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第四十話 乙守島【四日目】「一犬影に吠ゆれば百犬声に吠ゆ」


 「……そんなこと、言わないでください」

 思わず僕はそう声をかけていた。


 生きていることを嘆かないでください。恥じないでください。僕にそんな大層な言葉は言えないけれど、狭霧さんが生きていてよかったと僕は思います。僕だけじゃない、ここにいるたくさんの人がそう思っているはずです。


「……あなたは、優しいのですね」

 薄く開かれた目が向けられ、掠れた声が耳に届く。


 痛ましい姿。血の滲んだ鼻に切れた唇、紫に変色した頬。片目は腫れていてうまく開かない様子だ。でも、あの話を聞いてしまっては百合さんを責めることはできなかった。


 瀬名さんに支えられ上半身を起き上がらせる狭霧さん。


「すみません、もう大丈夫です」


 そんな弱弱しい声で大丈夫だと言われても、そうですかと頷けるわけがない。ほら、見てくださいよ、瀬名さんのあの顔。目を細め、今にも悪態をつきそうな顔じゃないですか。


 僕の視線に気が付くと、瀬名さんは顔を逸らした。


「……殴ったことは悪いと思っている。が、それでも納得がいかないんだ。狭霧さんの話を聞いてもどこか腑に落ちない」


 竜也さんの傍らで正座をとり、地面につける勢いで頭を下げている百合さんが発言する。まもなく顔は上げられ、彼の視線は幹史に手を繋がれたナナへと向けられた。その瞳は、ささやかだけれど優しさを帯びていたように感じられた。


「……あの子は、なぜあんなにも拒絶をされていたんだ。本当の親でありながら彼を虐めるこどもたちを庇った俺が言うことじゃないかもしれないが、不可解な点があるように思う。教えてくれ」


 百合さんの瞳は、真相を追い求める刑事さながら。


 狭霧さんは口を開かない。どう伝えようか迷っているのか、もとより話すつもりはないのか。僕にはわからなかった。


 カラカラと何かが回る音が近づいてくる。徐々に音は大きくなり、やがてそれは止まった。皆が膝を折り曲げようとした時、一つの声が響く。


「膝をつく必要はありません。これは当主様の意向です」

 車いすのハンドルを握る夕星(ゆうづつ)さんがそう宣言した。当主様の意向とあっては、島民たちも従わざるを得ない。


「話は大方聞かせてもらったよ。ここらでひとつ、島以外の人間からの見解も必要だと思うのだが、どうだろう?」


 先生が朗らかに提案する。突拍子もないように思えるけれど、ことのほか当を得ているのかもしれない。余所者の意見、されど視野は開かん。


「ナナくんに対して積極的なのはこどもたちだった。幼いこどもたちだ。ともすれば、このいじめの発端はどこにあると思う? はい、幹史くん!」


「俺⁉ あー、周りの環境とか? 誰かが言っているのを聞いたとか、周りの大人に唆されたとか」

 突発的に振られた幹史は驚きつつも難なく答えた。


「うん、そうだね。少人数且つ手を取り合うこの環境では積極的にいじめが発生するとは思えない。狭霧くんも言っていたように」


 顔を向けられた狭霧さんは躊躇いがちに頷いた。


「そこで、こう考えることができる。ナナくんのいじめは誰かに仕組まれていた、と」


 不穏な空気が漂う。


「集団心理とは怖いものだ。影響力ある人間がひとたび発言すれば、それは真実へと変わってしまう。宗教がいい例だね。仮にこんな発言があったとしよう。『こどもが捨てられていた。この島以外から流されてきたのかもしれない』これをあなたが言ったとしてどのくらいの人が信じるだろうか」


 一人の島民を手で指し、先生は問いかけた。


「俺? ……まあ、少ない、と思う」

 腰に左手を当て考えたのち、島民は答える。


「どうしてだい?」

「信じる以前に冗談だろうって笑われておしまいだ」


「なるほど」

 名探偵よろしく頷く先生。


「俺が言ったとしても笑われるな」

「私もそうかも」

 顔を見合わせて島民たちも同意を示した。


 ふと、ここで僕は気が付く。空間が二つに割れていることを。換言すると、空気間が二分されているのだ。身なりのいい――即ち着物を纏った島民たちと、麻生地の服を着た島民の間で。


 前者の顔は見るからに曇っている。その筆頭ともとれる樹雨(きさめ)さんは、明らかに動揺していた。先生は見逃さなかった。畳みかけるように言葉を繰り出す。


「だが、影響力があり逆らえない人間が言ったのだとしたら、周りの人間は疑いを持っていたとしてもまず肯定せざるを得ない。一つの肯定を見た者がその肯定を信じ、また肯定を見た者が信じ、ひとりまたひとりと増えていけば、肯定が本当の肯定となり、言葉は真実へと変わる」


