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BUTTWO  作者: 寒星
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03 人生の流儀(Code of Living)

 翌日、ニューヨークの一等地のビルに事務所を構える芸能事務所”Hamilton-Reed Agency”は異様な緊迫感に包まれていた。

 奥の会議室ではエリオットを含む管理部門の幹部級が着席しており、受付スタッフもそれを知っていつもよりネクタイをきつく締め、互いに身だしなみにほつれがないかもう三度も確認しあっている。

 開放的なグリーンカーテンから差し込む木漏れ日のラウンジ、カフェテリア、そして事務フロアには噂を聞き付けた職員や所属モデル、俳優がそれとなしに集まって通路を気にしている。

 そして彼らの目的は午前十時きっかりに果たされた。

 軽やかな音がオフィス前のエレベーターホールに嵐の到来を告げる。そして重厚感のある黒のドアが開き、二人の男が現れた。

 アレクシスの装いは非常にラフなものだった。薄い色のついたサングラスに白のシャツ、黒のジーンズ。それだけでもはっとするほど洗練された雰囲気を醸し出してはいるが____その恰好は、半歩後ろに連れたスキンヘッドの男の異質さを相殺するどころかより際立たせる。

「デカ……」

 誰かがか細い声で思わず溢すと、つられてフロアのあちこちから「誰?」「アレクシスさんの新しいマネージャーだとか」「嘘?」と囁き声が上がる。

 ラニウスはこの日黒のシャツにグレーのスラックス、そして革靴を履いていた。一歩歩くごとに革靴特有の靴音が響く。2m近い背丈に、シャツを内側から押し上げる筋肉の凹凸、そして光を一切透過しないサングラス。その全てが周囲に威圧感を与え、ただでさえ広いオフィスをより広く感じさせた。

「お前と歩くと道が広くていいな」

 アレクシスはそう軽口をたたきながら、ノックもなしに奥の会議室の扉を開けた。

 その瞬間、室内で雑然と四方八方に向いていた視線が一か所に収束する。老若男女、大勢の美しい、あるいは奇抜な人間を見飽きるほど見てきたその全員の視線が、アレクシスを見て、そしてラニウスを見て固まる。

 それはラニウス個人への驚きというより、何故こんな人間をアレクシスが連れているのか、という疑念の眼差しだった。

「……俺から何か言った方がいいのか」

「そうだな、”チャオ!”とか言ってみたらどうだ?」

「言ってもいいが、そのあとはこの場にいる全員の記憶を消すぞ」

「ハハ、お前って案外____冗談だよな?」

 ラニウスが首を傾げる。そのとき、着席して微動だにしなかった幹部の中で最も若く、そして最も異彩を放つ男が立ち上がった。ゆるく撫でつけたオリーブの髪、黒のスーツに銀のストライプシャツ。

「ようこそ、ミスター。HRA(Hamilton-Reed Agency)へ」

 まるでスーツブランドの広告塔が如き佇まいのエリオットが言った。

「デスクが騒がしくて申し訳ない。なにせこちらもろくに歓迎の準備時間が与えられなかったのでね」

「お気遣いには痛み入るが、歓迎されるために来た訳ではない。それと、急な話だったのはこちらも同じだ」

 アレクシスがラニウスの脛を軽く蹴ったが、ラニウスはびくともしなかった。エリオットはうっすらとした笑みを浮かべた。「どうぞ座って。アレクシスがもうゴーサインを出してしまったわけだが、本来なら君の雇用には我々管理部門での面接が必要になる。まあ、体裁上のものとはいえお付き合いいただけるかな」

「勿論」ラニウスは端的に答え、席についた。「規律には従うべきだ」

「君とは話が合いそうだ」

 エリオットは手持ちの資料も何もなしにラニウスを見据えた。ほかの幹部は話の主導権をエリオットが握ることを当然のように受け入れている。

「さて……ミスター、ラニウス・ルーラー氏。ご経歴を教えていただけますか?」

「昨年までFBIにいた。それ以前は陸軍に」

「陸軍か。職業に貴賎なしとは言うが、国に仕える尊い仕事だ___そこでは何を?」

「国内外での防衛任務、派遣先での後方支援、それから後進育成や連携機関での訓練を」

「何故FBIへ?」

「任務協力した際にスカウトを受けた。これ以上は話せない」

「……成程。FBIでは無論犯罪捜査をしていたんだろうが、人材のマネジメント経験は?」

「無い」

 ラニウスの即答に、エリオットはテーブルの上でゆっくりと両手を組んだ。

「ミスター、捜査官として聡明な貴方なら、私が何を言いたいかはお分かりだろう」

「マネジメント経験の無いものにマネージャーが務まるのか、という疑問であれば同感だ」

 エリオットは意外そうな顔をした。ここまで潔く認めるとは思わなかったのだろう。だが同時に、ラニウスの発言がまだ終わっていないことについて目を細くして構えた。

「だが、マネジメントというものが人をただ馬車馬のように働かせるための技能なら、そもそも経験の有無など関係ない。そういう意味で言ってしまえば、この部屋で最も経験豊富なのは俺だろう」

「なんだって?」

「俺はマネジメント経験はないが、この____」

 誰にわかるはずもないことだが、ラニウスはサングラスの内側から隣のアレクシスを一瞬見た。「____不健康そうな従業員の状態を改善しろということであれば、いくつか考えはある」

 その言葉に驚いたのはエリオットや幹部だけではない。アレクシスさえ、彼の場合はやや顰蹙をかったように片眉を浮かべてラニウスを一瞥した。

「タスクの振り分け、スケジュールへの対応策、体調管理。どの業界業態においても基本は同じだ。それを徹底するということであれば可能だ」

「……ミスター、おそらく貴方がこれまで立ち向かってきた凶悪な犯罪者に比べれば、我々が相手取る人々は善良なのかもしれない。だがこの仕事をしていると、発砲許可があるなら銃をぶっ放してやりたい、と思うことが多い」

 エリオットの静かなジョークに幹部たちは微笑み、久しく感じていない安らぎがその場に訪れた。「銃も拳も使えない、そういうマネジメントが貴方にできるかな、ミスター」

 だが訪れた平穏はあまりに儚い。

「どうも陸軍とFBIに夢を見ているようだ、シュナイダーさん」

 ラニウスが言った。「陸軍もFBIも、銃をぶっ放して片を付けることが容認されているわけではない。相手が同等の重火器もしくは致命的な手段を有しており、またそれによって善意の市民や部隊員の生命が脅かされるときに限り、我々は銃をぶっ放すことが許される。

