どうやらアポロ様は王太子殿下の顔を知らなかったようです。
「話の途中に入ってきてしまってすまないね。」
扉が開くと同時に、聞き覚えのある声が聞こえてくる。
「オスト様……」
オスト様の後ろからは、バネッサとオスト様の従者であるアルマンが入ってきた。
どうやら、バネッサが見るに見兼ねてオスト様を呼んできてくれたらしい。
もしかしたら、アルマン様が呼ぶように指示を出したのかもしれないけれど……。
「やぁ、ヘリーオストじゃないか。元気だったかい?」
先ほどまでとは打って変わった態度で、オスト様に向かっていくダルデンヌ公爵。
アポロに至っては、パーティーの時とはあまりに風貌が変わりすぎていて、誰だか分かっていないようだ。
「プロメティオス叔父上。——いや、ダルデンヌ公爵。お久しぶりですね。パーティー以来ですから三か月振りでしょうか。お変わりなさそうで何よりです」
見た目は笑顔で近付いてくるものの、その場の空気は明らかに張り詰めていた。
——怒っている。
そう感じさせるには十分すぎる空気だった。
「あ、あぁ……それよりヘリーオストは何故ここにいるんだ?ここはそこの阿婆擦れの家だろう?」
私を顎で指しながら言い放つダルデンヌ公爵。
普段から女性を軽視しているのがよく分かる発言だ。
こんな場面をお母様が見ていたら——間違いなく大惨事になっていただろう。
少しだけ、お母様がこの場にいないことに安堵する。
「ほぅ……なぜ私がここにいるのか、ですか」
オスト様の声が、わずかに低くなる。
「ダルデンヌ公爵は何もご存知ないのですね。それとも忘れてしまったのでしょうか?でしたら——その頭は飾りですか?」
言葉の一つ一つに、棘がある。
明らかに怒りを抑え込んでいる声音だった。
普通ならば、ここまで言われれば動揺するはずだが——
ダルデンヌ公爵も、アポロ様も、まるで効いていないようにあっけらかんとしている。
……ある意味、強者かもしれない。
「アポロ殿は、あの場にいたのですから、一部始終をご存知のはずですが?聞いておられないのですか?」
オスト様が視線を向けると、アポロ様は首を傾げた。
「君は、誰だい?僕は君とどこかで会ったことがあるだろうか。可愛い子猫ちゃんの顔なら忘れないんだけどね……」
「「「「は?」」」」
私だけでなく、オスト様、バネッサ、そしてアルマンの声が重なる。
婚約者の頃から少し頭が弱いとは思っていたが——
まさか、ここまでとは思わなかった。
婚約破棄できて良かったと、心の底から思う。
「どうやら、私の顔も覚えられていないようですね。一応、従兄弟なのですが……自己紹介した方が良さそうだ」
オスト様のこめかみが、ぴくりと動く。
「アポロ殿。私はヘリーオスト・アンベール。《《アンベール国の》》王太子です。以後、お見知り置きを」
静かだが、確実に圧を乗せた声音だった。
「ヘリーオスト王太子殿下のことは知っているぞ。父上が言っていた。なよなよしていて頼りない、顔も美男とは言い難い、嫁すらできないだろうと。彼奴が王になればこの国はすぐ滅びるともな。僕が次の国王だとも言っていた。まぁ、よろしく頼む」
——空気が凍る。
誰も、言葉を発せない。
ダルデンヌ公爵の顔色が、みるみるうちに青くなっていく。
「きょ、今日はここで失礼する!いいか、阿婆擦れ女!今度はコルベール侯爵がいる時に来る!慰謝料の件、伝えておけ!」
そう言い捨てると、目の前の紅茶を一気に飲み干し、アポロ様の首根っこを掴んで強引に部屋を出ていった。
***
「何だか……嵐が過ぎ去ったみたいですね……」
「あぁ……そうだな……」
滞在時間は一時間にも満たないはずなのに、体感としては一週間分の疲労が溜まったような感覚だった。
これなら、王都で公務をこなしていた方がよほど気が楽かもしれない。
「メルティ……すまないが、先ほどの件を父上に伝えておきたい。君はどうする?」
「そうですね……。こちらにいるより、王都の方がゆっくりできそうです。私も一緒に戻ります」
ここにいれば、またあの二人は来るだろう。
それならば、王都に戻った方が賢明だ。
「分かった。では一緒に戻ろう。侯爵にも話しておきたい。今週末に戻る予定だが、いいか?」
「はい、大丈夫です。それまでに準備をしておきます」
今後の予定を軽く確認した後、私たちは再び席に着いた。
先ほどまでの騒がしさが嘘のように、静かな時間が戻る。
紅茶の香りと、本のページをめくる音だけが、穏やかに流れていた。