 迂回的な言い回しだったけれど、なんとなく理解はできた。


「……わたし、こう聞いたわ。海から流れ着いた子がいるって」

「僕もそう聞いた。あの子は一族以外の子だって」

「余計な魂がここに交じっているって聞いたな」

「その子を秘密裏に狭霧さんが匿っているとも」

「ええ」


 島民たちは口々に口走る。

 いまや、島民たちが屋敷の人たちに向ける視線は猜疑心に溢れていた。


「……だって、そう言いふらせって樹雨さんに……」

 着物を纏った一人の女性が呟く。


――ボロが出た。


「それは、どういうことだい?」

 先生の凍てつくような低い声に短く悲鳴を上げた樹雨さん。


「だ、だって、許せなかったんだもん。あいつが、月華様をあんな目に合わせたあいつが!――だから、あいつが大切そうにしていたこどもを利用したの。こんなに広まるとは私だって思っていなかったわよ! ……でも、月華様ひとりだけ苦しむなんておかしい。ねえ、皆もそう思うでしょう? あいつが誰よりも苦しまないといけないの!」


 俯いている樹雨さんの前に月華さんが進み出た。自ら木のタイヤを回して。


 樹雨さんはその場に両膝をつき胸の前で両手を組むと、彼を見上げる。


「……ああ、月華様。あなた様なら私のこの気持ちを分かってくださいますよね」


 月華さんは右手を静かに動かす。頬を撫でられるとみて目を瞑った樹雨さん。しかし、その右手は勢いよく頬に打ちつけられた。小気味良い音が辺りを震わせる。


「……あ、たたかれ……。え?」

 叩かれた頬を抑え、樹雨さんは月華さんを見上げる。彼女を見下ろす冷然たる瞳。やや合って地面へ逸らされたそれには、怒りと呆れと、そして少しばかりの哀れみを感じさせた。


「お門違いも甚だしいですね」夕星さんが吐き捨てる。


 歩み出た彼は車いすのハンドルに手をかけ月華さんに一言添えると、樹雨さんから距離を取るように車いすを後退させた。


 車いすを止めた夕星さんはおもむろに糸目を開くと厳かに告げる。


「月華様をこんな目に合わせたのは、あなたのお父上、黎明様ですよ」


「……え?」

 樹雨さんから情けない声が漏れる。彼女もまた一人の被害者なのだ。


「……いやだ、そんなっ……。いやー!」

 頭を抑え叫びながらその場に蹲った彼女に、寄り添うものは誰一人いなかった。


 そんな汚れ役を買って出る勇気はただの一人も持ち合わせていないのだろう。同じ状況に自分が置かれたとして、僕もきっとできない。だから、咎めることもできない。


 ガタンと音を立て突然車いすから落ちた月華さん。急いで駆け寄った夕星さんに、彼は顔を横に振った。夕星さんは渋々と動きを止める。


 月華さんは、着物が汚れることを厭わず這って狭霧さんへと向かっていく。


 狭霧さんは上半身を右に捻らせ肘をつくと、月華さんに反対の手を伸ばした。その手に月華さんの小ぶりな手が乗せられる。


 そして、彼は微笑んだ。その笑顔を見てか、狭霧さんの瞳から涙がとめどなく溢れる。


「……ごめん、なさい。ごめん……」


 謝る彼に月華さんは優しい表情で首を横に振る。そして、うつ伏せのまま顔を後ろに向けた。視線の先にいるのは、先生。先生は目を瞑り小さく頷いた。


「……絹さんを」

「やめてくれ! もういいんだ、もう終わったんだ!」


 話し始めた先生を遮り、悲痛な叫び声をあげる狭霧さん。


「彼が望んでいることだ。僕は君の優しさより、彼の意思を尊重したい。だから、すまない」


 しかし、狭霧さんの願いは届かず、先生は話し始めた。


「絹さんを殺したのは、……月華くんだ」


 再び走るどよめき。


――そっか。絹さんを手にかけたのは狭霧さんではなく、月華さん。狭霧さんはその事実に気が付いていて、自分だという指摘に頷き自白をすることで月華さんを庇った。


 しかし、月華さん自身は己の罪を告発してもらうことを望んでいた。先生はその覚悟に誠心誠意向き合ったのだ。


「集落から外れた狭霧くんの家。そこの裏手にイヌサフランは咲いていた。もう紫色のきれいな花が咲いていたな。まだ若いものが数本あったけれど」


 裏手というと、狭霧さんに絶対に覗くなと言われたあの畑だ。イヌサフランはそこにあったのか。


「新しい命が生まれた時、園丁(えんてい)である夕星くんの育てるギョウジャニンニクが渡される。しかし、そのうちの一本は狭霧くんが育てたイヌサフランと入れ替えられていた。それを指示していたのが、現当主に代わって指揮を執っていた当主代理の絹さんであったんだ。無意味な殺人を終わらせるには、元凶である絹さんを殺す必要がある。やりたくもない殺人に加担させられている狭霧くんを解放するためにもね」