 それでもあなたが我々にそういった夢見がちなイメージをお持ちになるのは道理だ。

 我々が立ち向かっている環境は常に、致命的に卑劣な行為が横行している。したがって我々は往々にして銃を持ち、弾をぶっ放している」

 ラニウスはそこで室内を見渡した。彼にとってはなんということもなく、ただ改めてその場にいる人々の顔を見ただけだ。

 たとえ周囲を見渡した時、その首がゴキッと嫌な音を立て周囲を威圧したとしても、それは単なる偶然にすぎない。連日のマイアミからニューヨークまでのフライトで肩が凝っただけだ。

「”人材マネジメント”に優れたあなたがたが、まさか結果論だけに捉われるとは思っていないが体裁上訂正させてもらった。発言には細心の注意を伴う____組織とはそういうものだ」

 会議室の扉が再び開いたのは、それからほんの十数分後のことだった。アレクシスとラニウスは来た時と全く同じ歩調で、まったく同じコースで去っていった。

 変わった点と言えばラニウスが小脇に封筒を抱えていて、その封筒が”HRA”公式社標を備えていることだけだ。

 しかしたったそれだけで、突如現れた謎のターミネーターがアレクシス・バックマンの隣に立つことになるとその場にいた全員が思い知った。



   /



「事前の情報共有が足りない」

 事務所からアレクシスの居宅であるマンションの最上階に戻って早々、上機嫌にソファへ座ったアレクシスとは対照的にラニウスは冷たくそう切り出した。

「なに?」アレクシスはSNSのタイムラインをしきりに更新し、新しいニュースや自分がアンバサダーを務めるブランドのポストをチェックしている。「なんだよ、幹部連中から雇用契約書をぶんどってやったっていうのに何をそんなにぶすくれてる」

「だが一歩誤ればすべてが無駄になったかもしれない」

「誤るのも、そのツケを支払うのもお前だ。俺に当たるな、実際初仕事とは思えないぐらい手慣れてたじゃないか。ああいう状況もお手の物か?」

「腹の探り合いは好まないが、状況を選んではいられない」

「お前のそういうところを気に入ってる」アレクシスは窓枠に頬杖をついてニヤリと笑った。「事務所が用意した奴らはてんで駄目だ。自分の台本を裏切られると途端にしどろもどろになる。おろおろしながら部屋中をひっくりかえして、マニュアルや台本をあっちこっち探し始める」

「例外を前にして規律に立ち返るのは悪いことじゃない」

「だが美しくない」

 アレクシスは強い口調で言い切った。「そして美しくないものは、この業界では無価値だ。ビジュアルが全てなんだよ。目に鮮やかに映えさえすれば、そいつの中身がどれだけクズでも称賛されもてはやされる、逆に、大層ご立派な主義思想も、凡庸な見た目じゃ見向きもされない」

 傲岸不遜な物言い。しかしアレクシスにはそんな反論すら飲み込ませる美しさがあった。生まれつきのような銀髪、そして透き通った青い目、きめ細やかな肌、形の良い唇、白い歯、つま先までみずみずしい体……

 アレクシスは見せつけるようにゆっくりと足を組みかえた。

「俺がお前を選んだのもそうだ。お前の見た目が良かった。体格、態度、物言い、その全てがいい。全身で人目を惹く、そして人は恐れをなして目を逸らす」

「褒められている気がしないな」

「これでも褒めてるんだぜ、本当に」アレクシスは携帯をラニウスに向け、一枚写真を撮った。「ところで何してる?」

「契約書を読んでる」

 ラニウスは封筒から取り出した書類を手に、一枚ずつその一言一句を目で追った。雇用契約書、付随文書、会社説明、そして個人的に依頼しておいた会社規約。

「そんなの読むか普通? さっさとサインしろ」

「契約書を読まずにサインする奴の気が知れない」

「お前……」

「雇用契約、会社の諸規定は組織の方向性を示すものだ。これを読まずに何故その組織の人間として振舞えるのか。何を根拠に外部と交渉しているんだ」

「言っていいか? お前を選んだこと少し後悔してる」

「そうか。試用期間中なら解雇告知義務は30日前までだ、解雇に当たる理由書と合わせて文書告知が必須。なお俺からは最大30日分の給与保障の要求ができるから、事前に人事だけでなく経理にも話をしておけ」

「……それ雇用契約書に書いてあるのか?」

「雇用契約書と人事規定、運営要領にそれぞれ規定があるぞ。読むか」

 アレクシスはげんなりした顔で「読み終わったら呼んでくれ」と言い残し、仕事部屋でもある書斎へ引っ込んでいった。

 ラニウスはそれから一時間ほどで全ての規定を読み終え、そして雇用契約書にサインした。

 顔を上げると、大きな窓から差し込む陽ざしで明るいリビングはがらんとした印象を与えた。ラニウスは書類をまとめ、封筒に仕舞うとアレクシスが去った書斎のドアを叩いた。

「アレク____バックマンさん?」

 返事はなく、扉には鍵もかかっていなかった。ラニウスはもう一度ノックをした。やはり返事はない。

 扉を開けると、小窓が付いた書斎には広い昇降式のデスクと本棚とソファしかなかった。広さは十分あるが物が少ない。アレクシスはヘッドフォンをつけてデスクに置いたパソコンで動画の編集をしていた。

 ラニウスは出来るだけ近づかず、腕を伸ばして指を鳴らした。

「おわ、」アレクシスの肩が跳ねる。「なんだ、ご本はもう読み終わったのか?」

「読み終わった。契約期間は契約締結日から1年、そして締結日は今日だ」

「その通り。それじゃ仕事の話をしよう」

 アレクシスはパソコンの画面を切り替えた。流れるようなキーボード操作を受けて、三面モニタ全てにいくつもの画像と動画が展開される。

 その巨大建築の名前をラニウスは知っていた。

「オブシディアン・ドームか」

「正解」

 ロサンゼルスの元軍用飛行場跡地を再開発し、建築家キルギスによって建てられた近未来建築。ガラスと黒鋼構造が特徴的な楕円形ドーム型の複合会場。

 特殊ガラスによって昼は空を映す透明な反射、夜はライティングで星雲のように光る外観は、言葉で説明するまでも無くそこが美と芸術のための殿堂だと知らしめるに十分だ。

「そしてこのオブシディアン・ドームで二年に一度開催されるのが、国内ファッション業界の式典”ÉCLAT SUMMITエクラ・サミット”だ」

 ラニウスは三面あるモニタの内、褐色の肌をもつ凛とした女性が映る写真と新聞記事を見つけた。エクラ・サミットの主催団体である”Éclat Foundation(エクラ財団)”____その代表クロエ・メンドーサ。スペイン系アメリカ人の元モデルで起業家であり、かつて彼女自身が受けた業界の搾取構造を暴露して話題になった人物でもある。

