経験則か」
アレクシスが見せつけるようにマスカットを頬張った。皿の上には選ばれたフルーツタルトが乗せられていたが、それには手を付けずにテーブルへ戻してしまう。
「食べないのか?」
「食欲が失せた」
明らかに機嫌が悪い。その元凶である自覚はあったので、ラニウスはアレクシスに背を向けるようして壁に掛けられた大きな絵画を眺めた。
その絵画は油絵で描かれた風景画であったが、そこ描かれた光景は現実のものとは思えないものだった。一見して宗教画ではないかと思われるのは、絵画全体の色使いとえも言えぬ神聖さゆえだ。
左手側に輝く光と波しぶきを引き攣れている奇妙な甲冑を纏った軍勢がいるからだが、軍勢の頭上に光輪はない。右手側には黒い煙のような闇を纏った行列が遠くの丘から断崖へ集い、宙へ腕を伸ばしている。
安直に考えれば光と闇の軍勢が今まさに邂逅する光景だが、闇の軍勢に思しきほうには頭上に黒い光輪があって、光の軍勢は奇妙な甲冑からみえる下半身が馬だったり鳥の羽だったりで妙だ。
絵画には当然説明文も作者名の記載もない。
ラニウスにできるのはただ、絵画の表面に残る絵具の凹凸や滲みから作者がこの絵に筆を走らせた光景を想像することだけだ。
「絵画鑑賞は好きか?」唐突に背後から声をかけられる。
「好きでも嫌いでもない」ラニウスは答えた。「そこに絵があれば見るが、意味は分からない。さほどの興味も無い」
いつのまにかアレクシスが横に立っていた。「芸術は爆発だなんて言葉が流行ったせいで勘違いする野郎が多いがな、爆発が解明された化学現象なら、芸術にも理論と定式がある」
アレクシスは絵画に顔を近づけて目を細めた。均一に並んだ睫毛がかすかに震えるのをラニウスは見た。「見てみろ」アレクシスは絵画の一点を指さしたかと思えば、次々にまた別の個所を示した。「この黒い行列は人間の解脱を示してるんだ。分かるか? 列の先頭の奴らは両手に何も持っていないが、列の後ろに行くごとに何か持っている奴が増えている。こいつは林檎、こいつは鼠の死骸、こいつは花……こういうモチーフは決まった意味に翻訳できる。林檎は欲、鼠の死骸は老い、花は愛」
言われたとおりに見ればその通りだ。黒い軍勢の列は後ろに行くほど遠ざかり一人一人の姿は小さくなるが、その小さな姿の手元に何かが描き込まれている。
アレクシスの口調は淡々としていて、誰かにものを教えているというよりも、まるでこの絵画の光景を実際に目にしたものがそれを語って聞かせているようだった。
「この黒い行列の後ろに行けば行くほどまだ欲求や恐怖や愛を持っているが、先頭へ行くにつれて、つまり行進を続けているうちにそれらを失う。そして断崖に辿り着いたやつは海の向こうからやってくる未知の存在と邂逅する。この光の加減も、よく見れば何かを持っている奴には当たっていない。つまり手に何かを持っているうちはこの白い奴らは見えていないんだ。腕を伸ばしているのも先頭のこいつだけだ」
アレクシスは空気を撫でるように指先を動かした。
「こっちの白い奴らも見てみろ。前にいる奴らは手足が動物として描かれているが、後ろの方は手足の先まで描かれていない。そして先頭の奴の足は鷲の用に見えるが、爪の数が前に向かって五本ある。これは人間の指の数と同じだ。他の奴と描き分けられてるのは、隣の鷲爪の奴が前に三本で後ろに一本生えてるのを見ればわかる」
説明を受けてもう一度絵画を見れば、それは今までとは異なる印象をラニウスに与えた。この二極的な黒と白の軍勢は遭遇し、そして対立しているのではなく、今まさにそれぞれがそれぞれに到達した瞬間を描いているのだ。人間と人間ならざる何かが、元々の己を捨てて辿り着いた境地。
その交錯の一瞬がここに描かれている。
「成程」