 この事実を聞いても、彼らを責め立てる者はいなかった。


「――と、いうのが月華くんの考えだ」


 空気が変わる。


 月華さんに向けられていた先生の視線は、狭霧さんへと移された。


「……ええ」

 言葉を続けたのは先生ではなく狭霧さん。


「季節が巡り、また桜の季節を迎えようとしていた時でした。屋敷内ではすでにナナの存在は周知。皆彼の成長に心躍らせ、我が子のように見守っておりました。中にはそうでない者がいることも承知済み。警戒を怠っていたわけではありません。ですが、私が私用で彼の傍を離れた一時、それは起こりました。屋敷の者がナナを外に連れ出してしまったのです。その後は皆さんのご存じの通りです」


 今もまだひとり蹲っている樹雨さんに視線を送る狭霧さん。


「その日を境に、屋敷内でもナナに対する軽い虐げが始まりました。手をつねったり、叩いたり、酷い言葉を浴びせたり……。始めは極少数であっても次第に肥大していきました。屋敷の中が安全ではなくなりましたので外に散歩に出てみれば、幼いこどもたちを中心にナナに罵詈雑言を浴びせてくるではありませんか。根も葉もない噂でナナの存在を否定し、石を投げつけては笑う。大人たちはそんなこどもたちを見て見ぬふり」


 この話を聞く大人たちの顔は後悔に塗れていた。


 顔を手で覆いながら声を上げて泣く帳さん。その肩を抱くように百合さんが寄り添っている。


 俯く幹史を不安げな顔で見上げているナナ。繋いでいる手から震えが伝わってきたのかもしれない。


「……いえ、ナナをこんな境遇に合わせてしまった原因は私です。そんな私には誰かを責める権利はないのに……。私は弱い人間です。逃げてばかりの。ですから、また逃げてしまいました。もし、新しい子が生まれた際に誰も亡くならなかったら? 祝福が行われなかったら? その子も外れ者の魂だと扱われてしまうのではないか、ナナのように虐げられるのではないか。なにより、それを止められず見ているだけの自分になってしまうことが、怖くて怖くてたまらなかった……」


 顔を俯かせる狭霧さん。風に吹かれ靡いた髪の隙間から覗いた顔は、とても悲痛に歪んでいた。


「祝福がどういうものかを説明して、たとえ受け入れられないとしても受け入れてもらえるまで説得をして、そして新しい命の誕生を全員で祝える環境にしていく。そんな単純なことができずに私は逃げたのです。どうせ私の言葉は誰にも届かない、と卑屈になって。そして私は、一番いってはいけない方向に逃げてしまったのです……」


 気持ちのまま語る狭霧さんの語彙はどこか乏しく感じられた。


「一度始めてしまえば、もう止めることなんてできなかった。全部、私のせいなんです。私一人のせいなんです……」


 彼は嗚咽を漏らしながら後悔と懺悔の涙を流し続ける。


「……だから、月華。絹さんは何も関与していません。何も知らなかったのです。全部、私の独断でした。弱くて、前に一歩踏み出せなかった私の……」


 そう告げた狭霧さんの手から、月華さんの手が滑り落ちる。開かれた月華さんの目はゆっくりと絹さんへ向けられた。


 体の向きを変えた彼は泥をかき分けるように這う。奇麗な顔に跳ねる泥。辿り着いた彼はもう動くことのない体に覆いかぶさり、そして、慟哭をあげた。言葉にならない声が、より一層聞いている者の心を締め付ける。


「ごめんなさい……、ごめんなさい……。私が、打ち明けることができていたならっ」


 月華さんの手が離れ行き場を失った狭霧さんの手は、泥のなかに落ちていった。


 どうしてこんなにもすれ違ってしまったのだろうか。どんなに泣いても、どんなに懇願しても、絹さんはもう帰ってこない。この場所は崖だった。もう後ろに戻って他の道を探すことはできない。後悔は募るばかり。


 ああ、涙の後の世界は悲しくて苦しいよ、父さん……。


ご高覧いただき感謝の至りでございます。

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