兵士の訓練
朝、驚くほどすっきりと目が覚める。外ではまだ鳥のさえずりも聞こえない。ゆっくりとベッドを離れて窓を開けると、空はうっすらと白み始めている。夜中に目が覚めたわけではなさそうだ。
今日は少年も休みだし、特に予定もなかったので二度寝でもしようかと思ったが、すっかり頭も冴えてしまっている。
「せっかく涼しい時間に目が覚めたし、散歩でもしようかな」
部屋を出て、いつもの作業服に着替える。鍛冶をする予定はないが、他の服を探すのも面倒なのでこれでいいだろう。探したところで長く着ていないので、今でも着られる状態かは少し疑問だ。今度、薬屋かシスターでも誘って、普段着る服を探すのもいいかもしれないな。
家を出ると外はまだ薄暗く、空気は澄んでいて心地いい。遠くでは既に農家が作業しているのが見える。これだけ涼しければ、夏場に朝早くから起き出すのにも頷ける。
目的もなく、なんとなく街へ足を向け歩き出す。日差しのない空の下を歩くのは久しぶりかもしれない。
街中に入ると、まだ人もほとんど歩いていない。少し歩いていると、商人らしき荷馬車とすれ違った。朝早くに街を発って、他の街に行くのだろうか。
思えば、この街に来てこんなに早い時間に出かけるのは初めてかもしれない。そんなことを考えていると、ふと甘い香りが漂ってくる。パンの焼ける匂いだ。
匂いのする方へ歩いていくと、商店街の中に既に店を開けているパン屋を見つける。パン屋はだいたいお昼時に合わせて作業を始めるので、けっこう珍しい。行きつけの店ではないが気になったし、他に開いている店もなさそうなので、朝食にパンを買って食べ歩くのも楽しそうだ。
「いらっしゃいませ。あら、エルフさん!こんな朝早くに珍しいですね」
「おはよう。私のこと知ってるの?」
「エルフさんは有名人ですから。朝ごはんですか?」
店番に立っていたのは、シスターや薬屋と同じくらいの年頃の女の子だった。短く切り揃えられた黒っぽい髪に、愛想の良い笑顔は、まさにパン屋の娘といった風貌だ。
それにしても私は有名人だったのか。まぁ、この街にエルフは私しかいないから不思議でもないが、初対面の女の子に好意的な笑顔を向けられるのは、なんだか少し照れくさい。
「歩きながら食べたいから、小ぶりな白パンを一つもらえる?」
「焼き立てだから、柔らかくて美味しいですよ」
差し出された白パンを受け取り、代金を渡す。本当に焼き立てなようで、まだほんのり温かく、手で持ってわかるほどふかふかとしている。焼き立てのパンを朝から頂けるのは、とても贅沢だ。
「それにしても、ずいぶん早くからお店を開けてるんだね。そんなにお客さんが来るの?」
「父が元兵士なんですよ。兵士時代に、朝から美味しいパンが食べられたらって思ってお店を始めたらしくて、仕事始めの兵士さんや冒険者の方がよく来てくれます。さっきは朝早くにこの街を発つ商人さんもいらっしゃいましたよ」
「素敵な考え方だね。そういえば、今朝はまだ兵士をあまり見ないね」
「今頃、朝の訓練じゃないですかね。もうしばらくすると増えてくると思います」
私の知らない朝の街の話を色々聞き、また必ず買い物に来ると約束をして店を後にする。
歩きながらパンを割ると、ふわりと優しい香りが鼻をくすぐる。焼き立てというのを差し引いても、優しい味わいの美味しいパンだ。この味のために、朝早くから頑張って働こうと思える兵士がいるのも頷ける。
もっとも、あのパン屋の娘の元気な笑顔も込みで人気なのだろうが、そのあたりを兵士に指摘するのは申し訳ないかなと思いつつ、ちぎったパンを口に放り込みながら人けの少ない街の広場を歩いていた。
兵士たちの朝の様子も少し気になり、詰め所へ向けて歩き出す。詰め所は大きな領主館のそばなので、さすがの私も迷わず目的地へ向かえる。
領主館と言っても領主が住んでいるわけではなく、普段は執政官の詰めている行政拠点だ。ここの領主は働き者なので領都に詰めていることは少ないらしく、年に数度この街の領主館にも滞在するそうだが、門に騎士もいないので今はその時期ではないのだろう。
大きな門の前を通り過ぎると、兵士の詰め所の方から金属のぶつかる音や男たちの声が聞こえてくる。
