第三十五話 乙守島【四日目】「伊蘭の林に交われども赤栴檀の香は失せず」
「あれ? 地下牢に向かわないのかい?」
屋敷に入り、雄大な黄金の桜の木が描かれた襖の前で夕星が車いすを止めると、先生が尋ねてきた。
今書くものを持っていないしなあ、うーん、どう答えようものか。
そう考えていると、代わりに夕星が答えてくれた。
「地下牢に行くには階段を下らないといけませんのでね。ひと方は座敷、ひと方は地下牢、と人質同士が離れていては監視役の私の負担が大きすぎますでしょう?」
あ、たしかに。まあ、実際そうなったとしても夕星なら難なくこなしそうだけど。
「では、お言葉に甘えて」
「今、襷外しますね」
「いいの?」
「あ、いいですか?」
いいよー。俺は夕星に向け、片手でオッケーマークを作って見せた。
二人は声を掛け合いながら慎重に俺を車いすから降ろしていく。俺の体が少し車体に当たっただけで悲鳴を上げる二人。まったく、大げさな。でも、そんな気遣いが暖かい。
ほどなくして、俺はいつも通り布団に座り、座卓に紙と筆を用意することができた。
『ありがとう』
そう書いて二人に見せる。二人は笑顔を返してくれた。
――ああ、こういう時に自分の言葉でお礼が言えたらどんなに良かったか。
三人の間に沈黙が流れる。
「……暇ですね」
「……暇だね」
「何しましょうか」
「何しようかね」
先生と夕星の軽快なやり取りに思わず笑ってしまった。
今の俺たちに任されたものはない。人質同士どんな会話をしようか。そもそも会話をしてもいいのだろうか。
狭霧は俺をあえてあの場所から遠ざけた。きっと矛先が向かないように。
俺は自然と筆を走らせていた。
『俺は外のことは何も知らない。誰も教えてくれないから』
狭霧はもとより、当主代理を務めているお祖母様も、狭霧に代わって俺の側使いを務めてくれている夕星も、誰も教えてくれない。
俺が側使いを指名しなかったと知るや否や、狭霧は自分が一番信頼しているだろう夕星という人間を俺の元に送り込んだ。狭霧伝手にやり取りをしつつ、俺はほとんど動かないから常に側にいる必要はない、という結論に至ったが、夕星は頻繁に顔を見せてくれた。
前には、襖を一秒ほど開け、『ご無礼をお許しください!』と顔を見せると去っていくという日もあった。相当忙しかったのだろう。それでも顔だけでも見せてくれる律義さがある。必ず一工夫をいれてね。本当に退屈しない子だよ。
俺が体調を崩した時には、必ずお祖母様が側にいてくれた。元々口数は少なく表情も乏しかったが、節々から優しさが垣間見える方であった。堂々とした佇まいや威厳のある姿にひそかに憧れてもいた。
でも、そんなお方はもうこの世界にはいない。魂は輪廻することなく天へと還っていった。
『だから、これは俺の想像の話』
俺は、ひたすら筆を走らせた。
『今回以外に上がった青い煙。例の石段。その当事者は前当主黎明だ。屋敷の裏手には長い石階段がある。初代当主様や他九十九人の鬼を祀る祭壇に続いている。黎明はその階段から落ち、打ち所が悪く亡くなった。あまりにも不自然な死因に皆怯えたものの、同時に新しい命が生まれてきていたことで祝福として片づけられた』
紙がすぐ文字で埋まってしまう。もう既に何枚もの紙を消費していた。それでも筆は止まらない。俺が放り投げる紙を夕星は一枚一枚丁寧に拾って先生に渡してくれる。
『その出来事は、俺が怪我と熱で寝込んでいる際に起こった。俺が黎明に舌と腱を切られた三日後のこと。そして、狭霧が屋敷から追放された二日後のこと』
書く手が止まる。筆を握る手が震えていた。深呼吸をして気持ちを落ち着かせると、俺は再び紙に向き合った。
『黎明を石段から突き落とし殺したのは、きっと狭霧なんだ』
筆を握る手にだんだんと力が籠っていく。字も太く汚くなっていく。
『俺が黎明に太刀打ちできなかったばかりに狭霧の手を汚させた。奇麗な手を汚させてしまったんだよ』
自分が今ちゃんと字が書けているのか分からない。感情のまま筆を走らせている。
『今イヌサフランを育てているのは狭霧だってわかっている』
気付かれないように細心の注意は払っているんだろうが、それでも違和感はずっと燻っていた。
『狭霧は俺の言葉を伝える手段がないと嘆いていたけど、そんなのはどうだっていい。俺の言葉なんてどうだっていい。でも、狭霧は言葉が声で紡げるんだ。なのに、どうして誰にも届かない!』
原因なんてもうわかりきっていること。俺が自分の言葉で伝えられないからだ。この怪我は狭霧のせいじゃない、そう一言伝えるだけでいいのに今の俺にはできない。
もし、ここまで見越して舌を切ったのなら、黎明、お前に天晴れだ。お前が仕掛けた罠に、俺と狭霧はまんまと引っかかっているさ。いや、俺たちだけじゃない。島民全員がお前の張り巡らせた蜘蛛の糸に、気づかず捕らえられている。
でも、最後に笑うのは俺たちだ。残されたこの手で終わらせてやる。
『狭霧はこれが呪いだと知っている。なのに、自ら続けているとは思えない』
あの優しい狭霧がこんなことできるわけがないんだ。
『誰かに指示されているに違いない』
裏で糸を引いていた存在がいる。
『誰かなんて明白だ。だから、止めるにはこうするしかなかった』
いったん筆を止め、新しい紙を用意する。
俺はゆっくりと丁寧な字で、真実を先生に伝えた。
『お祖母様を殺したのは、俺だ。後悔はない』
先生に動揺は見られない。あなたなら、森羅さんの友人であるあなたなら、もうすべてわかっていたんだろう?
「そうか。なら、行ってあげないとな。君を待つ頑張り屋さんの元へ」
立ち上がった先生は腰をかがめ俺に手を差し出す。俺は迷わずその手を掴んだ。
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