第7話 領主商談
白鹿亭へ向かう道中、リゼットはずっと落ち着かない様子だった。
歩幅は速いし、何度も俺の方を見ては何か言いかけてやめている。たぶん言いたいことがいくつもあるのだろう。わかる。さっきまでは店の中で仮説を立てていただけだが、今は相手の懐へ入る段階だ。ここから先は、会話一つで流れが変わる。
「何か気になることがあるなら、今のうちにどうぞ」
俺が言うと、リゼットはすぐに口を開いた。
「あるわよ、いっぱい」
「たとえば?」
「本当に売り込まないの?」
「最初は」
「最初は、ってことは後では売るのね」
「必要なら」
「やっぱり結局売るんじゃない」
「そのために来ているので」
「開き直ったわね」
やや呆れたように言いながらも、声音は少し明るい。
俺は白鹿亭の位置を確認しながら答える。
「ただし、順番が大事です」
「順番」
「はい。今日の目的は“全部ください”を取りに行くことじゃありません」
「じゃあ何?」
「誰が、何に、どのくらい困っているかを分けることです」
「……また細かい話ね」
「ここを雑にすると、だいたい失敗します」
前世でもそうだった。
一つの会社、一つの店舗、一人の担当者。見た目は“相手が一人”に見えても、困りごとは立場ごとに違う。経営者は全体を見る。現場は手間を嫌う。経理は無駄を嫌う。全部に同じ話をしても、刺さり方がズレる。
リゼットはしばらく考え込んでから、小さく頷いた。
「つまり、白鹿亭って一つの相手じゃないってこと?」
「その通りです」
「女将さん、料理場、下働き……みたいに?」
「はい。たぶん、それぞれ不満が違う」
「……なるほどね」
理解が早いのはありがたい。
白鹿亭は、街道沿いの少し大きめの宿だった。正面の看板は手入れがされており、入口の周りも掃き清められている。繁盛店というほど派手ではないが、手を抜いていない感じがある。
こういう店は強い。
基本が整っている店ほど、納入先にも“整っていること”を求める。
「思ったよりちゃんとしてるわね」
リゼットが小声で言う。
「はい。だから安さだけでは落ちにくいです」
「バルトが食い込んでるのもわかる気がする」
「でしょうね」
俺たちが入口へ近づくと、ちょうどユアンが気づいて中へ駆け込んだ。数秒後、扉が開き、恰幅の良い女性が出てきた。四十代半ばくらいだろうか。腕まくりをし、いかにも現場を回してきた人間の顔をしている。
目が強い。
たぶんこの人が白鹿亭の女将だ。
「マルシェ商会の……リゼットちゃん?」
「ご無沙汰しています、ミレイアさん」
「ほんとに久しぶりだねえ」
女将――ミレイアさんは俺を見た。
「で、こっちの兄さんは?」
「真壁連司です」
「マルシェ商会の者かい?」
「現時点では、立て直しを手伝っている者です」
「ふうん」
曖昧な肩書きに聞こえただろうが、ここで無理に大きく見せても意味がない。
ミレイアさんは扉を大きく開けた。
「茶葉、助かったよ。とりあえず朝は凌げた」
「それはよかったです」
「礼は言う。でもね」
彼女はそこで一度言葉を切った。
「一回助けてくれたからって、すぐ昔みたいに戻るとは思わないでおくれよ」
「はい」
俺は即答した。
「そのつもりはありません」
リゼットが横で一瞬だけ俺を見た。
おそらく、ここで取り繕わずに受け止めたのが意外だったのだろう。
ミレイアさんは少しだけ眉を上げた。
「へえ。言い返さないんだね」
「言い返せる状況ではないので」
「正直だ」
「必要な範囲で、ですが」
女将は鼻で笑った。
悪い空気ではない。少なくとも門前払いではない。
「入んな。立ち話で済む話でもないだろ」
「ありがとうございます」
宿の中は、忙しさの名残がまだ残っていた。朝食の片づけが終わりきっていないのだろう。奥から食器の触れ合う音がするし、香ばしい匂いも残っている。客足が落ち着く時間帯だが、現場はまだ動いている。
席に通されるまでの短い移動だけでも、色々見える。
布巾の干し場。茶の給仕台。乾物の仮置き棚。どれもよく使われている。つまり、ユアンの言っていた「朝に止まると困る」は本当だ。
ミレイアさんが腰を下ろし、こちらにも座るよう促した。
「さて。で、今日は何しに来たんだい?」
「売り込み、ではありません」
「へえ」
「まず、お困りごとを正確に聞きたいと思って来ました」
「……」
女将の目が少し細くなる。
「変わったこと言うね」
「変わっていますか」
「大抵は“うちはこれができます、これが安いです、前より頑張ります”から入るもんだよ」
「そのお気持ちはもっともです」
