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私は腎臓を捨てることにした  作者: 雁幸三


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第三話

宇都宮駅で財布からカードを出し、改札を通ってから東北本線のホームへ上がると、菜月は北へ向かう電車の前に立った。階段を下りれば家へ帰れると分かっているのに、北へ行きたい気持ちは消えず、菜月はカードを財布に戻せないまま持っていた。

行きたくない、と思って一度は階段の方を見たが、ドアが開くと、乗り込む人の後ろへ自分も並んでいた。

座席に腰を下ろして鞄を膝へ載せても、どの駅で降りるかは決まらず、菜月はドアの上に出る駅名を見ていた。停まるたびにホームの文字と見比べ、降りる人がドアへ向かうと、その人の顔まで見上げた。

電車が動きだせば座り直し、次の駅名が出るとまた顔を上げるうちに、窓の外には畑の広がる所が増えていた。鞄に入れたスマホを取り出しても、行き先を調べる欄へ何も打てず、菜月は画面を閉じて戻した。

黒磯、とホームの看板に書かれているのを見て、菜月は鞄を持って立ち上がり、降りる人に続いて外へ出た。改札へ向かう途中で線路の先を振り返ったが、そこからさらに北へ行きたい気持ちは消えていた。


駅前の通りには開いた店が並んでいて、菜月は窓に貼られた品物の写真を見ながら歩き、角まで来ると足を止めた。右を見ても左を見ても曲がりたい方はなく、店から出てきた人を避けて、建物の壁へ寄った。

スマホで地図を開くと、駅の近くに自分のいる印が出ていたが、指で動かしても行きたい所は見つからなかった。来た道へ向き直って少し戻り、駅の屋根が見える所でまた立ち止まると、菜月はスマホを鞄へ入れた。

信号が変わると人の流れについて角を曲がりかけたが、渡った先に用があるとも思えず、菜月は歩道の端へ戻った。

駅へ戻ってしまう気にもなれず、さっき通った店の窓の前まで歩くと、また同じ写真が目に入った。


「どっちへ行きたいのか、分からないんじゃない」

菜月が振り返ると、少し離れた所に男が立っていて、店へ入る人のために道を空けながら、こちらを見ていた。知らない人だったので菜月が鞄の持ち手を握り直すと、男はその場に留まって片手を上げた。

「行きたいけど、行きたくない。俺もここへ来ると、ああやって歩くから」

男が出した右手の親指の爪には、根元から先へ、縦に黒い筋が走っているのを菜月ははっきり見た。普通に開いている手だったが、男は自分でもそこを見てから、左手で右の手首を持った。

「移植、受けた? 俺は右手」

菜月が頷くと、男は堤と名乗って駅の方を指し、人のいる所で少し話せないかと言った。


駅前の喫茶店で向かい合って座ると、堤は右手を机の上へ置き、左手でメニューを菜月の方へ押した。飲み物を頼んで店員が離れるまで待ってから、俺は北関東中央病院だった、と声を落として言った。

「私も、あそこです」

菜月が答えると堤は頷き、話すなとか、何かあったら必ず来いとか、そういう紙に署名したかと訊いた。菜月は鞄の中で財布に触れながら、半日で戻れる所にいろとも書かれていたと言うと、堤は机へ載せた右手を見た。

「同じだ。夢も見るんだろ。小さいやつが座ってて、頭だけでかい。変な声で鳴く」

菜月がまだ口を開かないうちに、堤は片方の目が大きくなったことまで言い、顔を背けられないんだよな、と続けた。店員が持ってきたグラスを菜月が受け取ると、外側の水滴が指へ流れ、持つ位置をずらしても手が滑った。

「いつからですか」

「手術の後から。そっちも?」

菜月が頷くと、堤はグラスを持ち上げかけた右手を机へ戻し、左手でスマホを取り出した。工場で人をかばって右手を潰した、と話しながら画面を開き、菜月から読める向きにして置いた。

「同じ人がいないか、ホームページを作って探してる」

画面の上には「同じ病院で移植を受けた方へ」とあり、病院の名前を伏せた文の下に、連絡用の欄が付いていた。菜月がそこまで読むと、堤はスマホを自分の方へ少し引き寄せ、連絡が来たのは一人だけだと言った。

