ヤスリの音
それからも何度か鉄を叩き、先ほどまで鉄の塊だったものは薄い鉄板へ姿を変えていた。
「すごく薄くて綺麗ですね」
私が鉄板を眺めていると、少年がそんなことを口にする。
「厚すぎると熱が伝わるのに時間がかかるし、薄すぎると割れちゃうから加減が難しいけどね。これはさすがに感覚へ頼ってる部分が大きいから、実際にやれるようになってから少しずつ覚えていこうね」
そう言いながらまた鉄板を炉で熱し、今度は金床のホーンへあてがい、槌で叩きながら縁を立ち上がらせる。何度かその作業を繰り返し、やがて鉄の塊だったものは完全にフライパンの形になっていた。そこからいつものように金床の角でフライパンの縁の凸凹を槌で叩き落としていたが、これも二人なら今後はタガネで楽に落とせるようになるかもしれない。
そんなふうに考えながらフライパンを仕上げ、最後に持ち手へ工房の刻印を打ち込む。粗熱を取るため炉の脇の石台へ乗せると、上着を脱いで腰へ巻く。椅子へ腰掛けるタイミングで、少年が手ぬぐいと空のカップを持ってきて渡してくれる。
「ありがとう」
そう伝え、自分のカップも持ってくるよう言うと、手をかざしてカップの中を水で満たす。
「僕はまだそんなに喉乾いてないですよ?」
「鍛冶屋にとって水分補給も大切な仕事のうちだよ。喉が渇いたと思う前に飲む癖を今のうちから付けておいてね。今度からは遠慮せず、自分のカップも持ってきなさい」
今はまだ炉の前に立つわけではないので、それほど汗もかかないだろうけれど、こればかりは慣れるまで私も気を付けていなければならないだろう。鍛冶屋にとって、こまめな水分補給は下手をすると命に関わるくらい重要だ。
「あのフライパンは完成ですか?」
少年ができあがったばかりの石台の上のフライパンを見つめている。
「まだ叩いて形を作っただけだからね。これからヤスリで綺麗に仕上げて完成だけど、まだ熱いからちょっと休憩かな」
カップの水をちびちび飲みながら汗を拭う。
「それで、弟子として初めて見る鍛冶屋の仕事の感想はどうだった?」
「今までもよく見ていたつもりでしたけど、いつか自分もやるんだと思うと少し不安になりました。ただの鉄の塊があんなに形を変えるなんて、見ていても信じられません。魔法じゃないですよね?」
仕事ぶりを魔法と評価され、思わず吹き出してしまう。
「心配しなくても、魔法でやってるのは炉の温度を上げる部分だけだよ。これはれっきとした鍛冶屋の技術。少しずつ練習すれば誰でも……とは言わないけれど、ある程度器用な人なら必ずできるようになるものだと私は思っているよ」
まだ少しだけ不安そうな少年の頭を優しく撫でる。
「心配しなくても大丈夫。君は私の仕事をちゃんと見て考えられる賢い子だし、作業も丁寧だから。そう遠くない未来、きちんと売り物になる商品を作れるようになるよ」
まだ少し不安の残る表情だが、それでも少年は嬉しそうに頷いて私を見つめていた。
しばらく経ってフライパンの粗熱が取れたことを確認すると、ヤスリを取り出し縁のささくれを削り始める。半分ほど削ったところで、少年に少しぶかぶかの革手袋をはめさせてヤスリを手渡した。
「よく見ると縁のところがトゲトゲしてるでしょ?それをこのヤスリで削ってみて。君なら力いっぱいやっても削りすぎることにはならないだろうから、怖がらなくていいからね」
そう言うと、少年は真剣な表情でフライパンの縁へヤスリを当て、動かし始める。
ガリ。
ガリ。
その音とともに鉄粉が作業台へ積もっていく。私も少年の手元を真剣に見つめる。力はまだ弱いが、やはり仕事は丁寧だ。私がそろそろだと思うタイミングで、削る場所を変えるよう声をかけていく。
あらかた削ったところで、少年は私とフライパンを交互に見る。まだ何か納得のいっていない表情だが、もしかしたら時間をかけていることに引け目を感じているのかもしれない。
「納得いくまでやってていいよ。今日は他に仕事もないからね」
どうやら懸念は当たっていたようで、少年は嬉しそうに顔をほころばせると、また真剣な表情で丁寧にヤスリがけを始める。この分なら仕上げに確認するだけで十分だろう。
私は立ち上がって窓の外を見る。少し陽が傾き、夕暮れ時が近づいていた。炉の前へ移動し、炭へ灰をかぶせて火を落とす。道具と材料を片付けていると、背後から声がかかった。