「本当に分かってんのか?」
「理解した」ラニウスは絵画を改めて端から見つめながら言った。「お前は俺の想像をはるかに超えて勤勉だ」
多くの人々はアレクシスを煌びやかな世界の住人だと見なしている。その世界の住人は奇抜であったり美人であったり一見して人目を惹くが、それゆえに視線は外見に釘付けだ。
彼がかのイサンドラと会話をするためにローマ史を学び、こういった絵画のモチーフに詳しく、撮影の現場に入るときは関係者や公式広報を洗い出してから臨むことを知っているものはいないだろう。アレクシス本人とて、そんな姿を誰かに見せたがらない。
アレクシスもアレクシス以外も、煌びやかな結果だけを求めているのだ。苦労話など誰も興味がないし、見向きもされない。
そもそも、この手の美術史に関する知識など、ひけらかせば顰蹙を買うだけだ。アレクシスがこの手の知識を持っているのは、この手の知識をひけらかしたくてたまらない人間へのリップサービスを提供するためだけに過ぎない。
馬鹿を演じるにも知恵がいるのだ。
「”大賢は愚なるが如し”」
「なんだって?」
「アジアの諺だ。本当の賢者は無意味に知恵をひけらかさない、故に一見すれば愚者のように見える」
「”能ある鷹は爪を隠す”の方が俺の好みだ」
「猫は爪を隠さないだろ」
今度こそアレクシスの拳はラニウスのわき腹を捉えた。
ラニウスがかすかに眉を顰めたとき、部屋のドアが開き、スーツを数着吊り下げたラックを転がしてスタッフがやってきた。
見繕われたスーツはどれも一見して品格を感じさせた。ラニウスが光沢のあるものを避けてほしいと頼んだために布地はどれもマットなものだが、アレクシスがひとつ手に取って袖を持ち上げると滑らかな凹凸に艶が生まれた。
オールブラック、ダークネイビー、アイスグレー、オータムベージュの四色それぞれを基調としたスーツをアレクシスがまず自分の目で見て、そして一つずつラニウスの体の前に掲げて目をすがめる。そして肌の色がどうだの骨格がどうだと言い、早々にネイビーのスーツを「却下」とスタッフに返した。
「黒でいいんじゃないか」
「静かにしろ」
「……息を止めた方がいいか?」
「お前、上脱げ」
ラニウスは溜息を殺して上着を脱いだ。「ベルトも外せ」即座に次の指示が飛ぶ。何故? とジェスチャーをするがアレクシスはグレーのスーツを掲げて微動だにしない。仕方なくラニウスはベルトを抜き、スタッフにそれを渡した。アレクシスが途端に舌打ちした。
「大胸筋がデカすぎる。臍がそこじゃ、この手のジャケットはバランス悪いな」
「俺が悪いのか?」
「これ、腰絞れるか?」アレクシスがスタッフに尋ねると、スタッフはジャケットの内側に手を差し込み、なにやら囁いた。「ふん。まあ、これはこれで羽織りゃいい……おい、動くな」
ラニウスが肩を竦めた。腕を組むと、腕を組むなと即座に指示が飛ぶ。「重心を片方に寄せるな、足を並行にして垂直に立て」
「新手の拷問か。これは」
「首が曲がってる、しゃくるな」
うんざりして思わず歯を噛み締めると、アレクシスが愉快そうに「グッド」と笑った。
「インナーはハイネック一択だな。靴は黒。差し色は無し。アクセサリーはシルバー」
「おい」
「イヤーカフだけだ。ああ、いやもう一つ……」
結局スーツはネイビー以外の全てを購入することに決めたようだ。エクラサミットは一日きりだというのに(後夜祭のような関係者限りの打ち上げはあるが)何故三着も必要なのか分からないが、吠えるなと言われていたのでラニウスは吠えなかった。
だが、スーツを包んでいる間、スタッフがそれとは別にアレクシスへ小さな紙袋で渡したものを見たとき流石にラニウスは顔を顰めた。透明なアクセサリーケースに丁重に収められていたために中身が見えてしまったのだ。
