第一話
菜月は左の袖を肘より上までまくり、肘掛けに腕を載せて、看護師が針を入れる間は反対側の壁を見ていた。火曜の午後で、向かいの椅子に座った人のテレビから、料理を作る番組の音が聞こえていた。
針を留めるテープが貼られると、右手だけで鞄を引き寄せ、スマホを膝の上に置いて時刻を見た。これから四時間、左腕をここに置いていなければならず、鞄から出した本も右側の肘掛けに載せておいた。
宇都宮の透析クリニックには、窓際に同じ椅子が並んでいて、菜月の座った所からは駐車場の一部が見えた。ページをめくるたびに本の背が閉じかけるので、右の親指で押さえながら読んでいたが、何行か戻った所でスマホに持ち替えた。
同級生から今から来られるかとメッセージが届き、菜月は画面の上の時刻を見てから、今日は透析、と右の親指で打ち込んだ。返事が来るまで入力欄を開けて待ち、また今度ね、と表示されると、スマホを膝へ戻して本の続きのページを開いた。
鞄の脇には小さな水筒が入っていて、喉が渇くと蓋を開け、一口だけ飲んでから膝の上で閉めた。傾けると中で水が動く音がしたが、もう一口飲むのはやめて、看護師が通る側から離して鞄へ戻した。
窓に天井の灯りが映る頃には本も鞄にしまっていて、菜月はスマホを持つ手を腹の上に休めたまま、終わるまでの時刻を何度か見ていた。左腕のテープが外され、上着に袖を通して待合室へ出ると、迎えに来た母の久美が椅子から立ち上がった。
車に乗ってシートベルトを引いていると、母が北関東中央病院で移植の話を聞けると言ったので、菜月は金具を差し込んでから顔を上げた。
「すぐにできるって」
母は口元を緩めたまま前へ向き直り、運転席の足元に置いていた鞄を、菜月の足の横へ寄せた。いつの話になるのか分からず、菜月は鞄からはみ出した白い封筒を見ていた。
久保医師の診察室には父の誠も一緒に入り、菜月が机に近い椅子に座ると、両親はその後ろへ並んだ。母の鞄から出された書類を久保医師が手元に寄せ、何枚かめくってから菜月の名前を確かめた。
「相原菜月さんですね。色々な条件を飲めば、すぐにでも腎臓の移植が格安でできます」
菜月は医師の手元に目を落としていたが、すぐに、と言われて顔を上げ、椅子の背から身体を離した。久保医師が一枚の紙を机の上でこちらへ向けると、母の椅子も後ろで小さく音を立てた。
紙は菜月の前に置かれ、下の方にはまだ何も書かれていない欄が幾つか並んでいた。上から読んでいくと、四つに分けられた文の途中で、菜月の目は一度止まった。
特別移植同意書
一、ドナーに関する情報の照会を行わない。
二、本手術について第三者に話さない。
三、術後に異常が生じた場合は、必ず当院を受診する。
四、当院から半日以内に戻れる範囲を離れない。
菜月は二つ目の行に指を置き、そこから下へ読んで、最後の行を読み終えても紙から手を離さなかった。久保医師はペンの先で空欄を示し、同意していただければ進められます、と言った。
母が身を乗り出して紙を覗き込み、菜月の指の先まで読んでから、父の方へ顔を向けた。父は膝に置いていた鞄を足元に下ろし、医師が差し出したペンを受け取ろうとして、菜月を見た。
「どうする、菜月」
安すぎる、速すぎる、と菜月は思った。訳ありなのは分かったが、次の火曜も同じ椅子に座って四時間が過ぎるのを待つことを考えると、紙を医師へ返す気にはならなかった。
週に三回、学校を早退してクリニックへ向かうために、授業が終わる前から鞄を閉じておくのも、飲んだ水の量を気にして水筒を戻すのも、もうやめたかった。菜月は紙の上から手を引き、後ろの父へ向かって頷いた。
父が机の端で署名し、母もペンを受け取って自分の名前を書くと、空いていた欄の一つに相原久美の字が並んだ。母は書き終えた所を指で押さえながら、菜月の方へ紙を戻してきた。
菜月は患者の氏名欄へ相原菜月と書き、年齢の欄に十六と記入してから、ペンを紙の横に置いた。母は紙を引き取る医師へありがとうございますと言い、隣の父も笑って頭を下げていた。
久保医師が別の紙を出して日程を話し始めると、母は手帳を開いて、仕事を休む日に丸を付けた。菜月もスマホの予定を開き、透析と入っている日の上へ指を載せたまま、医師の言う日付を聞いていた。
手術台で仰向けになり、点滴の管から麻酔が入ると聞いているうちに、天井の照明を見上げたまま瞼が下りて、肩の下に敷かれたものの感触も分からなくなった。
病室のベッドで目を開けると、カーテンの上に白い天井が見え、手元の布団には右手の指が出ていた。看護師に声をかけられて頷いた後、枕に頭を戻すと、次に来た眠りでは暗い所に立っていた。
足の裏に触れている床が濡れているのは分かったが、暗くて、どこまで続いているのかは見えなかった。前には小さい何かが座っていて、身体から大きくはみ出した頭の輪郭と、その横に付いた幾つかの影が重なっていた。何が付いているのか確かめようとしても、同じ場所に立ったまま影の縁を見分けられなかった。
「ゲエーッ」
鳴き声は前から一度だけ聞こえ、濡れた床の上にじっと立っている間にも、水の冷たさが足の指の間に残っていた。
目を開けると病室のカーテンが見え、菜月は布団の下へ右手を入れて、包帯の上から掌を当てた。手術跡の下が温かく、押し当てている掌に伝わる熱が、包帯より中にあるのは分かった。
四月上旬の退院の日には、入院の時に着てきた上着を羽織り、母が荷物をまとめるのをベッドの端で待っていた。受け取った紙を母が鞄にしまう間に、水をどれだけ飲んだか書き留めることも、透析に来る日の予定も要らなくなったと、菜月は確かめた。
病室を出ると母は荷物の入った袋を左手へ持ち替え、空いた方の手を菜月の肘に添えた。菜月が一人で歩けると言うと、母はその手を離して、玄関の外へ車を取りに行った。
助手席へ腰を下ろしてから鞄を足元に置き、病院を出る車の振動を背中に受けているうちに、菜月は母へ顔を向けた。
「変な夢を見た」
「せん妄じゃない?」