 メンドーサはモデル活動の第一線を退いた後に起業し、いくつかの個人ブランドを打ち立てた後、五十歳の時にエクラ財団をスイス・ジュネーヴにて設立。現在はNYとL.A.に本部をおき、主に次世代クリエイターの支援活動を行っている。

 右側のモニタに前回のエクラサミットにおいてスピーチを行うメンドーサの姿が流れた。メンドーサは六十という年齢を感じさせない力強い眼差しと声で語った。



「……ÉCLAT SUMMITはブランドの祭典であると同時に、ファッション業界の絶え間ない変革を象徴する儀式である……」



 映像を流したまま、アレクシスが言った。

「基本的な仕事の流れはこうだ。事務所の渉外部から連絡が来る。お前は内容をよく聞いて、資料をよく読んで、指定の時間に指定の場所へ安全に俺を連れていき、そして再び俺をここへ戻す____だが、しばらくはエクラサミットに注力していい。事務所も流石にこの時期に大仕事は持ってこないだろう」

「このサミットに注力するのはいいが、会場の見取り図が必要だ」ラニウスは単刀直入に言った。「参加者のリストと警備システムについても資料が欲しいところだが」

「そんなものを出せと言ったら俺たちが蹴りだされるだろうな」

「本番前に現場へ行く機会は何度ある?」

「本番前に二度。前日には通しのリハーサルがある」

「三回あれば十分だ」ラニウスは言った。「自分の目で確かめる」



 そしてその三度ある機会の一度目は翌週にやってきた。

 エクラサミット開催の二週間前。黒く冷えた巨大な鉱石の如き会場の内部は財宝が隠された洞窟のようだった。既にサミット用のポスターやVR広告が整然と展示され、今年のトレンドカラーであるスカーレットの天幕と金細工の装飾がふんだんにあしらわれている。

 開錠スタッフや関係者、明らかに各業界の有名人と思しき取り巻きを引き連れた男女。

 関係者指定の控室に向かう道すがら、ふいにアレクシスが小さく顎をしゃくった。「見ろよ、あれ」示す先には奇抜な色のジャージに金色の腕時計を右手に二本付けた浅黒い肌の男だ。ハーフパンツから伸びた足はつるりとしており、筋肉のつき方でアスリートであると分かる。

「元サッカー選手のドットーレ・デルラ」ラニウスが言った。「引退してから姿を見ていなかったが、随分焼けたな」

「浮気相手が出るんだろ。カミラ・ヨハンソンか、リー・リルベットか……今付き合ってるのはどっちだったっけな」

「入場管理がずさんということはよく分かった」

 ラニウスはアレクシスの動線を確保するように歩きながら監視カメラの配置を確認した。内装に溶け込む黒の小型で等間隔に並んでいる。数は十分だ、しかし内装や展示品、天幕によって生み出された死角が多すぎる。

 すれ違った”SECURITY”の腕章をつけた集団を見送る。向こうもラニウスを一瞥した。

「知り合いか?」アレクシスが言う。

「たった今」ラニウスが振り向きもせず答えた。

 ショーのメイン会場になるホールは天井部分が360度開放できる巨大天窓と、三重構造にもなる空中構造によるアクロバットな演出が有名だった。このホールで過去開催されたエクラサミットでも、演者をワイヤーで吊るして空中演武をさせたり、地上と空中とで交錯する二重ランウェイなどといった派手な演出が取り行われている。

 そして今年は____観客席からは遮断された裏階段を上り、スパイ映画のような中継室を通過してまた上り____その果てに、断崖絶壁のようにせり出た舞台がある。

 そこは舞台であり”スタート地点”だ。

 透明な足場と左右にそれぞれ一本きりの手すり。閉ざされた天窓、垂れこめた緞帳。モーターの音。周囲はどす黒い闇。

 あれだけ華やかで煌びやかだったメインホールはまるで遠い宇宙の果てにある月のように足元のずっと下でちいさくきらきらと輝いている。

 地上三百メートル、そこが今年のエクラサミットのラストランを担うアレクシスの歩く道だった。

「落ちるなよ」

 狭い足場に立ったアレクシスの背後からそう声をかけるとき、ラニウスは気づかれないようアレクシスの腰のベルトに触れていた。

 だがアレクシスは闇が喋ったにもかかわらず、狭い足場で悠然と振り返った。

「落ちたら国際ニュースになるだろうな」

「悲報になるだけだ」

「そうか? 何万人のゴシップ記者とインフルエンサーが臨時ボーナスに笑い転げるぞ」

「本番はここからどこまで歩く?」

ラニウスはアレクシスの腕を引き、立ち位置と話題をすり替えた。アレクシスはすこし気を削がれた風にしながらも、ラニウスの肩越しにほとんど真下を指さす。

「地上0階のステージまで。階段は三十段、下りきってターン、そこで完成」

「命綱は?」

「ある____が、デザインが気に入らない。あれを付けるぐらいなら真っピンクのベルトを巻くほうがまだマシ」

「実物が見たい」

 ラニウスは踵を返し、アレクシスを追い立てるようにして空中階段を後にした。

 それから当日アレクシスにあてがわれる部屋へ行き、既に用意された備品を確認し、部屋の構造、フロアの構造、そして建物全体を見て回った。アレクシスは意外にもついてきた。おそらくラニウスを前にして委縮する関係者の顔が面白かったのだろう。

「ま、アレク!」

 建物を一周してエントランスへ戻った時、軽やかなソプラノが響いた。見ると、黒いハイヒールブーツにシアー素材のロングコート、黒いつば広帽子、そしてサングラスという恰好の女が手を振っていた。

 女の振る腕が今にもぽっきりと折れそうなほど細い。アレクシスはそれで相手を見抜いたらしい「ハイ」と同じように手を振った。

 屈強な男女二人組を引き連れたその女が目の前に立った時、ふわりと桃の香りが漂った。サングラスを外し帽子を脱ぐと、溢れるような艶やかな黒髪が肩へ流れ、そして果実のような唇が弧を描いた。

 真っ黒の大きな瞳がアレクシスとラニウスを見た。

「あら、やだ。こちらの殿方はどなた?」

「新しいマネージャーだ。一週間前に雇ったばかりでね、今日は遠足に来た____マネージャー、紹介するまでもないよな? こちらはかの大女優であり新進気鋭のデザイナー、ルス・イサンドラ」