俺は一度頷いた。
「ですが、それを先に言ってもズレる可能性が高いので」
リゼットが横で小さく肩を震わせた。
たぶん“そのお気持ちはもっともです”が出たせいだろう。職業病みたいなものだ。
ミレイアさんはそれを聞いて、少しだけ口元を緩めた。
「面白い兄さんだね」
「よく言われます」
「褒めてるかはまだわかんないけどね」
「承知しています」
よし。空気は悪くない。
ここで大事なのは、こちらが話しすぎないことだ。
「では、最初に一つだけ」
「何だい」
「今、一番困っているのは何ですか」
「……」
ありふれた質問に見えるが、最初はこれでいい。相手が何を最優先に置いているかを自分の言葉で出してもらうことに意味がある。
ミレイアさんは腕を組み、少し考えてから答えた。
「朝が止まることだね」
「やはり」
「やはり?」
「こちらでも仮説は立てていました」
「ふうん」
「茶葉だけの問題ではない、と」
「そうさ。茶葉はきっかけにすぎない。最近は、細かい物がちょこちょこ抜けるんだよ。布巾、干し肉、時には卵。どれも一つ一つは小さい。だけど朝に一つ抜けるだけで、現場は一気に崩れる」
「なるほど」
「わかるのかい?」
「現場が毎日動く商売なので」
ミレイアさんはそこで、じっと俺を見た。
試している目だ。
ここで浅くわかったふりをすると終わる。だから、言葉は短く、具体に寄せる。
「朝食の立ち上がりは、遅れを取り戻しにくいですよね」
「……そうだよ」
「昼ならまだ調整できます。でも朝は客が一斉に動く」
「そう」
「だから、切れて困るのは“高い物”じゃなく“毎日使う物”」
「……」
女将はほんの少しだけ顎を引いた。
刺さった。
横でリゼットが、心の中で「おお」と言っていそうな顔をしている。
「じゃあ次」
ミレイアさんが言った。
「はい」
「マルシェ商会は、前に何で切れたと思う?」
来た。
これは大事な問いだ。
ここで自分に都合のいい答えを言うと、信頼を失う。
「品切れと、細かい要望への対応不足です」
俺は即答した。
「……リゼットちゃんに聞いてきた?」
「聞きました」
「素直だね」
「必要なので」
「それだけかい?」
「いいえ」
俺は少しだけ間を置いた。
「おそらく、“頼んでも雑に扱われる”感覚もあったはずです」
「……!」
女将の表情が、初めて少し大きく動いた。
やはりそこだ。
商品や価格より厄介なのは、対応の雑さだ。
現場の困りごとを“細かいこと”として処理された記憶は、長く残る。
「どうしてそう思った」
「ユアンさんの話からです。今の納入先も、雑だと」
「……なるほどね」
「つまり白鹿亭さんが求めているのは、“ただ物が届くこと”ではなく、“現場が困る前にきちんと回ること”だと考えました」
「……」
数秒の沈黙。
奥で皿の音が鳴る。
宿の外を馬車が通る。
その全部の間に、女将の視線がこちらを測っていた。
やがてミレイアさんは、ふっと息を吐いた。
「少なくとも、話は聞いてるみたいだね」
「ありがとうございます」
「でも、聞くだけなら誰でもできる」
「その通りです」
「じゃあ、何が違うんだい」
「違いを出せるかは、ここからです」
そこは大きく出なかった。
リゼットが、ほんの少しだけ口元を上げるのが見えた。
たぶん“言い切らないんだ”と思ったのだろう。
「確認したいことがあります」
俺は続けた。
「何だい」
「白鹿亭さんの中で、今一番強く困っているのは、女将さんですか。それとも料理場ですか。あるいは下働きの方々ですか」
「……は?」
「立場ごとに痛い場所が違う可能性があるので」
「そこまで分けるのかい」
「分けた方がズレません」
ミレイアさんはしばらく黙っていたが、やがて面白そうに笑った。
「本当に変わった兄さんだね」
「ありがとうございます」
「今のは褒め言葉寄りだよ」
「光栄です」
女将は椅子の背にもたれた。
「私が困るのは、宿全体の評判が落ちることだ」
「はい」
「料理長が困るのは、仕込みが止まること」
「はい」
「下働きは……そうだね、探し回ることと、足りない時に怒鳴られることだろうさ」
「……」
「で、それを全部まとめて“朝が止まる”って言ってる」
完璧だ。
これで論点が分かれた。
全体評価、仕込みの安定、補充と導線。
つまり、こちらが提案する時も相手ごとに言い方を変えられる。
「ありがとうございます。非常に整理できました」
「整理ねえ」
「はい。白鹿亭さんが困っているのは一つに見えて、実際には三つの層に分かれています」
「……続けな」
