第四話
七月上旬、ホームページに連絡をくれた人と会わないかと堤から連絡が来て、菜月は宇都宮市内のアパートへ向かった。送られてきた住所を母にも送ってから部屋の前へ行くと、チャイムを押し終わる前に中で足音がした。
堤に案内された部屋には低い机があり、菜月は鞄を脇へ下ろして、窓の近くに敷かれた座布団に座った。堤が冷房を強くしている間に玄関のチャイムが鳴り、菜月は鞄を引き寄せてもう一人分の場所を空けた。
入ってきた女は長袖の上着を着て、首に薄い色のスカーフを巻いていて、靴を脱ぐために屈んでも襟元は見えなかった。外を少し歩いただけで半袖の内側が汗ばんでいた菜月は、女の手首まで覆った袖口を見た。
堤が野沢美咲さんと紹介すると、野沢は口元を緩めて、こんにちは、と言い、机を挟んで菜月の前へ座った。言葉の終わりに息が擦れる低い声で、堤が出したグラスを受け取る時にも、小さく礼を言った。
野沢がグラスを机へ戻すと、手の甲の指に近い所は白く、手首へ寄った所では少し茶色くなっていた。二つの色の間には細い段差があり、野沢が反対の手の爪を当てると、その先が段の縁に引っ掛かった。
「境目、分かるでしょう。白い方が、移植した皮膚」
爪の先で白い方を指した後、野沢は色の変わる所を短く掻き、指を離さないまま何度も同じ場所へ戻した。掻いた所だけが赤くなって、茶色い方へはみ出した細い筋を、菜月はグラスの向こうから見ていた。
「火傷したの。夫だった人にやられて」
野沢は手の甲を見たまま言い、菜月が何も答えずにいると、今度は顔を上げて、あなたはどこなのと訊いた。
「腎臓です」
菜月が答えると、野沢の視線が腹の方へ下りたので、菜月は膝へ置いた鞄を少し持ち上げた。
「中だから、見えなくていいね」
野沢がまた手の甲を掻くと、赤い筋が重なる所で爪が止まり、押し込んだ分だけその周りが白くなった。堤は机の端に手を置いて二人の方を見ていたが、菜月が顔を向けても何も言わず、グラスを持ち直した。
「あの夢は、毎晩見るの。声が出る所まで、見てしまうでしょう」
菜月が頷くと、野沢はグラスへ手を伸ばして身体を前へ倒し、その時にスカーフの端が机へ落ちた。菜月は、野沢の左の顎から首へ走る境目の線を、布の上にはっきり見た。
線の内側は白く、外側には薄い黄味があり、顎の下で少し引きつれた所でも二つの色は分かれていた。野沢はグラスを持ち上げる前にスカーフを首へ戻し、襟元へ指を差し入れて布の端を収めた。
帰宅して風呂に入る前、菜月は浴室の鏡に向き直り、自分の手術跡を初めて正面から見た。下腹に残った線は端の方が薄く、途中には少し盛り上がっている所があり、指で撫でるとそこだけ先に触れた。鏡の前で身体の向きを変えると、線の盛り上がった所に細い影ができ、指を離しても影は残っていた。
片手を腹へ添え、もう片方の指で線の下を押さえてみても、指の腹が沈むだけで、中にあるものには触れなかった。野沢さんの手の甲にあったものと同じものが、この下に入っているのだと、菜月は思った。
湯船へ入って背中を預けると、湯が腹の上へ来て、さっきまで見ていた線が水面の下で揺れていた。膝を立てて線を隠しても、その下に何があるかを考えるのは止まらず、菜月は両手を湯の外へ出した。
縁に置いた手に力を入れて身体を起こし、すぐに湯から出ると、菜月は濡れたまま浴室の戸を開けた。
その夜も湿った床の冷たさが足の指の間に残り、菜月は膝より低い所に座ったあれの、横へ張り出した頭を見ていた。脳の濡れた面が暗がりで光り、重みに潰れた顔の右側で、大きな眼球が瞼からはみ出していた。
黒目は今夜も菜月より少し上へ向き、反対の小さな目も、横に裂けた口も、前に見た時と同じ位置にあった。菜月は頭から脇腹まで視線を下ろし、垂れた影が前と同じ数だけあることを、一つずつ確かめた。