 イサンドラは神話の女神のように微笑み、手を差し伸べた。「どうぞ、よろしく」

 ラニウスは黙ってその手を取り、彼女の指先から立ち上る香りに軽く口づけた。

「素敵」イサンドラが囁くように言った。「スッラ、いえアウレリウスかしら……寡黙な戦士。好きよ」

「イサンドラ、俺はタイプじゃないと?」アレクシスが肩をすくめた。

「悲しまないで。あなたは戦士って柄ではないでしょう」

「じゃあ何?」

「さ、あなた次第ね……今年のラストランはあなたなのでしょ?」

「ええ」

「そこで見せてもらうわ。あなたが何なのか。では、また」

 イサンドラはにこりと微笑をもう一度二人へ贈り、そして何事もなかったかのように歩き去っていった。歩き去る彼女の背後に何人かが話しかけようとしたが、あえなく付き人に退けられ、イサンドラはそれらに気づく素振りも無く颯爽と通路の奥へ消える。

 イサンドラの姿が完全に見えなくなってからラニウスが言った。

「会話を攫ってくれて助かった。彼女について俺が分かるのは……女傑だな」

「間違いない。イサンドラと会話するためにローマ神話を読み漁った日が懐かしいな。ルキウス・コルネリウス・スッラ___知ってるか? ローマの将軍だ、独裁官でもある」

「似てるのか」

「お前に? いいや」アレクシスは携帯でスッラの彫刻を調べ、画像を見せた。「スッラはハゲてないしな」

「ハゲてない、剃ってるだけ……」

 そのとき、ちょうど開いていたアレクシスの携帯が着信画面に切り替わった。アレクシスは電話を取り、そして二三話してすぐにラニウスへ携帯を差し出した。

「誰だ?」

「エリオット」

 アレクシスが顔をしかめた。ラニウスは携帯を受け取った。

「はい」

「____すまないね、新しい仕事で忙しいときに」

「構わないが、ご用件は」

「エクラサミットの会場にいるだろう? 急な仕事でね、今から向かってもらえるか」

 場所は此処から車で一時間ほどのスタジオだった。コスメブランドの広告撮影に急遽代役でアレクシスを抜擢するということだった。代役という点が気にならないほどの有名ブランドの名前を挙げられ、むしろラニウスは不審に思った。

 エクラサミット前の時期に大仕事は入れてこないのでは? そういう視線をアレクシスに贈るが、アレクシスは腕を組んで暇そうに明後日の方を向いている。

「誰の代役だ?」

「君に言ってもわかるまい」

「言えない人物だと判断するが」

「……君がそんなに野次馬根性をお持ちとはね」

「状況把握に必要と判断しただけだ」

「安心しろ。状況は既に私が判断した」エリオットは一定の口調で言った。「この仕事を受けることでこちらにデメリットはないし、代役であることを知るものもいない。この仕事は元からアレクシスの仕事になる。それだけだ」

 電話が切れた。続けざまメッセージに地図情報が入る。

 ラニウスが携帯をアレクシスに返す。「どこまで聞いた?」

「仕事相手の名前」

「これから一時間後に撮影とのことだが。いつもこうなのか」

「いつもこうだ。だが、こういう無理をしてでもと思わせられる規模の大仕事ばかりなんでね。文句はない」

 アレクシスは本当に慣れているようだった。既に彼は仕事先のブランドの公式HPを調べ、各SNSのアカウントの投稿や最近その名前がどのようなジャンルのニュースに載ったかを洗い出している。

 一時間もすれば、本当に彼はもともと今日の仕事を請け負ったその人のように振舞うのだろう。

「わかった。行こう」

 ラニウスは車のキーを取り出して言った。

 何がどうなろうとも、今はそのときではない。そう思いながら。



   /



 それから一週間としないうち、ラニウスはアレクシスの生活に規律という規律が存在しないことを思い知った。まるで無法地帯だ。丸一日動き回って家に帰れない日もざらにあれば、突然すべての予定がキャンセルされて虚無に放り出されることもある。一つ一つの仕事の規模は流石に抑えられていたとして、朝から晩まで現場を二つも三つも移動して、あるいは二人も三人も客を迎えるのは違う種類の疲弊をもたらす。

 一発が重い大砲の弾に立ち向かうことと、散弾銃の雨の中に立ち向かうこと、それらの苦痛の違いを論じることに意味はない。どちらも苦痛だし、兵士には負担だ。

 何よりあらゆる行動において、突発的であること以上の負担はない。

 そして常に緊張状態に置かれた人間は、それが解かれた途端に瓦解する。

 今日のように。

 ラニウスはアレクシスの暮らすニューヨークのマンションにいた。最上階の一室で、浴室の前に腕を組んで立っている。すべてはアレクシスが浴槽で溺死しかけた際、直ちに救助に入るためだ。

「ワンちゃん……」

 浴室から疲れ切った声が反響して聞こえた。

「いる」ラニウスが短く答える。「さっさと上がれ、そして水を飲み、寝ろ」

「ワンちゃん、カメラ持ってこれるか……それか携帯……」

「何故?」

「SNS用の写真と動画、撮る……」

「対象の混乱を確認した、突入する」

「は?」

 ラニウスが手に持ったのは携帯でもカメラでもなく、ふかふかのバスタオルだった。バスタオルを広げた状態で浴室のドアを開け、ニューヨークの街並みを見下ろす小窓付きの浴室で寝こけているアレクシスへ最短距離で進む。

 アレクシスはもう両眼を閉じていたが、浴槽にはしっかりとテーブルが取り付けられ、クエン酸配合の炭酸飲料とまだ投入されていない入浴剤やスクラブクリーム、ボディオイルがきれいに並べられていた。

「は____おい……」

 ラニウスは唖然とするアレクシスを横目に浴槽の栓を抜き、そしてぬるめのシャワーをアレクシスの頭から(目に入らないように)かけた。

「おい、マジでなんだよ!」

「興奮するな、寝つきが悪くなる」

「はあ? 寝ないって……うおっ」

 そこからのラニウスは迅速だった。アレクシスをタオルで梱包し担ぎ上げ、加圧で濡れた体と紙をふき取り、クローゼットから締め付けの極端に少ないジャージに着替えるよう指示を出し、冷蔵庫の手前のポケットで冷えていたエナジードリンクを全て奥へ押しやった。

「水だけでいい。飲め」

 そう言って寝室のサイドテーブルに置いたのは水だ。アレクシスは何か言おうとしたらしいが、ラニウスが無言で顎をしゃくったため、渋々とペットボトルに口をつけた。

「ぬる……」

「適温だ。一気に飲むな、数回に分けて」

「俺の携帯、」

「業務連絡は俺にも届く。それ以外は無視しろ」

「おま、」

「三時間寝させる。本来なら九時間要求したい。これ以上の譲歩は無理だ」

「眠くな、」

「体を右向きに。右腕を90度に曲げて左腕を楽に伸ばす。左足を90度に曲げて右側に倒す。この体制で目をつむる。これで睡眠時の7割にあたる肉体的休息がとれる」

「ね」

「眠れないか?」

 ラニウスが首を回す。ゴキリと骨が鳴った。「寝かしつけは得意だ」

 アレクシスが両手を上げたままベッドへ倒れこんだ。顔から突っ込んだ態勢でもごもごと「ねむくない……」とうめいたが、ラニウスが僧帽筋を揉んでやるとすぐに大人しくなり、やがて寝息が聞こえてきた。

