第10話 推定Dカップの脅威
「ちょっと佳乃、今何時だと思ってるのよ! 人の家に勝手に上がり込んで、好き勝手言わないで!」
私はソファーから勢いよく立ち上がり、不法侵入してきた泥棒狐をキッと睨みつけた。ついさっきまで徹お兄ちゃんを落とすために見せていたあざとい涙など、怒りのあまり一瞬で蒸発している。
「あら、玄関の鍵が開いていたから入っただけよ。それより徹兄さん、奥多摩からの強制送還、本当にお疲れ様」
佳乃は私の怒声を器用にスルーすると、ラベンダー色のシフォンスカートを優雅に揺らして、当然のような顔で徹の左隣に腰を下ろした。
私の独占していた「お兄ちゃん右腕ハグ空間」に対抗するように左側を陣取った彼女は、ハンドバッグから一冊のノートを取り出し、大理石のコーヒーテーブルの上にコトリと置いた。
それは、あのおじい様が家出後のお兄ちゃんの部屋から見つけ出し、一族を巻き込む大激怒へと発展させた、不吉な黒い革表紙の『日記帳』だった。
「……それ、ぼくの日記じゃないか!」
お兄ちゃんが今日初めて、鉄壁のポーカーフェイスを崩して声を上げた。
「おじい様がお兄ちゃんの部屋を家捜しして見つけたの。それを読んで激怒して、お兄ちゃんを探し始めたのよ」
私は事情を説明した。
「その後、おじい様が怒りのあまり本家のリビングに放り出していかれたのを、うちのパパがこっそり回収してきたの。おじい様を宥めるには、まず敵を知る必要があるでしょう?」
佳乃は妖しく微笑みながら、白い指先で日記のページをパラパラとめくった。
(何が「パパが回収してきた」よ。絶対にあんたが裏で手を回して手に入れたんでしょうが)
「やめろよ佳乃、人の日記を勝手に見るな!」
珍しく焦った様子のお兄ちゃんが慌ててノートに手を伸ばすが、佳乃はそれをひらりと躱し、あるページを朗読し始めた。その声は、アナウンサーのように美しくリビングに響く。
「『八月二日。今日もエリーは口をきいてくれない。プールに遊びに行く約束をまだ果たしていないせいだろうか? 部活の合宿の準備で、山下さんと買い出しの打ち合わせをした。彼女はエリーと違って物静かで優しい。何より胸のサイズが推定Dカップはある。エリーの推定Aカップとは大違いだ』……ですって」
冷房の効いたリビングに、一瞬の、しかし恐ろしく濃密な静寂が落ちた。
(……は? 山下? 物静か? Dカップぅうううう!?)
私の脳内で、何かが物理的にブチ切れる大きな音がした。
プールをドタキャンされたから私が怒ったのは正当な権利だし、一週間無視したのだって構ってほしい裏返しに決まってるじゃない! それなのに、この省エネ引きこもり秀才兄貴は、裏でどこの馬の骨とも知れない山下とかいう女の胸のサイズを網膜に焼き付け、ご丁寧に日記にまで記録していたというの!?
しかも、私のことを「推定Aカップ」だと……!?(※実際はBはある。断固としてBはある。サバを読んでCと言い張ってもいいくらいだ!)
「お兄ちゃん……これ、どういうことよぉおおお!?」
私は大理石のコーヒーテーブルを両手でバンッ!!!と叩き、般若のような顔でお兄ちゃんにゼロ距離まで詰め寄った。
我が家の経済的崩壊というシリアスな危機など完全に吹き飛び、私の乙女心は、山下某のDカップという最悪の敵によって、完全に大炎上を始めたのだった。
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