「女将さんには、“評判を落とさないための安定供給”」
「ふむ」
「料理場には、“仕込みを止めない優先補給”」
「うん」
「下働きには、“探し回らなくて済むわかりやすい納品”」
「……」
ミレイアさんは黙ったまま俺を見ていたが、やがて小さく笑った。
「なるほど。皆に同じ話をしないつもりなんだね」
「その方が正確なので」
「面白い」
「ありがとうございます」
「だからまだ褒めすぎる気はないって言ってるだろ」
リゼットがとうとう吹き出した。
「ねえミレイアさん、この人ずっとこんな感じなんです」
「見ればわかるよ」
「変でしょ?」
「変だね。でも、今のところは悪くない変さだ」
それはかなり良い評価だった。
ここでようやく、俺は次の一歩を出す。
「では、ご提案ではなく確認ですが」
「何だい」
「もしマルシェ商会が部分的にでもお役に立てるなら、最初はどこからなら試せそうでしょうか」
「……部分的に、か」
「最初から全部は受けません」
「そこははっきり言うんだね」
「できない約束はしないので」
「その方がいい」
女将の返答は早かった。
「なら、茶葉と布巾だね」
「干し肉ではなく?」
「干し肉は味の好みもある。でも茶葉と布巾は、まず回れば助かる」
「なるほど」
「それに、今朝困ったばかりだ。実感もある」
「わかりました」
これで最初の入口は見えた。
茶葉と布巾。
まずはここから。
だが、まだクロージングには早い。今必要なのは、条件をもう少し正確に掴むことだ。
「最後に一つだけ」
「まだあるのかい」
「大事なことなので」
「言ってみな」
俺は女将の目をまっすぐ見た。
「白鹿亭さんが、マルシェ商会に一番不安を感じるのは何ですか」
「……」
この質問は少し強い。
だが、ここを避けて通ると後で効いてくる。
ミレイアさんは即答しなかった。
指先で机を二度ほど叩き、それから低い声で言った。
「続かないことだよ」
予想通りであり、予想以上に重い答えだった。
「今日だけ助かっても困る」
「はい」
「一回だけ気を利かせても困る」
「はい」
「三日で元に戻るなら、最初から期待しない方がましだ」
「……その通りです」
リゼットの顔が少し硬くなる。
たぶん痛いところを正面から言われたのだろう。
だが、これは逃げてはいけない。
俺は頷いた。
「でしたら、もしご提案するなら、“何を納めるか”より先に“どう続けるか”をお見せします」
「……」
「言葉ではなく、運用の形で」
「そこまで言うかい」
「そこが一番の不安だとわかったので」
ミレイアさんは、しばらく俺を見ていた。
やがて椅子から立ち上がる。
「話はわかった」
「ありがとうございます」
「じゃあ明日、料理長も交えてもう一回来な」
「……!」
リゼットが息を呑んだ。
「茶葉と布巾、まずはそこから話を聞く」
女将は続ける。
「ただし、こっちは甘く見ないよ。できることとできないこと、はっきり言ってもらう」
「承知しました」
「あと、前みたいな“頼んだのに細かいことが抜ける”のはもう御免だ」
「そこも含めて、準備して伺います」
「いい返事だ」
そう言って、ミレイアさんは初めて少しだけ柔らかく笑った。
「面白い兄さんだね、あんた」
「光栄です」
「次で見せてもらうよ。口だけじゃないところを」
白鹿亭を出た後、リゼットはしばらく黙っていた。
通りを半分ほど歩いたところで、ようやく口を開く。
「……すごい」
「何がですか」
「いや、全部」
「まだ何も決まってませんよ」
「それでもよ」
彼女は足を止め、俺を見た。
「女将さん、あんなに話す人じゃないの。しかも、次に料理長まで出してくれるなんて」
「現場の本音があるなら、そこまで聞かないと提案できないので」
「そこなのよ」
リゼットは、呆れ半分、感心半分の顔で笑った。
「普通は“お願いします、使ってください”ってなるところで、あんたは“誰が何に困ってるか分けましょう”ってやるのよね」
「その方が通りやすいです」
「……ほんと変」
「褒め言葉として」
「もうそれでいいわ」
俺は空を見上げた。
最初の一件は、白鹿亭から。
その入口は開いた。
だが次はもっと重要だ。
聞いた内容を、ちゃんと“続けられる提案”に落とし込まなければいけない。
つまり、ここからが本当の準備になる。
第7話を読んでいただきありがとうございます。
次回、白鹿亭の料理長も交え、最初の具体提案へ向けた準備が本格化します。
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