「一種の洗脳だな」

 と、ラニウスは誰に聞かせるでもなく溢した。「まあいい、この手の輩もいやというほど相手にしてきた」

 ラニウスは仕事用のスーツを脱ぐと____おもむろにエプロンに着替え始めた。





 ニューヨークの街並みを照らす太陽はゆったりと南へのぼり、そして投げたボールが落ちるようにあっという間に西へ落ちていく。

 アレクシスが目覚めたとき、寝室は西日で赤々と染まっていた。

 アレクシスは毛布を頭からかぶった状態でもすべてを理解していた。自分が眠りすぎたと。

 到底三時間どころの経過ではない。突然降ってわいた予定の無い日にやろうとしていたタスク、後回しにしていたレスポンスや資料の読みこみ、個人活動の映像や写真のストック、投稿____それらはまたすっかり元通りに長蛇の列をなして後回しだ。

 苛立ちすら湧かないほどの脱力感。

 寝すぎたが故の頭痛。焼け石に水をかけるような短時間で不規則な睡眠しか与えられなかった脳みそが水どころかガソリンを充填され、今にも暴れださんばかりに活力に満ちているのがわかる。

「……ハア」

 起こした上体をもう一度勢いよくベッドに沈める。何のにおいもしない。フレグランスを焚いていない。服も寝間着ではない。これはルームウェアであってそこそこいいブランドのものだ。近場のカフェに足を運ぶぐらいならこのまま外に出られるほどには。

「最悪……」

「おはよう」

「あー」アレクシスはシーツに顔を突っ込んだままうなった。「おはようクソ野郎。お前のマネジメントは最高で最悪だ、今なら一時間ぶっ通しでお前の正義感を罵れる」

「起きたなら水を飲め。落ち着いたら話をしよう」

 ガチャ。バタン。

 アレクシスが顔を上げたとき、既に寝室のドアは閉じられていた。先ほど聞こえた声もドアを開く音もすべてが嘘のように静かだ。ただひとつ違うのは、サイドテーブルにはまた新品のミネラルウォーター入りのペットボトルが一つ置かれていることだけ。

「八時間寝たな。いい時間だ」

 リビングへやってきたアレクシスが投げたペットボトルを、ラニウスは振り向きもせず片手で受け止めた。そしてペットボトルが空であると見るや、五本の指でそれを圧縮する。

「腹は減ってるか? もう一度シャワーを浴びたいか? 言っておくが、携帯とパソコンは禁止だ」

「……お前さ」

「言いたいことは分かってる」ラニウスは言った。

「本当に?」アレクシスは乱暴にソファへ座った。「じゃあ当ててみろ」

「”エプロンが似合わない”だろ。よく言われる」

 ラニウスは柄の無いベージュ色のエプロンを身に着けていた。アレクシスはすぐそばのシステムキッチンに立つラニウスの姿をまじまじ見た。

 スキンヘッドの長身、フルミラーのサングラス。黒いシャツに黒いパンツ。そして明らかにサイズが合っていない(主に大胸筋の隆起により涎掛け状態の)エプロン。

「ンフ……んん、いや……そうじゃなくて」

「違うのか? ならよかった」

「よくない……」

 声を震わせながらもどうにか平静を保ち、悠然とソファに座っているアレクシスは視線を窓の方へ向けた。幸い強烈な西日のおかげで窓に室内は反射せず、そこには夕暮れのニューヨークが広がっている。逆光で黒く染まった高層ビル群が幾重にも重なり、見つめているとしだいにそれらがゆらゆらと揺れて見えた。

「仕事が……あったんだぞ、やろうとおも、ッフ、思って……た、ことが……」

「説明が不足していたということは認める。だがあの段階では休息が何よりの優先事項だ。肉体の疲労を抱えた状態では結局無駄に時間がかかる上にそのぶんクオリティも下がる。結果的には適度な休息を取り込むことでそちらの目的をより効率的に果たせる」

「仕事をするのは俺だろ。お前がやるわけじゃない。お前が親切心を見せたところで、俺の仕事自体が減るわけじゃない」

「それもまた事実だ。そして俺の仕事は、お前がお前の仕事に集中できる環境を保つこと」

 アレクシスが頭を振った。ヘアオイルすらもみこまれていない素の髪がぱらぱらと顔を打つ。

 ラニウスがキッチンからトレイを持ってやってきた。トレイをテーブルへ置き、そこから数枚の皿が並べられていく。かぼちゃの冷製スープ、雑穀パン、サーモンと彩野菜のサラダ。

「……なんだこれ」

「食事だ。少なくともこれで”寝過ごしてから食事を新しく手配する仕事”は減った」

「食べたらまた眠くなる」

「十分すぎるぐらい低糖質だ。これで眠くなるようならそれは糖質が原因ではない」

アレクシスは難しい顔をして考えているようだ。何を考えているか(おそらくこの食事をとることによって構築されかねない関係性や、他人の手づからの食事をとることが示すモチーフについて)ラニウスはある程度想定はできたが追及はしなかった。この男と自分の見ている世界は同じでも、感じ方は全く違う。

 初めて会った時、ラニウスはアレクシス・バックマンを面倒な男だと感じた。それは今でも変わっていない。だがその面倒というのは、彼がそれだけ緊張していて、緊張せざるを得ない環境に身を置いているということだ。一つ一つの振る舞いに多くの視線や憶測が向けられる立場だからこそ、行動や素振りの一つ一つを勘ぐらなければならない。そうやって慎重に、だが慎重であることをおくびにも出さず笑顔を保つ。

 アレクシスはまだ考えている。燃えるような西日が彼の横顔を照らしていた。つくづく絵になる男だとラニウスは思い、席を立って窓際にレースのカーテンを引いた。同じ高さのビルが周辺に無いから、この部屋は狙撃やのぞき見の心配がない。

