第13話 家族の崩壊が始まる
佳乃がフイと顔を背けたことで、リビングを支配していた二重婚約の喧騒が、嘘のように一瞬だけ凪いだ。
冷房の効いた部屋の中で、私は掴んでいたお兄ちゃんの右腕の温もりをぎゅっと感じながら、胸の奥でドクドクと脈打つ焦燥感に突き動かされていた。
そうだ。山下さんのDカップだとか、佳乃との別荘の誓いだとか、そんなキャットファイトに現を抜かしている場合ではない。もっと根深く、もっとドロドロとした現実的な危機が、今まさに私たちの足元をすくい上げようとしているのだから。
警察署からパパたちの車に強制収容されて連れ戻されてきたばかりのお兄ちゃんは、本家のおじい様がどれほど激怒し、一族の勢力図をひっくり返そうとしているか、本当に何も知らないようだった。
「それで、何があったの?」
お兄ちゃんは屈託なく聞いた。
まるで、親たちの車内での不気味な沈黙の理由を、ただの「ちょっとした夫婦喧嘩」くらいにしか思っていないような、信じられないほどのんきな口調だった。
私はゴクリと唾を飲み込み、おじい様が親たちへ下した、最初の決定的な宣告を告げた。
「お兄ちゃんがかわいそうだから、自分たちの本家に引き取るっておじいちゃんが言い出したの」
「ああ、そうなんだ」
お兄ちゃんは意外そうに、けれど深く考えもせず、ただ事実を受け止めるように呟いた。
けれど、私にとっては寝耳に水の大激震よ!
私はすでに自分が実の妹ではなく、血の繋がった『従妹』だという事実を、パパたちから聞き出している。つまり、お兄ちゃんは単なる最愛の兄ではなく、将来的に合法的に結婚できる唯一の存在なの。それなのに、この家から出ておじい様の本家へ移るだなんて……。そんなことになったら、私の『お兄ちゃんを確実に手に入れる計画』も、実家の存続も、すべて水の泡になってしまうじゃない!
「お兄ちゃん、嫌じゃないの!」
私はお兄ちゃんの肩を激しくガクガクと揺さぶった。なんでそんなに他人事みたいな顔ができるのよ。もっと当事者意識を持って必死になってよ!
「ああ、エアコンのある部屋がもらえるなら、ぼくはそっちの方が嬉しいよ」
お兄ちゃんは至って大真面目に、心底嬉しそうにそう答えた。どこまで省エネでマイペースなのだ、この人は! 自分の快適な睡眠環境(室温24度)というあまりにも低次元な理由で、この私を置いて実家を捨てるというの!
「私たち、離ればなれになるのよ!」
悲痛な叫びが、私の口から飛び出していた。もう妹のフリをしたおねだりじゃない。一人の女として、私はお兄ちゃんと離れたくないのだ。
「でも父さんと母さんは喜んでるだろ。それに離ればなれと言ったって、本家までは電車で二駅しか離れてないしね」
お兄ちゃんは相変わらず、私の必死さの半分も理解していない様子で、呑気に物理的な距離の話なんかをしている。
違う、距離の問題なんかじゃない。この家からお兄ちゃんという、私の精神的なよりどころ――そして将来の夫候補――がいなくなってしまうことが、耐えられないのだ。
「それだけじゃないのよ。おじい様が織原家の遺産を、お兄ちゃんだけに全部相続させるって言い出したの。それで、お父さんと水瀬の叔父さんが血相を変えてお兄ちゃんを探してたのよ」
私がそう告げると、お兄ちゃんは「またか」という顔で、呆れたように肩をすくめた。おじい様が一族中に発した大号令のことも、パパたちが私立探偵まで雇ってお兄ちゃんを捜しまわっていたことすら、まだ彼の耳には入っていなかったようだ。
「おじいさんは言ってるだけでしょ。以前にも分家と喧嘩になったとき、そんな話をしていたよ」
お兄ちゃんは、今回もおじい様のいつもの「出来の悪い息子たちへの脅し文句」だろうとタカをくくっている。
「だけど今回は本気なの!」
私はお兄ちゃんの胸ぐら(着古したヨレヨレのTシャツの襟元)を掴みかねない勢いで詰め寄った。
「話はもう裏で進んでて……お母さんが、お父さんと離婚するって言いだしてるのよ!」
これには、さすがのポーカーフェイスなお兄ちゃんも、わずかに目を見開いた。
我が家の崩壊は、もう冗談や思い込みで済む段階を遥かに超えていた。ママは、おじい様がお兄ちゃんに全財産を譲ると確定した瞬間、遺産の一滴すら見込めない無能なパパに見切りをつけ、織原家の泥船から自分だけ財産を掴んで脱出しようとしているのだ。
お兄ちゃんはしばらく沈黙したあと、冷ややかな、どこかすべてを軽蔑したような目で床を見つめた。何も知らないまま帰ってきたお兄ちゃんの口から、冷酷な正論がこぼれ落ちる。
「やっぱり、お義母さんは遺産目当てだったんだね」
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