第9話 おかえり、お兄ちゃん
ガチャリ、と重苦しい音を立てて玄関のドアが開いた。
夜の八時。奥多摩の警察署まで徹お兄ちゃんを渋々引き取りに行っていた両親が、ようやく帰ってきたようだ。
リビングのソファに深く腰掛けたまま、私はそっと聞き耳を立てた。しかし、玄関からも廊下からも会話らしい気配は一切ない。ただ、お互いの存在を無視し合うような、冷え切った足音だけが近づいてくる。
両親は徹を連れ戻したものの、車中での気まずさに精神をすり減らしたのだろう。リビングの手前で「私たちはもう寝るわ……」と力のない声を残し、這うように寝室へ消えていった。
代わりに、リビングのドアが静かに押し開けられる。
入ってきたのは、やはりお兄ちゃんだった。
一週間ぶりの家出帰還だというのに、悲壮感など微塵もない。少し日焼けした顔に、いつもの飄々としたポーカーフェイス。お兄ちゃんはソファーに座る私を見ると、小さく「ただいま」とだけ言って、めんどくさそうにリュックを床に放り出した。
私は何も言わずに立ち上がり、あらかじめ用意しておいたよく冷えたアイスコーヒーのグラスを、トンと彼の前に置いた。
「座りなさいよ」
お兄ちゃんは怪訝そうに眉をひそめ、グラスと私の顔を交互に見つめた。それから渋々ソファーに腰を下ろす。
当然だろう。家出する前の一週間、私はプールの一件を根に持って彼を徹底的に無視していたのだ。それが急にしおらしく出迎え、飲み物まで差し出されたのだから、警戒するのも無理はない。
「毒なんて入ってないわよ」
私はフンと鼻を鳴らした。お兄ちゃんはカップを手に取り、一口すすった。
「……おいしい」
私は微笑んだ。
ただ笑うだけじゃない。私は今、一世一代の「悲劇のヒロイン」を演じている。脳内でこれまでのブラコンの歴史を総動員し、じわじわと目頭を熱くさせていく。
私は兄に、頬を伝う涙を見せた。
「ごめんね、お兄ちゃん」
「え、何のこと?」
徹があからさまにうろたえて立ち上がった。省エネ主義のお兄ちゃんは、昔から女の涙――特に妹の涙にめっぽう弱い。
「私がもっと優しくしていたら、お兄ちゃん、家出しなかったでしょ?」
わざとらしく声を震わせ、俯いて涙を拭う。
(よし、お兄ちゃん完全にオロオロしてる! 掴みはバッチリよ!)
「エリちゃんは関係ないよ」
慌てて慰めようとするお兄ちゃんの優しさが、今の私にはたまらなく愛おしい。
「私ってお兄ちゃんの妹だよね?」
「そうだよ、何で?」
「もし妹でなかったら、私って何?」
上目遣いに、涙の溜まった瞳でじっと見つめる。
従兄妹と知った今だからこそ、この問いには私の全人生を賭けた「あざとさ」が詰まっていた。お兄ちゃんの顔が、見たこともないほど真っ赤に染まっていく。
(さあ、どう答えるの、お兄ちゃん!? 妹じゃなかったら、私を女として見てくれる……!?)
胸の鼓動が激しく高鳴り、最高のムードがリビングを満たした、まさにその瞬間
――ピンポーン!!
空気をぶち壊すような激しいインターホンが鳴り響いた。
「え……?」
私が呆然とする間もなく、鍵の開いていたドアを猛烈な勢いで押し開けて、誰かが乱入してきた。夜用の上品なラベンダー色のワンピースに着替えた、お隣の佳乃だ。
(ちょっと待ちなさいよ! ファミレスで協定を結んだばかりなのに、今夜いきなり突撃してくるなんて聞いてないわよ!?)
私は内心で激怒しながらも、すぐさま「何も知らない無垢な妹」の仮面を貼り直した。
「佳乃……? 何しに来たの?」
涙の残る目で、私はわざとらしく驚いてみせた。
「あら、ごめんあそばせ。徹兄さんが警察から無事に帰ってきたって、お隣まで声が聞こえたものですから」
佳乃は私の涙を一瞥し、すべてを見抜いたような意地の悪い笑みを浮かべた。
「エリー、あなた何を泣いているの? 徹兄さんが困ってるわよ。――徹兄さん、そんな泣き虫な妹は放っておいて、私とお話ししましょう」
ここに、お兄ちゃんを巡る第二ラウンドのゴングが、容赦なく鳴り響いたのだった。
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