 再び席に戻る前にラニウスはもう一度キッチンへ行き、そしてアレクシスに用意したものと全く同じもう一人分の食事を手にして戻った。

 一つのテーブルに鏡合わせのように並んだまったく同じ食事。かぼちゃのスープにひと回しかけられた生クリームの筋すらも同じだ。

「……なんで二人分?」

「これは俺の分だ」

「人の家で」

「それは申し訳ないと思っている。一応原状回復はした。俺が帰る前に確認してくれ、不備があれば対応する」

「かぼちゃなんて冷蔵庫にあったか?」

「食材はすべて今日調達した。借りたのは設備と器具だけだ」

「……サーモンも?」

「サーモンも」

「玉ねぎはあったろ」

「あったが、使わなかった。近くの店で買ってきた」

「このサラダにかかってるドレッシングは」

「オリーブオイルと塩コショウ、それからパプリカ、マスタード。すべて市販品だ、俺の家のストックを買ったと思えばいい。この食事も同じだ。一人分作るより二人分作ってしまった方がかかる手間と成果物のつり合いがいい」

 アレクシスがスプーンを手に取った。かぼちゃのスープを一口すくう。口に運ぶ。

 口元を動かし、今度は先ほどより深くスプーンを差し込む。すくいあげたスプーンには、上層の細かく摺りつぶされた部分と下層のやや粗漉しなペーストが乗っていた。

 アレクシスがスープを半分ほど飲み進めたのを見て、ラニウスも自分の食事を始めた。パンをちぎって口に入れ、スープを飲み、サラダを噛む。既に調理中に何度も味見をした通りの味だ。好みがわからないのでやや薄味にしてあるが、アレクシスは特に文句を言わなかった。

 後から食べ始め、そして先に食べ終わったラニウスはそれから仕事用にと支給された携帯端末を取り出した。既にアレクシスの業務用のアドレスやスケジュールとは連動するよう設定してある。

「それと、エクラサミット当日までのスケジュール仕事の流れについて一部組み替えた。SNS更新等の個人業務は任せるが、これまで本社経由の業務については交渉時点から俺が入る。本人の意向と体調、判断材料を多く持っている側が判断すべきだ。だが渉外部の顔も立てる、そのあたりの面倒は気にするな」

 テーブルに置かれたラニウスの業務用端末にアレクシスが手を伸ばすが、すかさずラニウスが「食事が先だ」と端末を遠ざける。「大筋の要求は伝えたし本社はのむと言っている。本人の意向については随時フィードバックしてくれればいい。方針は都度修正する」

 アレクシスは口をもぐもぐとさせながらラニウスを見た。ラニウスもアレクシスの顔を見た。

「”本社は要求を呑むと言っている”……」

 と、アレクシスは口元についたパンくずを指でぬぐいながら言った。

「事務所に言われたことはそれだけじゃないだろ?」

「業務上報告すべきことはそれだけだ。録音はあるが聞くか」

「面白そうだな、今夜寝るときに枕元で流すよ」

 アレクシスはぺろりと食事を平らげ、そしてようやく端末を手に取ったが、指先で一度画面をスワイプして鼻で笑った。

「予定表が随分すっきりしたな。俺のゴシップでも出たか?」

「確定した予定だけ入れろと言った。調整中の予定をこれ見よがしに入れるから今日のようなことが起きる。逆も然り。外部調整を専任する部門なら、調整中の情報は部門内だけでいい。情報の取捨選択も業務のうちだ、不確定な情報は前線に余計な混乱をもたらす」

「お前と話してると軍事企業に転職した気分になるな」

「やるべきことは同じだ。筋道を立て、乱れれば整え、相違点は議論し、記録を残し、そして遂行する」

「悪くない」アレクシスは端末をラニウスに返した。「で、マネージャー。俺の今日のスケジュールは?」

 明らかに許容範囲外の大胸筋にはちきれんばかりのエプロンを身に着けたマネージャーの目元がぎらりと光った。光が反射しないはずのサングラスの奥で、何かが蠢くのをアレクシスははっきりと感じた。

「SNS用の動画撮影と編集。進捗に関わらず22時に就寝。以上だ」



   /



 ありのままに広々としていた無法地帯に、重低音を響かせて巨大なブルドーザーが分け入っていく。土を掘り返し、石を砕き、投棄物すらも粉砕して力ずくでどかし、土地を整地していく。

 まるで工事現場の初期段階に起きるようなそれが、正にいまアレクシスの日常に起きていた。

「水を飲め」

「脂質が多い」

「氷が多い」

「一時間経った。立って屈伸しろ、ストレッチだ」

「寝ろ」

「座って食え」

「水飲んだか?」

「早く寝ろ」

「寝ろと言ってる」

「携帯を寄越せ。没収だ」

 アレクシスは辟易としていた。

「お前は俺のママか?」

「いい母親だったんだな。親に感謝しろ。そして水を飲め」

「水の飲みすぎで死ぬ。水中毒だっけ? お前俺を殺す気だろ」

「今日の飲水量はまだ1リットルにも及んでいない。水中毒で殺すにはもっと大量の水を短時間で摂取させる必要がある」

「致死量把握してんのが怖えよ」

 屋外での撮影だった。炎天下の日差しが差し込むシエスタビーチのヴィラ。リゾート地として通年観光客の絶えない地域ではあるが、サマーシーズンはそれがさらに加速する。

 一戸建ての別荘を囲む広大な庭、そして楕円形のプール、美しいブルーのタイル。玄関わきのポーチには凝った意匠の柵と、裏庭へ続く飛び石と蔦の絡みついたアーチ。

 アレクシスがアンバサダーを務めるブランドの新作発表に合わせて広告用の映像や写真撮影をすることになっているが、近辺の交通整理や厳重な規制線にも関わらず、国内外から集まった野次馬やなにかのイベントと勘違いした観光客が無遠慮に向けるカメラレンズがしきりに太陽光を跳ね返してチカチカと視界を焼く。

「ご苦労なことだ」

 アレクシスは屋内に入り、外から見えない位置にあるラウンジのソファへ座った。ラニウスが水入りのボトルを差し出すと、眉をしかめつつも受け取って小さく傾ける。

「シャワーが浴びたい……」

「このあとプールに入っての撮影だ。我慢しろ」

「先に入ってていいか? いいだろ」

「全体の進行を乱すな」ラニウスは腰と足に巻いていたベルトに装着されたポーチからスプレーを取り出し、上下に振る。「顔をむけろ、水分補給」

「ん」

 アレクシスがぐいっと顔を上に向ける。ラニウスはそこからさらに数センチ上に向けてスプレーを振りかけた。フランス南部の源泉から汲んだ温泉水だ。空中に散布され、そこから重力にひかれて落ちていった細かい水滴がアレクシスの顔にかかる。

