第二話
菜月は食器棚から出したコップを流しの縁に置き、水が半分まで入った所で蛇口を閉めかけてから、もう少しだけ開いた。四月の朝の水は冷たく、口を離さずに飲んでいると、喉を下りて胸の中まで冷えていった。
空になったコップをもう一度蛇口の下へ差し入れると、朝食を並べていた母が手を止めたので、菜月は水を止めて振り返った。母は飲んでいいのよと言い、菜月が頷いて二杯目を口へ運ぶ間も、流しの横に立って見ていた。
水筒には、蓋をする時に溢れない所まで水を入れ、菜月はそのまま鞄の脇へ収めた。台所を出る前にコップの残りを飲んだが、飲んだ分をどこかへ書くことも、母に量を伝えることもしなかった。
学校では六時間目の終わりまで鞄を机の横に掛けておき、帰りの挨拶で立ち上がる同級生と一緒に椅子を引いた。火曜の午後にも次の授業があって、教室を移る時は、皆が持っていく教科書を菜月も机から出した。
体育の時間には、出席を取る教師の前で列に入り、腰へ当てた手を周りと同じ方へ倒して身体を伸ばした。見学の生徒がベンチへ移っても列に残り、準備運動が終わると、隣の生徒に誘われてコートへ入った。
授業が終わってから水筒の蓋を開けると、朝に入れた水はもう冷たくなかったが、菜月は飲みたい所まで飲んでから閉めた。放課後は昇降口で同級生を待ち、そのまま二人で学校の外へ出た。
四月の終わりの夜には、足の裏の冷たさで濡れた床に立っていることが分かり、菜月は前に座っている小さな身体を見ていた。座った高さは菜月の膝にも届かないのに、その上の頭は横へ張り出して、肩の上まで覆っていた。
頭の上には髪も、それを包む頭蓋もなく、剥き出しの脳の溝に沿って血管が走っているのが見えた。濡れた表面に光が当たり、脈が打つたびに全体が少し沈んで戻るので、菜月は目を離せなかった。
左右に離れた目の下には横に裂けた口があり、閉じた口の両端が顔の脇へ届いているのを見て、カエルだ、と菜月は思った。あれの喉が膨らみ、腹が内側へ凹むと、空気に水が混じった音が前から聞こえた。
「ゲエーッ」
肩の後ろにも脇腹にも何かが付いていて、身体から垂れた影が床へ近づいていたが、暗くて形までは見えなかった。足を引こうとしても動かず、顔を背けようとしても首が回らないまま、消毒液と生の肉の匂いが鼻の奥に残った。
目が覚めると、菜月はベッドの上で北側の壁を見ていて、壁紙の継ぎ目に沿って目を上へ動かした。布団の下で腹に掌を当てると、手術跡の下には熱があり、手を離してからも指の付け根に温かさが残っていた。
それからは毎晩あれの前に立ち、朝になって自分の部屋の壁を見ると、菜月は身体を起こして台所へ行った。コップに水を注ぎ、朝食を食べて学校へ行けば、午後にも授業があり、帰ってから使える時間があった。
透析よりはましだ、と菜月は思った。帰宅して鞄を下ろした後、母が洗濯物を畳んでいる横に座り、変な夢がずっと続いていると言うと、母は菜月のシャツを膝の上で広げた。
「学校も始まったし、疲れてるんじゃない」
母が畳んだシャツを受け取ると、菜月は自分の部屋へ持っていき、翌朝着る分を一番上に載せた。
五月の朝、便座から立ち上がって振り返ると、便器の水がショッキングピンクになっていて、菜月は下ろしかけた蓋から手を引いた。水の溜まっている所が底まで濃く染まり、白い陶器との境目に沿って、薄い桃色の帯が広がっていた。
天井の灯りが水面で白く切れている所だけ色が抜け、そのすぐ下では、底の穴まで同じピンクに沈んで見えた。縁に近い浅い所も透けてはおらず、菜月が膝を曲げて覗き込むと、鼻には朝の尿の匂いが上がってきた。