訓練所に着くと、数人の兵士たちが武器を振って訓練の真っ最中だった。人数はそれほどでもないので、全員ではないのだろう。訓練も交代制なのだろうか。それにしても、毎朝こうやって街のために訓練をする姿には頭が下がる。
そんな訓練所の片隅に置かれた長椅子に、見知った男が座っているのが目に入る。ドワーフだ。長椅子の中央にどかりと座り、腕を組んで訓練を見つめている。
こんなところで何をやっているのだろうか。少し気になって近づくと、あちらも気づいたようで、一瞬こちらに視線を向けた。
「おはよ。こんなところで何してるの?」
「お主こそ何しとるんじゃ。なんぞ用事でもあったんか」
「私は早くに目が覚めたから散歩だよ」
そう言うと、ドワーフは長椅子の端にずれて座る場所を空けてくれる。座っていいということだろうか。様子を見るに邪魔ではなさそうなので、隣に腰を下ろす。
「ワシはたまにこうやって訓練の様子を見に来ておる」
「何か理由でもあるの?」
「武器の扱い方を知らんと、いい武器は作れん」
どうやら商品作りの参考に、様子を見に来ているようだ。
私もよく食堂を訪れた際に、料理人の手元や仕事中の動きを目で追うことがある。扱う者たちは自然に使っていても、作り手から見れば改善できる点が見えることも多い。注文される前に改善するのも、鍛冶屋にとっては大切なことだ。
料理人であれば、お昼を食べるついでに見に行くこともできるが、確かに武器となるとそうもいかないだろう。実戦を横で見るのは危険だ。となれば、訓練風景を見学するのは理にかなっている。
「真面目だねぇ」
「仕事じゃからな」
そう答えるドワーフの表情には何の変化もない。本当にただの仕事として考えていて、誇るようなことだとは思っていないのだろう。こういう真っ直ぐな部分は素直に好ましく思う。それからは邪魔をしないよう、私も黙って兵士たちの訓練を見つめていた。
しばらく訓練所を見回していて、少し離れた場所で訓練中の老騎士を見つける。兵士の集団の中にいないので今日は休みかと思っていたが、離れた場所で訓練しているようだ。
訓練と言っても、先ほどからゆったりとした動きで剣を振っているようにしか見えない。
長椅子から立ち上がり、老騎士のそばにある木箱に腰を下ろす。私に気づいたようだが、片手を上げて制すると、挨拶は交わさず訓練を続けた。
いつもの上着は着ておらず、上半身には何も身につけていない。もう年齢は六十を超えていたはずだが、鍛え抜かれた体はしなやかで美しい。
他の兵士たちが力いっぱい槍や剣を振っている中で、老騎士のゆったりとした動きは少し異質に見えた。だがそばで見ると、圧力のような、鋭い気迫のようなものさえ感じる。
本人はもう引退した身とよく言っているが、だからといって鍛錬を怠る理由にはならないのだろう。ドワーフといい老騎士といい、私の周りの男たちは本当に仕事に対して真面目な者が多い。
たまには息抜きでもさせてやれないものだろうか。そんな場違いなことを考えながら、剣先をなんとなく眺めていた。
しばらくすると朝の訓練も終わったようで、兵士長である老騎士から兵士たちに何か指示が言い渡され、それぞれが街の中へ移動していく。
朝の訓練を終え、仕事へ向かう兵士たち。国によっては、巡回しているだけで高い給金がもらえる、なんて揶揄される土地もあるようだが、この街の兵士は勤勉で頼もしい。
「こんな朝早くにエルフ殿がいらっしゃるのは珍しいですな」
先ほどと違って、いつも通りの紳士的な服を着た老騎士が話しかけてくる。つい今しがた汗をかいていた者とは思えない清潔さだ。何もしていない私の方が、よほどだらしなく見えるのではないだろうか。
「ちょっと早くに目が覚めてね。散歩がてら寄らせてもらったんだよ」
「何か面白いものでも見られましたかな?」
「この街は恵まれてるなって感心していたところだよ」
「真面目に働く兵のために剣を打つのは、鍛冶屋としても誇らしいもんじゃ」
いつの間にか隣に来ていたドワーフからも褒められ、老騎士は少し照れくさそうな、誇らしそうな表情をしている。