「もっと」

「かけすぎると化粧が崩れる」

「じゃ、仰げ」

 ラニウスが肩に提げていたジュラルミンケースからハンディファンを取り出す。「スイッチは自分で押せ」

「お前さあ、もっとあるだろ、鞄。スーツにそれって、麻薬でも入ってんのか?」

「容量、遮熱、安全、耐衝撃、防弾。これが一番いい」

「防弾?」

「喋ってないで休め。プールで溺れる」

 アレクシスがハンディファンの電源を入れ、顎をしゃくった。

 ラニウスが振り返ると、撮影スタッフの一人が恐縮した様子でこちらに歩いてくるところだ。脱いだキャップを胸に抱いた若い男性スタッフはまるで断頭台へ向かう罪人さながらの血の気の無い顔で、ちらちらと二人を、特にサングラスをかけた巨漢の麻薬カルテル幹部を伺っている。

「あっ、あの、す、すみません」

「はい」

「ヒッ」

 背後で噴き出す声にラニウスが振り返った。「いや、なんでもない、なんでも」アレクシスが手を振る。

 スタッフはやおらラニウスに対し怯えた視線を送りながらも、生唾を飲んでついに「機材の故障がありまして」と口火を切った。

「故障とはどういった? こちらで手を貸せるものなら貸すが」

「いえ! いえまさかそんな、大丈夫です。内部に熱がこもってしまって、一旦冷却させてから再起動してます」

「ああ、この暑さだからな。仕方ない」ラニウスはちらりとスタッフの肩越しに機材と人が集められている奥の部屋を見た。「映像制御のパソコンが熱で処理落ちしたんだろう。こればかりは事前に止めようがない」

 スタッフはこくこくと頷き、先ほどよりは流ちょうな口調でつづけた。「で、ですね……一時間ほどの休憩を前倒しで今入れさせていただいて、日が傾く前に残りの撮影を詰めたいと思うんです。日が暮れてしまうと撮れないショットがあるので……後半の休憩時間がやや短くなるんですが、そこは気温の下がり具合と調整しつつで……」

「了解。こちらは体調面で今のところ不安はない。アレクシス、聞こえたな」

「ああ」

 アレクシスはソファから立ち上がった。「と言っても周りがあんな騒ぎじゃ外にも出れんしな、二階で休んでていいか?」

 その申し出は快諾され、アレクシスは上機嫌でコテージの二階にある主賓室へ向かった。そこは大きなキングベッドがひとつと、細々した棚やドレッサーだけが置かれた部屋で、奇しくもニューヨークにあるアレクシスの自宅マンションの寝室とよく似た構図だった。

「木の匂いがする」部屋に入るなりアレクシスはそう言い、そしてベッドに腰掛けた。

 ラニウスは窓にレースカーテンを引き、そして外からは見えない角度でコテージを囲う鉄柵の向こうに集まった野次馬の様子を眺めた。たまたま居合わせた観光客や好奇心で何か出てくるのかと立ち止まっている市民、それから明らかにこの手のことを生業としているようすのパパラッチたち。

「まるで犯罪者みたいだろ?」

「そんなことは考えていない」

 アレクシスはベッドに寝転がりながらも携帯で何やら画像編集をしている。おそらくSNS投稿用の画像だろう。他人の顔や情報が映りこんでいないか、競合他社の商品やブランドロゴが入っていないか。そして何より、画像や文面について現在の流行に遅れていないか、あるいは“前衛的”すぎないか。

 編集している画像自体はもうずいぶん前に撮影されたものだ。リアルタイム投稿用とそうでないもの。発信する情報は本人の手を離れた途端いくらでも改竄される。だが時間の流れだけは改竄のしようがない。

「マネージャー、チェック」

 アレクシスが携帯を差し出す。ラニウスは携帯を受け取り、数枚の写真を見た。

「問題ない」

「じゃあ少し寝る」

「食事はどうする。後半の休憩時間が短縮される分、今必要なら手配しておく」

「任せる」

「なら水だけだ」

 背中にクッションをぶつけられながらラニウスは主賓室を出た。そして通路の端端に安全用の監視カメラがあることを確認し、一階へ降りていく。正面玄関から外へ出ようとした際、先ほどのスタッフが「どちらへ? 正面は見物人だらけですよ」と声をかけてきた。

「俺は有名人じゃないからな。四十分ほど戻る。アレクシスは二階の主賓室で休んでいるが、緊急時以外では入らないでくれ」

「部屋に地雷でも?」スタッフはすこし勇気を出したようだ。

 ラニウスは口元をニコリと動かした。「あの部屋だけじゃない」そう言いおいてヴィラを後にした。


   /


 尾行されているなと気づいたとき、ラニウスは同時に、それが脅威でないことにも気づいていた。撮影現場のヴィラを離れ、アレクシスが以前溢していた有名なサンドイッチ店へ向かう道すがらのことだ。おおよそパパラッチか何かだろうと放っておいた。写真を数枚撮られたところでサングラスをかけていれば正面から撮影されてもなんということはない。そもそもラニウス自身は業界人でもない。相手もそんなことにフィルムを無駄にはしないだろう。

「ねえ、お兄さん」

 にぎやかなシエスタの通りにあるサンドイッチ店で注文し、出来上がりをテラス席で待っていると、まるで知り合いのようにするりと細身の男が同じテーブルに着いた。頬の骨格が特徴的な男だった。おざなりなアロハシャツにハーフパンツ、観光客のように見えるが足元は履き続けてくたびれたスニーカー。

「こんな日差しの中でスーツだなんて暑くないの。知り合いが古着屋をやってるんだけどどうだい、いいのが揃ってるよ」

「また今度」

「さっき撮影クルーと話してたよな?」

 通りへ視線を流したラニウスの横顔に男がわずかに身を乗り出した。「アレクシス・バックマンのボディガード? 今まで見たことない顔だ、最近雇われたばかりだろう。なあ、ちょっといい話があるんだ聞いてみないか」

「いい話なら独り占めしておくといい。聞かせたいだけなら猶更結構だ」

「そう言うなって!」

 別のテーブルに移動しようとしたラニウスの前に男が割り込んだ。「なあ、マジでいい話なんだって。アンタがアレクシスの事務所からいくら貰ってるか知らないが……その金が払いきられるまで、あの事務所が残ってるかわからないんだぜ?」

 ラニウスがかすかに首を曲げた。男は俄然得意になったようすで距離を詰め、声を潜めた。

「アレクシスがいま事務所とやりあってるのは知ってるだろ? 価値観が合わねえから独立させろって言い出して、もう二年近くにもなる。HRA*は業界でも超大手の事務所だ、業界とのコネも深い。そこの看板任せられてるってのに、アレクシスは事務所から独立したがってる。なんでだと思う?」