「親方、見てもらっていいですか」
振り返ると、少年が少し緊張した顔でこちらを見ていた。
「どれどれ」
少年からフライパンを受け取ると、縁を指でなぞる。普段から几帳面で丁寧な子だとは思っていたが、想像以上に器用な子だったようだ。時間こそかかっているものの、縁に引っ掛かりはまったく見られない。
「いいね。このまま納品できるくらい綺麗に仕上がってる」
できあがったフライパンを目線まで上げて細かく見回し、何度か頷いていると、少年から鼻をすする音が聞こえ始める。
ふと目を向けると、少年の瞳からは大粒の涙が溢れていた。
ヤスリがけ中にどこか怪我でもさせてしまったのだろうか。慌てて少年の手から手袋を抜き取り確認するが、怪我はしていないようだ。その間にも少年の顔はみるみる歪み、嗚咽をこらえ始める。
いつもニコニコ笑っていたし、うっかり怪我をした時も泣いたことなど一度もなかった。そんな少年の涙に、私は完全に動揺していた。泣いている子供の相手など、ほとんどしたこともない。
どうすればいいのか分からず、首に掛けた手ぬぐいで涙を拭ってやるが、次から次へと涙は溢れてくるようだ。床へ膝をつき視線を合わせようとするが、少年の視線は足元へ向いていて目は合わない。そっと抱き寄せ、背中を優しく叩いてみる。
以前、街中で泣いていた子供を親がなだめていたのを見よう見まねで真似しただけではあるが、他に方法も思いつかなかった。
抱きしめたところで、自分が煤だらけだったことに気付いて離れようとしたが、いつの間にか少年は私の服を掴んでいたようで、離すのも気が引けてしまう。結局、少年が落ち着くまで何度も背中を優しく叩くことしかできなかった。
しばらくすると落ち着いたのか、少年の嗚咽は収まり、腕の中で力が抜けていくのを感じる。そっと離れると、少年は目を真っ赤に腫らし、申し訳なさそうな表情をしていた。
「もう大丈夫?怪我をしたわけではないよね?」
そう尋ねると、少年は小さく頷き、床を見たままで話し始めた。
「本当は怖かったんです。親方と一緒に仕事がしたくて弟子にしてくださいって頼みました。街の人たちもシスターも、僕のために色んな話を聞かせてくれました。だからいっぱい頑張ろうって」
少年はゆっくりと心境を語ってくれる。私は黙ってそれに耳を傾けた。
「今日初めて弟子として親方の仕事を見ていました。今までなんとなく見ていて楽しそうだなって、そんな風にしか思ってなかったのに。自分にこれができるかなって思ったら急に怖くなって。もしかしたら迷惑になるんじゃないかって」
少年の瞳にはまた涙が浮かび始める。私は黙ってそれをそっと拭う。
「でも最後のヤスリがけで初めて仕事をさせてもらって。親方よりずいぶん時間がかかっちゃって。それなのに親方は待っててくれて。それで……『いいね』って褒めてもらえて。すごく嬉しくて」
少年がゆっくり顔を上げて私を見る。目元は腫れたままだが、少しだけ誇らしげな表情だ。
「泣いてしまってごめんなさい。怪我もしてません。悲しかったわけでもないんです」
「そっか」
少年の頭を優しく撫でる。私の中ではまだ手伝いの延長線のつもりだった。だが彼の中では、もうしっかり仕事として向き合っていたらしい。責任感の強い子だ。
孤児院の子供というのはみんなこんなものなのだろうか。いや、きっとこれがこの子の本質なのだろう。この幼いながらに責任感の強い少年を、私が導いていかなければならない。だがその役割は不思議と重たくはなく、どこか心地よくも感じていた。
少年が完全に落ち着いたところで立ち上がると、できあがったフライパンをもう一度手に取る。
「これは工房に大切に保管しておこうか」
「売り物にするんじゃなかったんですか?」
さっきの言葉を思い出したのか、少年が首を傾げる。
「これは私と君が初めて一緒に作ったものだからね。いくら積まれたって売ってやれないかな」
少年は少し恥ずかしそうに微笑んでいる。まさか、ただの鉄のフライパンが宝物に見える日が来るなんて、昔の私が聞いたら、呆れてため息でもつくだろうか。
そんなふうに思いながら、私はそのフライパンをそっと撫でていた。