「それは?」
「首輪。素材は……」
「分かった、もういい」
「飼い犬に首輪をつけるのは飼い主の責任だろ? 毎日欠かさず散歩に連れ出して、首輪も買ってやって、俺は本当にいい飼い主だよな」
____飼い主の責任を果たす前に国家憲章なり基本的人権への責任を全うしては?
ラニウスはそう思ったが、結局黙っていた。アレクシスの決めた散歩コースを拒み文句を言えば、アレクシスは今すぐにでもその首輪をラニウスの首に嵌めてリードを引っ張りかねない。それなら今は従順に黙々と歩いた方がずっとましだ。ラニウスはそう判断した。
それから再び車で移動し、小規模な美術館に出向いた。企業傘下の財団が建てたもので古典的作品から現代アートまで垣根なく飾られていた。館内に他の客がいないのは正式な開館期間前であるからで、アレクシスはこの美術館のオーナーである企業ブランドのアンバサダーを務めた縁で招かれていたのだという。
「熱心に見てるな」
一般公開に向けて数人歩き回っている職員はいるがそれだけだ。ラニウスが広く仕切りのないフロアを歩き回っているのを見たアレクシスがオーナーとの雑談を終えてやってきた。わずかに声が弾んでいる。「今度は何か気に入るものでもあったか?」
だがラニウスは壁際まで行くと、そこに飾られた極彩色で再現された古典印象派の絵画になど目もくれず、その場にしゃがみこんだ。
「何してる」
「風の音が聞こえる」
「ハア?」
「この壁の向こうに空間がある。このスペースだけだ、そしておそらく階下の天井スペースとも接続しているんだろう。この風の音はダクト管を通る空気が立てていると思われる。相当な規模の地下室があるんだな」
「……それで?」
「それだけだ」
立ち上がれば、ラニウスの目の前には今新進気鋭な画家の最新アートが飾られている。だがラニウスはふっと顔を背けるなり、今度は天井を見上げながらすたすたと歩き始めた。
少し行くと壁がガラス張りになり、外の庭園や噴水が目に入ろうものだが、ラニウスはガラスを斜め上の位置から眺めて、それが本当にただのガラスだと分かるとまたふいと顔を背けて歩きだす。
まるで自動掃除機のようだ。壁に沿って移動し、角にぶつかって方向を変え、ガラスにぶつかってすこし逡巡し、また動き出す。
アレクシスは眉を寄せながらも、ルンバのように直線移動を繰り返すラニウスを追った。
「なあ、お前って普段何考えて生きてんの」
「哲学的だな」
「遠回しだったな。もっと簡単に言うと、こういう場所で現代アートより壁だのガラスに興味津々な人間見るの初めてでさ、どんなつまらない思考回路してんだろうって」
「俺の人生には喜びが多い」
「大胸筋育てること以外で?」
「お前は随分と俺の大胸筋を評価してくれるな」
アレクシスはそりゃそうだろうと言った。そもそもお前の大胸筋が規格外だからさっきの仕立て屋で合うシャツが無かったんだろうが、とまでは言わなかったが。ウエストに合わせると胸の釦が締まらないし、しかし胸元や肩幅に合わせるとウエストが余って輪郭が崩れる。一つ一つのパーツのバランスは壊滅的なのに、そのガタガタのパーツを無理やり詰め込んで奇跡的に2メートル級の装甲戦車が出来上がっている。
「清潔なベッドで眠ること、温かい食事、時間をかけて淹れるコーヒー、紅茶、明確な指示系統と責任感のある同僚、爆音のクラシック……」
「レーザー砲が出る両目」アレクシスが口を挟む。
「それから性格のきつい美人」
アレクシスの軽口をラニウスは無視した。アレクシスが瞬きをして、微妙な薄ら笑いのままラニウスの後ろ姿を見る。ラニウスはまだ天井をやたら気にしている。
実はこの日、美術館の屋根の雨どいの一部が外れかけていて、それが風が吹くたびかすかな音を立てていたのだ。
「お前、なんて言った?」
「清潔なベッドで……」
「清潔なベッドで女と寝る?」
「間違いじゃないが」ラニウスはサングラス越しに周囲を見たが、丁度オーナーも出払っていた。「それだけが全てじゃないだろう」
「通りでワンちゃん呼びされて嬉しそうなわけだ」