兵士も職人も、与えられた務めを果たすのは当たり前だ。けれど、その当たり前を褒められるのは案外嬉しいものなのだ。
しばらく話をして、老騎士も仕事に戻ると言うので、ドワーフと一緒に詰め所を後にする。ドワーフは自分の工房に戻るそうだが、私はと言えば相変わらず特に予定もないので、一緒について行くことにした。
「そういえば、あの坊主はどうしとる」
「今日はお休みだよ。まだ住み込みで働くような年齢でもないから、通ってるのは週に五日くらいかな」
「仕事はどうじゃ」
「力はないけど丁寧で助かってるよ。あれはいい職人になるね」
「そうか」
何度か少年とも話をしたので、ドワーフなりに気にかけてくれているようだ。それ以上何かを言うわけでもないので、教え方なんかには口を出すつもりはないらしい。
せっかくこれから彼の工房に向かうことだし、よその弟子がどう育てられているのか見てみるのもいいかもしれない。
ドワーフの工房に着くと既に炉に火が入り、数人の職人たちが仕事を始めていた。ドワーフに許可をもらって工房の片隅の椅子に腰掛け、職人たちの動きを眺める。
あちらでは武器を作っているのだろうか。ベテラン風の男と若い男が槌を振っている。別の場所では若い男たちが馬具や何かの金属部品を作っている。そんな様子をドワーフが見て回り、時折叱りつけ、工房内は緊張感が保たれているように見えた。
私も以前ここを間借りしていたことがあったが、いざ弟子を取ってから眺めると視点が変わるようで面白い。当時は気にもしていなかった若い弟子たちの動きを、つい目で追ってしまう。叱られることも多いようだが、その目には何かを学ぼうという光が灯って見える。
教え方の方針が違うようなので参考にできる点はなさそうだが、どう指導されても弟子というのは皆ああいう目をしているものなのだろう。それを確認できただけでも十分な収穫だ。
少年よりも少し年上のこの工房の弟子たちも、同じ目をしているのを見て少しだけ安心できた。
しばらく見学をしていると、若い弟子たちがこちらに視線を向けて集中を欠いているのが見て取れるようになってきたので、邪魔をしないうちに工房を後にする。見慣れない者が工房内にいると落ち着かないだろう。それで彼らが叱られるのはこちらとしても申し訳ない。
このまま工房に戻るか、薬屋でも冷やかしに行こうか少し考えたが、せっかくなので食堂の立ち並ぶ辺りに足を運ぶ。
ドワーフが兵士の訓練を見学していたのを見て、少し感化されたようだ。せっかくなので私も料理人たちの仕事を見てみたくなった。
店先から食堂の中を窺いつつ道を歩く。ちょうどお昼の仕込み時なようで、色々な店で料理人たちがせわしなく動いている。
あの大鍋は鋳物だと重たくないかな。包丁の背で魚の鱗を取るなら専用の道具があってもいいかも。フライパンにも柄を付けたら便利かな。
そんなことを考えながら、料理人たちの仕事ぶりを眺める。
ふと一軒の食堂の中で、見覚えのある包丁で野菜の皮を剥いている女性を見つける。食堂の奥さんだろうか。包丁の柄の部分には花の刻印がちらりと見えた。
少し足を止めてしまったので、あちらも視線に気がついたようだ。目が合うと、包丁を少し掲げて笑いかけてくれる。どうやら私が作ったものということも伝わっているのだろう。
手を振って笑顔を返すと、また歩き始める。
やはり自分の作ったものを実際に使っている場面を見るのは誇らしい。それも私だと認識されたうえで笑いかけてもらえると、心が温かくなるのを感じる。
今朝のパン屋の娘もそうだったが、いつの間にか私を見る街の人たちの目も、かなり好意的に変わってきているように感じる。ここ最近は、街に来たばかりの頃のような懐疑的な視線もほとんど感じない。
自分もこの街の一部だと認めてもらえたのかな。
そんなことを今更ながら感じつつ、朝の街を歩く。普段は来ない時間に歩くだけで、色々な発見のある日だった。せっかくなので、普段歩かない道を歩くのもいいかもしれない。
そんな風に思いながら、いつもと違う曲がり角を曲がりつつ街を歩く。
ちなみにこの後、迷った末に兵士に道を尋ね、呆れた顔をされるのはほんの数分後のことだった。