肩の後ろを見直しても同じ影が同じ場所にあり、新しく付いたものは見つからなかった。喉が丸く膨れると、水を含んだ空気が押し出される音がして、消毒液と生の肉の匂いが鼻へ入った。
「ゲエーッ」
菜月は息を止めて首を曲げようとしたが、顔は動かず、足の裏も濡れた床から離れないままだった。
翌朝、便器に目を落とすと、水の中には薄い黄色の粒が溜まっていて、菜月は腰を上げた姿勢で止まった。一粒は米粒の半分ほどで、透けた殻の中に黒い筋が折れ曲がり、水面へ出た端だけが白く光っていた。
底の穴を覆うほど数があり、幾つも端で繋がった列が浮き、片側の重みでゆっくり斜めになっていった。沈んだ先から列がほどけ、離れた粒が水の途中に留まると、後ろから来た粒がそれを押して重なった。
水際に寄った粒は陶器に張り付き、薄い殻の中の黒い筋まで見えるので、菜月は目を閉じかけた。尿の匂いに腐りかけた果物の甘い匂いが混じり、口を閉じていても、舌の付け根に甘さが残った。
虫の卵に見えて、菜月はポケットのスマホへ手を伸ばしかけたが、指が布越しに角へ触れた所で止めた。どうせ写真には写らない、と菜月は思い、スマホを取り出さずに、ポケットの外へ手を戻した。
母に外から呼ばれて鍵を開けた後も、菜月は便器の前に立ち、入ってきた母に腕を掴まれた。どうしたのと訊かれて顔を向けたが、便器から目を離すと、卵がどこへ行くか分からなくなった。
「虫の卵が」
母は菜月が指した先を覗き込み、何もないよ、いつもの水よと言ったが、菜月にはまだ粒の列が見えていた。流すボタンに手を伸ばせずにいると、母が菜月の腕を引き、着替えて病院へ行こうと言った。
北関東中央病院で採尿を済ませ、採血とエコーを受けてから診察室に入ると、母は菜月のすぐ横へ椅子を寄せた。久保医師が紙を見ている間に、母は、朝から便器の前で動けなくなって、と話し、菜月の膝へ片手を置いた。
「すべての数値が問題がないと言っています」
母の手が膝から離れ、鞄の口へ入っていったので、菜月も帰る支度をしようと足元の鞄へ手を伸ばした。母が取り出したハンカチを目に押し当てると、畳まれた布の角に濃い染みが広がり、菜月は手を止めた。布をずらした目の下に涙が溜まり、母が瞬きをすると頬へ落ちたので、菜月は重ねた手を膝へ押しつけた。
母は顔を下へ向けたままハンカチを持ち直し、空いている手で鞄を抱えると、鼻から息を吸った。久保医師がティッシュの箱を机の端へ寄せ、心療内科を紹介します、と言っても、母は顔を上げずに頷いていた。返事をしようと口を開いたが、ハンカチを鼻へ当て直すと、久保医師の方へ小さく頭を下げた。
菜月は母の顔へ目を向けたまま膝を揃え、ハンカチの下から頬が現れても、何も言えずに座っていた。
紹介状を持って宇都宮市内の桜通りメンタルクリニックへ行くと、菜月は母と並んで、診察室の椅子に座った。机には紹介状が開かれていて、菜月からは裏の白い面しか見えず、医師はそこへ目を落としてからまた菜月を見た。睡眠のことを訊かれ、寝てもすぐ目が覚めることと、変な夢が続くことだけを話した。母が横から口を開きかけると、菜月は先に返事をし、眠りたいのに眠れないことを、さっきと少し違う言葉でもう一度話した。
腎臓のことは言わない、と菜月は決め、話せばどう聞こえるか分かっているので、夢の形も話さずにおいた。医師が質問を変えるたびに返事をしていたが、腹の中のことに触れないままでも、話は先へ進んだ。
母が横で頷くのを見ながら、菜月は眠れなくなった時期を答え、医師が紙へ何かを書き込むのを待った。
「移植後のストレス反応ですね。眠るための薬を出します」
薬の袋を差し出されると、菜月は両手で受け取り、袋の口を指で押さえたまま、医師が母へ向き直るのを見ていた。母が礼を言って立ち上がると、菜月はその袋を鞄の内側へしまい、椅子から身体を起こした。