「何が”通りで”なのかまったく理解できないし、嬉しくはない」
「女好きねえ」
「誰だって美人は好きだろう」
「何お前、俺を口説いてる? 面接のときに口説き損ねたからその続きか?」
「ハハハ」機械音声のようにラニウスが言った。”HA”を三回。「お前が口説かれる相手を選ぶように、俺にも口説く相手を選ぶ権利はある」
「ハハハ……」
と、アレクシスは完璧に人好きのする純朴な青年のように笑って。一言。
「ほざけ」
アレクシスの短く整えられた爪がラニウスのサングラスの縁を弾いた。
それからニューヨークのソーホー・エリアにあるカフェテリアに辿り着くまで、ラニウスは左肩と臀部をそれぞれ一度ずつそれなりの強さで引っ叩かれた。
ソーホーは市内でも屈指のファッションとショッピングエリアだ。ストリートファッションが盛んであるから流行に機敏な若者が多く、近隣にはグリニッチヴィレッジ、リトルイタリーとチャイナタウンもあって地元市民に加え観光客もうろついている。
そんな中に国際的ブランドのアンバサダーを務めるような男がのこのこ歩いていればどうなるか? そんなものはおがくずの山に火のついたマッチを投げ入れるのと同じだ。
案の定車から降りた途端(これもまたラニウスにとって理解し難いことにアレクシスは通りを歩きたいと言って目的の店よりずっと手前で車から出た)、その辺りを歩いていた若者たちが足を止め、無言でカメラをアレクシスへ向ける。アレクシスも職業柄レンズの存在に敏いからすぐに気づき、それが善意の市民だとわかると撮影を拒むような、あるいは受け入れるような、どちらともとれる素振りでわざと手を振ったりはにかんだりした。
初めはアレクシス・バックマンだと気づかずに見惚れていた者も大勢いたようだが、すぐにファッションに造詣の深いものがその名前を囁けば誰もがたちまち熱を上げた。
「プライベートだ、カメラを下げて」
ラニウスがそう声をかけて正直に従うものはまずいない。ラニウスもそれは分かっている。だが最低限の体面は保たねばならない。
この手のプライベートショットがSNSに流れるたび、HRAの管理部門からなにかにつけて小言が入る。だが業務命令としてアレクシスの外出禁止をラニウスに命じることはない。管理部門がラニウスが自発的に気を利かせることを望んでいるとしても。
目的のカフェはそう大きくはない店だったが、この手の有名人がしばしば来訪するらしい。店員は慣れたもので、アレクシスが入店すると外に撮影禁止と待ち時間の看板を出した。
店内は鮮やかなターコイズブルーの壁紙にヨーロピアンな床、天井には小ぶりで古めかしいシャンデリアが吊り下げられている。中央に円形のキッチンカウンターがあり、中でバリスタたちがオルゴールのようにくるくると入れ替わり立ち代わり接客をしている。客は店内のソファやテーブルに好き好きに座り、あるいは立ったまま室内のインテリアを眺めたりお喋りを楽しむ____少なくとも体裁上は。
「帽子ぐらい被れないのか」
「サングラスならかけてやってもいい。でも今日は忘れてしまったな、どこかに手ごろなサングラスがあればいいんだが」
ラニウスは鼻で笑った。アレクシスの活動範囲は映画にも及ぶが、そうとは思えない演技だ。
店員から受け取ったメニュー表を開き、アレクシスが手書きのそれを思わせぶりに指でなぞって悩んでいる間、ラニウスは店内を観察していた。すぐさま分かったのは、店内のホワイトボードやメニュー表の文字を書いているだろうスタッフだ。先ほどからアレクシスの指が動くたびこちらをちらちらと見ている。他のスタッフも似たような態度だ、二人の接客をしている目の前のスタッフは流石に表情を繕っているがカウンターの下で両手の指を何度も組み直しているのが肘の動きでわかる。
危険性はない。もし背後の出入り口から強盗が入ってくればカウンターを遮蔽物に出来るし、逃走経路は三つ。周辺の地理は3ブロック先までなら裏道まで頭に入っている。車で逃走されても3ブロックまでなら追いつける。徒歩で逃走された場合は何の問題も無い。1ブロックで終わる。