目を上げて便座の白さを確かめてからもう一度見下ろしても、水面いっぱいの色は変わらず、菜月は流すボタンへ指を伸ばせなかった。壁に掛かったタオルの下まで下がってスマホを取り出し、便器を画面に入れて写真を撮った。
撮った写真には、いつもの薄い黄色の水が写っていた。菜月は写真を指で広げて底の穴まで見てから、スマホの横から便器を覗き、まだピンクのままなのを確かめた。
「お母さん、来て」
呼んでから便器の前を空け、菜月は母に何があったか話しながら、スマホを持った手を差し出した。母は写真を見て、便器を見てから菜月の顔へ目を戻し、病院へ行こうと言った。
菜月は着替えた服のポケットへスマホを入れ、母が車の鍵を取りに行く間にも、もう一度写真を開いた。明るさを変えてみても水の色は薄いままで、画面の端には菜月の靴下の先が小さく写っていた。
北関東中央病院では採尿を済ませ、採血を受けてから、呼ばれるのを待ってエコーも受けた。診察室へ戻って久保医師の前に座ると、母は椅子を菜月へ寄せ、二人の間に鞄を抱えていた。
菜月が差し出した写真を久保医師が見る間にも、母は朝のことを話し、菜月も便器の水が全部ピンクだったと言い添えた。医師はスマホを返して机の上へ向き直り、手元に並べた紙へ目を落とした。
「すべての数値が問題がないと言っています」
母は息を吐きながら背を椅子へ戻し、鞄を膝へ下ろして、菜月の方へ顔を向けた。菜月は受け取ったスマホを両手で持ち、薄い色の水が写った画面を、暗くなるまで見ていた。
写真に写っているのは、朝、自分が見た便器なのに、あの色がどこにもないのを、菜月はどう考えればいいか分からなかった。母と診察室を出る時にはスマホをポケットへ戻したが、手を離してからも中へ指を入れたまま歩いていた。
その週の夜にも同じ冷たい床に立ち、前に座ったあれを見下ろすと、頭の上の濡れた脳も、肩の後ろに下がった影も同じ場所にあった。あれの右目だけが、前の夜と違っていた。
右の眼窩から大人の大きさの目がはみ出し、上瞼が下がっても途中までしか覆えないので、下に残った白目が濡れて光っていた。左の目を見てから右へ視線を戻すと、顔の片側だけが丸く張り出しているのが分かった。
小さな顔の中で黒目は少し上を向き、菜月の立っている所を通り越した先の、何もない暗がりを見ていた。菜月が目で追っても、その向こうには何も見えず、右の目は同じ方へ向いたまま動かなかった。
口の裂け方も、脳が沈んで戻る間隔も、前の夜に見たままで、喉が膨らむと濡れた空気の音がした。
「ゲエーッ」
足の裏を床から離せず、首も回らないまま、菜月はあれの顔に収まらない目を見続けていた。生の肉の匂いが鼻に溜まり、息を口から吐いてみても、顔を動かしてそこから離れることはできなかった。
目を開けると北側の壁があり、菜月はその上を見てから、壁の向こうへ顔を向けたまま起き上がった。壁紙を見たいのではないのに、そちらを向いていないと落ち着かず、窓から外へ目を移しても行きたい方は同じだった。
シャツの上から手術跡へ掌を当てると、内側で押して戻るものがあり、菜月は指を広げてそこを押さえた。掌に伝わった動きが一度引いてからまた戻り、手を置いたまま待っている間にも、同じ所で脈が打っていた。
五月の終わりの土曜には、菜月は駅へ向かう道を歩いていて、交差点で止まった時に、自分が制服を着ていないことに目を落とした。シャツにジーンズで、鞄も学校へ持っていくものとは違い、中には財布とスマホが入っていた。
駅はこの先にあったが、どこへ行くつもりなのかを考えても、菜月には地名が一つも出てこなかった。信号が変わってもその場に残り、渡っていく人を見送りながら鞄の持ち手を握り直した。
北へ行きたいのは分かっていて、菜月は家へ戻る方の道を一度見てから、交差点の向こうへ足を踏み出した。