 *HRA=アレクシスの所属事務所

 男はそう問いかけながらも、ラニウスの返事を待たずに続けた。

「事務所が業界のやばい奴らと関係してるって噂だ。実は昔からあったのさ、だが噂が立つたびすぐ消えた。枕営業なんて可愛いもんじゃねえ、テレビ業界、映画配信会社、それからSNSの運営会社____そういうとこに面のいい奴ら送り込んで、献金もしてるって噂だ。しかもたちが悪いことに、向こうも向こうで事務所に頼りまくってる。スキャンダルが出るたびに代役をすぐ寄こさせて、ほしいキャラクターのタレントを育てさせて、不祥事が起きりゃ目立つ奴らを呼びつけて別の話題を作らせる」

「ありがちな話だな」

「そうか? じゃこんなのはどうだ、ある新進気鋭の若手俳優が映画の主役をやることになった。だが映画公開の一カ月前に不倫がバレて急遽降板になったが、映画は予定通りに公開された。主役は誰だったと思う? アレクシスだよ」

 男は舌を覗かせ、乾いた唇をぺろりと舐めた。

「もっと言えばな、この若手俳優の不倫だって当初は大々的にバッシングされたが、結局は和解したんだぜ。不倫相手の女の夫がテレビ業界の大物だったが、そもそも夫婦仲は最悪だったってことが後々分かった。俳優は名前を変えて海外で元気にダンサーやってるよ」

「興味がない」

「まあ、マジで後悔するぜ、あんた……」

「いつか誰もが後悔する」ラニウスは呼ばれた番号が印字されたレシートをもってレジで商品を引き換えた。「だが今は俺の番じゃない。誰の番だと思う?」

 テイクアウトのホットサンドが入った袋はじんわりと温かい。熱心にゴシップを聞き出そうとしていた男は舌打ちをして引き下がっていった。

 そして予定通りに撮影現場のヴィラに戻ると、アレクシスは主賓室のベッドでチェシャ猫のようにニタニタ笑っていた。

「なにか面白いことでもあったか?」ラニウスはテイクアウトの袋をサイドテーブルに置いた。

「通りの向こうからやけにピカピカしたものが近づいてくると思ったらお前の頭だった」

「そうか、よかったな。食事をとれ」

「ハゲてると熱いだろ」

「ハゲてない、剃ってるだけだ」

 アレクシスはおざなりに受け流し、テイクアウトの袋から取り出した球体のプラスチックパックをボールのように真上に投げ上げてはキャッチした。中のサラダが重力にもてあそばれ、ドレッシングと混ざり合って攪拌されていく。

 そういう食べ方をするためのケースとは言え顰蹙を買いそうなものだ、とラニウスは思った。特に日本人などが見れば刀を抜いてアレクシスの首を取りに来るだろう。

「なんだよ、俺に見とれて」

 アレクシスは球体のパックを開け、めちゃくちゃに混ざったサラダをフォークで食べ始めた。「うん、まあ味は普通だよな」

 払った金はほとんど容器代だろう。それと娯楽代か。ラニウスはそんなことを考えながら肩にさげたジュラルミンケースから水筒を取り出す。

「何飲んでる? プロテイン?」

「水」

「お前の分は買ってこなかったのか?」

「不要だ。食事は落ち着いた場所でとる」

 アレクシスはサラダを頬に溜めながら室内を見渡した。ヴィンテージな家具に囲まれた憩いの部屋。広いベッドに質素ながら高級感のあるテーブル、まさに大人の隠れ家と言わんばかりの一室だ。

 ラニウスはその視線の動きが言わんとするところを察した。

「仕事中は食事を取らないことにしている。気が緩む」

「俺の部屋で勝手に作って勝手に食ったのは?」

「あれは仕事としての食事だ。同じ調理工程で作られた食事を目の前で俺が食べれば、それに毒が盛られてないことがわかる。安全性と、信頼獲得のための第一歩」

「そこは嘘でも俺のために作ったって言えよ」

 アレクシスはサラダをきれいに食べ終えると、次に、また野菜があふれんばかりに挟まれたホットサンドを手に取った。ローストビーフサンドのはずだが、野菜を増量しすぎて肉が埋もれている。

「俺がしていることのすべてはお前のためだ」

 ラニウスは水筒を鞄に仕舞い、そしてタオルを一枚取り出した。「……随分むせたな、一度出すか」

 アレクシスは眉間にしわを刻み、口元を抑えたままじっとベッドに座っている。ラニウスが差し出したタオルを受け取らず、代わりにラニウスにホットサンドを預けた。

 ホットサンドは根元を強く握りすぎたせいか、飛び出したレタスやパプリカ、ローストビーフが極彩色の花束のようになっている。

「水いるか?」

 ラニウスはテイクアウトの袋からアイスティーを取り出してアレクシスに渡した。

「存外初心なんだな、この業界にいても」

「ハゲに真面目な顔で口説かれた経験なんてどこの業界でもねえよ」

「口説いてない」

「ああ、はいはい、もうここ数週間でお前のやり口はわかってる」

 アレクシスはラニウスの手からホットサンドを取り戻し、はみ出たレタスやローストビーフが崩れないようちまちまと端からかじっていく。

「”これは仕事の一環だ”、”俺は業務としてやってる”、”勘違いするな、俺はお前じゃなく仕事に本気なんだ”____このあたりだろ? お前の決め台詞は」

 ラニウスは妙な顔をしていた。サングラスによって彼の表情や目つきが隠されていたとしても、アレクシスは口元の微妙な動きや、眉に繋がる額のしわなどでそれを察していた。

「本当に決めなきゃならない重大な状況において、言葉が手段になるのは政治家や俳優だけだろう。俺はただの一般人だ」

「へえ?」

「それに、重大な場面なら猶更行動で示すべきだ」

「ふーん」アレクシスは興味を失ったようだ。「じゃあお前、目の前にめちゃくちゃタイプの奴がいて、なんとしてでも抱きたいときどうする」

「礼儀正しく挨拶して隣の席に座る」

「それで?」

「許されるなら手を握って一目惚れしたと伝える」

「つまんねえ男」

「自分で自分を面白い奴だと思っている男よりはマシだ」

「それはそうだな」

「マシな選択肢を選ぶことだ。運命的な出会いや偶然なんてものはこの世にない。必ず誰かの利己的な思惑がある、相手にも、自分にもだ。その中で最もこちらの損害が少なく、最も相手に打撃を与える手立てをとる。その繰り返し」

「誰だ? お前の軍人スイッチ押したのは?」

「失礼。癖だ」

 ラニウスは口元を手で撫でた。アレクシスはホットサンドにかぶりつきながらまた猫のように笑った。

「まあなんだ。安心して口説け、お前結構面白いぞ」

「……黙って食え。よく噛んで食べろよ。そろそろ撮影も再開するだろう」

「イエッサー」

 今にも具が零れ落ちそうなサンドをよくもまあ口元を汚さず綺麗に食べるものだ。

 ラニウスは内心感心しながら、階下であがる機材復旧の歓声を聞いていた。


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