「女の人。やっぱり、ここへ来てしまうんだって」

菜月はグラスを机へ戻し、その人も夢を見るんですかと訊くと、堤は頷いて右の親指を左手で押さえた。

「たぶん同じ所から来てるんだと思う。夢のあれだ」

菜月が自分は腎臓だと言うと、堤は菜月の顔を見たまま、しばらく何も言わずに座っていた。菜月もグラスに手を添えて待ったが、堤はやがてスマホを持ち直し、連絡先を交換しようと言った。

「止めたいんだよ。何か方法がないか、探してる」

菜月のスマホに堤恭平の名前が入り、堤が送った短い文が届くと、菜月も自分の名前を入れて返した。


帰りの電車に座っていると、菜月は鞄を腹の前から膝の先へずらし、空いた所へ掌を当てた。服の上から押さえても手術跡の下が重く、指を添える場所を変えてみても、その重さは動かなかった。

窓の外に来る時と同じ駅名が現れ、宇都宮へ近づくにつれて、菜月は背を座席へ預けているのもつらくなった。前へ屈んで鞄を抱え、布越しに手を置き直すと、掌の下に重さがまとまっている気がした。

夢のあれと、自分の腹の中にあるものは繋がっているのだと、菜月は初めて一つに考えた。スマホに届いている堤の文を開いてみたが、何を訊けばいいのか分からず、画面を点けたまま膝へ置いた。


その夜も足の裏に冷たい床が触れていて、前に座ったあれを見下ろすと、濡れた脳が小さな身体の上で沈んでは戻っていた。菜月は頭の上から順に視線を下ろし、離れた二つの目のうち、右だけが大きいのを確かめた。

右の上瞼は眼球を途中までしか覆えず、下に残った白目が光り、黒目は菜月より少し上の暗がりへ向いていた。横に裂けた口を見てから肩へ目を移しても、後ろに垂れたものの形までは見えなかった。

脇腹に下がる影も同じ所にあり、頭からもう一度見直してみても、増えているものはなかった。堤が話していた小さいやつがここに座っていると思うと、菜月は後ろへ下がろうとして足に力を入れた。

「ゲエーッ」

喉が膨らんで声が出てもあれは近づかず、菜月の足も床を離れないまま、消毒液と生の肉の匂いが上がってきた。


六月下旬の朝、便器の水面に大きな泡が盛り上がり、菜月が便座から腰を浮かせる間にも、底から次の泡が押し上がってきた。丸く膨れた泡が割れると周りの水が波打ち、縁にぶつかって戻った水の下から、また別の泡が浮いてきた。

底の穴が見えなくなるほど細かい泡も湧き、互いにぶつかる音に、喉の奥で水を転がす音が混じっていた。菜月は一歩下がって見たが、水面の上に湯気はなく、鼻へ来る匂いには尿と洗剤が混じっていた。

スマホを構えている間にも泡は割れ続け、白い縁へ水が跳ねる所まで画面に入れて、菜月は写真を撮った。開いた写真の水面は平らで、今、目の前で盛り上がっている泡が一つも写っていなかった。

菜月は写真を指で広げ、白い縁が写っている所まで見たが、水が跳ねていた所にも滴がなかった。スマホを少し下げると便器の中では同じ場所で泡が割れ、縁に跳ねた水が何本もの筋になって落ちた。

菜月はスマホを持って母を呼び、便器の前へ来た母に写真も見せると、その日のうちに北関東中央病院へ連れていかれた。採尿と採血を済ませ、エコーを受けてから診察室へ入ると、久保医師は机の上の紙を見ていた。

「前と同じですね。すべての数値が問題がないと言っています」


菜月は写真を閉じずに膝の上へ置き、もう帰っていいのかと母が訊いている間も、腹へ鞄を押し当てていた。同じ病院で受け取った堤の右手と、自分の腹の中にあるもののことを、机の向こうにいるこの人に訊きたかった。

署名した紙の一行目を思い出し、菜月は母へ一度目を向けてから、もう一度久保医師の方を見た。

「ドナーは誰なんですか」

母が菜月へ顔を向けると、久保医師は手元の紙を重ねてから、机の上で両手を組んだ。菜月は鞄に当てていた手を離し、椅子の背から身体を起こして、医師の返事を待った。

「ドナー情報を公開することはできません。ドナーの情報を探らないようにとの署名もされていましたよね」

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