「お前は?」
「要らない」
「ローストナッツラテ二つ、トッピングなしとスモア乗せで」
「ハ、……スモア?」
「You get “sued more”?」
____お前、いよいよ本気で訴えられたい(sued more)のか?
香ばしく甘いナッツラテに密度の濃いミルクフォーム、削ったチョコレート片。
店員がアレクシスに、そしてアレクシスからラニウスへ差し出されたカップにはバーナーで炙られたマシュマロを豪快に挟んだクッキーが添えられている。
漂う甘ったるい香りにラニウスは眉を寄せたが、それはフルミラーのサングラスの内側で起きたことだ。
「モデルや俳優というのは、蒸し野菜と鶏肉しか口にしないと思っていた」
昼を過ぎて、外は涼しい風が吹いていた。今だ数の減らない人だかりを気にした風も無く通りを歩くアレクシスは「そういうやつもいるよ」と軽い口調で言った。「何を美しいと思うかは人それぞれだが、現実問題、細けりゃ細いほど人目を引くし、儚げであることが美しさを想像させる」
ラニウスはカップの蓋を今にも内側から弾き飛ばさんばかりに盛り付けられたスモアクッキーをどうしたものかと思っていた。アレクシスはそんな様子を面白がるでもなく自分のカップに口を付ける。
「ルッキズムだなんだと声高に言われる様になろうと、美しいものは変わらない。ただ、今まで何となしに見逃されていたものにも目が向いて、市場はフェチズムやマイノリティにも値段をつけ始めた。商品として扱われて取引の材料になることを自由だとか平等だとか言ってるだけだ」
「随分と冷静だな」
「俺を誰だと思ってる? 味のしない蒸し野菜と鶏肉だけ食って過ごすことも、それよりももっと馬鹿な真似も、もう全部やり尽くした」
「ベジタリアンだった時代があったのか」
「タンパク質至上主義だ」
「ビタミンは?」
「世界中のビタミン剤を買い占めた、同じ時期に」
「素晴らしい」
ついにラニウスの歯が大ぶりなスモアクッキーを引き裂いた。本来ならわざとマシュマロを引きのばして写真を撮るべきそれを、ラニウスは強靭な顎で切断し、擦り潰し、でこぼこした硬いクッキーも綿のように口の中で膨らむマシュマロも着実に圧縮してたちまちのうちに混合コンクリートとして混ぜ込み、喉の奥へ流し込んだ。
そばに世界的モデルの美貌があろうと、2メートル近い巨漢がサングラスをかけ、ソーホーエリアの道端でスモアラテを味わっている姿は異様だった。それはさながら重油を補給すべき戦車の給油口にカフェラテを注いでいるようなものだ。
ラニウスが黙々とスモアを咀嚼している姿をアレクシスは黙って眺めていた。彼にしては珍しいことに揶揄うでもなく顔を歪めるでもなく、遊び疲れた子供のような目でぼんやりとラニウスの顎がぐるぐると動くのをじっと見ているのである。
そしてラニウスが大人の拳ほどもあるスモアクッキーをわずか二口で完全に嚥下しきってしまうと、アレクシスははっとしたような顔で「お味は?」と聞いた。
「雪山で遭難した時に食べたくなる味だ」
「遭難したことあるのか?」
ラニウスは車に戻り、そしてアレクシスがシートベルトを装着したのを確認してから発進した。幸い動き出した車の回りにまでまとわりつくような厄介な野次馬はいないようだ。
「雪山では、ない」
「気になる言い方だな。FBIで麻薬カルテルのアジトに潜入捜査でもして、砂漠を彷徨いでもしたか?」
ラニウスが一瞬表情を変化させたことを悟るのは不可能だ。何せ彼はその一瞬のあるとも呼べないほどの隙すら隠蔽するためにサングラスをかけている。
案の定、0.5秒で返ってきたラニウスの声は平坦だった。
「お前も事務所の連中もドラマの見すぎだ」
アレクシスがサブスクリプションを契約しているドラマや映画の配信サービスを洗い出す必要があるだろう。
ただの冗談がたまたま事実を言い当てたのだとしても。




