第三十二話 乙守島【四日目】「地獄の一丁目」
暖かい日差しを浴びて、僕はゆっくりと瞼を開けた。どうやら雨は止んだようだ。
上半身を起こし、腕を上にあげ伸びをする。ここに来て初めて心地よく朝が迎えられたな。
ふと、昨夜の先生を思い出し二つ隣のベッドを見た。先生は珍しくまだ寝ていた。けれど、布団に乱れはなく、きっと朝にでも帰ってきたのだろう。一体、何しに行ったのかな。
僕の起きる音で目が覚めたのか、竜也さん、幹史、瀬名さんと順にベッドから体を起き上がらせていった。
「皆さん、お目覚めですか?」
タイミングよく開かれるドア。寝起きの体を気遣うような狭霧さんの優しい声。
「はい、おはようございます」
僕たちは挨拶を返した。
「朝食の用意ができておりますので、どうぞ」
今日の朝食は何だろう、と少しばかりの高揚の中に、何かはっきりしない胸騒ぎのようなものを感じた。おそらく、まだ犯人が定かになっていないから。でも、このもの言えぬ不安はそれだけではないような気がした。
まだ働かない頭を無理やり覚醒させるような破裂音が耳に届く。隣町の夏祭りの花火の音が耳をすませば微かに聞こえてくる――、程度の派手さのない音。寝ていたら気が付かなかっただろう。
ドアを開けていた狭霧さんが寝室の窓に駆け寄り外の様子を覗く。僕たちも狭霧さんの後ろから外の様子を覗いた。見えたものは青い煙。
狭霧さんは僕たちに目もくれず寝室を飛び出した。その顔はひどく動揺している。顔を見合わせた僕たちは狭霧さんを追いかけた。
青い煙に向かって裸足で駆け出す狭霧さん。屋敷付近で煙が上がっているようだ。
煙が立ち昇る場所は集落から外れた竹藪。すでに数人大人たちが集まっていた。立ち止まった狭霧さんの肩は大きく上下している。聞こえてくる息遣いも荒い。
狭霧さんの姿を見つけた島民が他の大人たちに声をかけると、その中心へと道が開かれた。
狭霧さんはゆっくりと進んでいく。そして、その場に膝から崩れた。
「……絹、さん……」
その口から弱弱しい声が漏れる。
視界が開け僕たちにも中心の様子が見えた。そこに泥水を吸い汚れた着物を纏った絹さんが横たわっていた。まったく動かない体に青白い顔。
「いやあああ!」
あとからやってきた着物の女性が絹さんの姿を見て悲鳴を上げる。
雨粒に濡れる竹藪の中、絹さんは亡くなっていた。
思考が追い付かない。鼓動が次第に速くなる。はっきりしない胸騒ぎ、もの言えぬ不安。これがその正体?
カラカラと何かが回るような音が聞こえてきて視線を送ると、車いすに乗った月華さんが近づいてきていた。車いすを押しているのは夕星さん。
島民たちは一斉に跪いた。
「当主様、発言をお許しください。朝、竹を取りに参りましたら見つけたのです。すでに息がなく、こうして青い発煙筒を上げました」
発煙筒を作動させた第一発見者らしき島民が月華さんに伝える。
島民の言葉を聞いた月華さんは頷き、掌を上に向け下から上にあげる。それを見た島民たちは顔を上げ立ち上がった。
「当主代理様が……」
「青い煙なんて例の石段の時以来よね?」
「でもあの時は祝福があっただろう? 今回はどうもそれがない」
「ああ、さっき手分けしてすべての家を回ってきたが、赤子が生まれた家はなかった」
「屋敷にもおらん」
「え……。じゃあ、それって……」
島民たちが話し合う声が聞こえてくる。自宅で亡くなった際には赤い煙、それ以外の際には青い煙を上げるのだろうか。
例の石段の時とは、「石段からの転落というたった一度の例外があった」と先生が言っていた件のことだろう。
「……あ……」
月華さんから漏れ出る言葉にならない声。呂色の奇麗な瞳から一筋涙が流れる。
絹さんは月華さんの唯一の肉親だと聞いた。噛みしめられた唇。叫びたい衝動を抑え、威厳を保とうとするその姿に胸が痛んだ。
彼は視線を絹さんから狭霧さんへと移した。まるで助けを求めるかのように。
「……どうして……」
月華さんの視線に気が付いていない狭霧さんは絹さんを見つめたまま呟いた。
その間も煙を見てか、島民たちはどんどん集まってくる。
月華さんを一瞥し、膝をついている狭霧さんの元へと歩き出した瀬名さん。その傍らに着いた彼は片膝をつき、狭霧さんの肩に手を置いた。
「狭霧くん、君が必要みたいだよ」
しかし、瀬名さんの声は届いていないよう。
「……しっかりしろ、狭霧!」
大きく息を吸った瀬名さんは声を張り上げた。その怒号は辺りまで響き竹をも揺らす。僕は思わず体が跳ねてしまった。
は、初めて聞いた瀬名さんのこんな声。瀬名さんでも怒ることがあるのか。
錆びれた鎧のようにゆっくりとぎこちなく顔を声の主へと向けた狭霧さん。この声はさすがに届いたらしい。
「ほら、立って」
瀬名さんは狭霧さんの二の腕を掴み、無理やり立たせた。彼はされるがまま立ち上がる。
「君が指示しないでどうすんの」
「……でも、私なんかが――」
パアンッ、と鳴り響いた音。再び僕の体が跳ねる。
狭霧さんの両頬を瀬名さんが思い切り叩いたのだ。
もう、心臓に悪い……。
「いい加減にしろ。聞いていれば、私なんかの、私なんかがって。月華くんにはお前が必要なんだろう? いつまでも過去を引きずるな」
海の底から波を起こすような静かな厳めしさ。そのあまりの威圧に狭霧さんは圧倒されている。
「ほら」
頬から手を離した瀬名さんは、狭霧さんの背を押し月華さんの元へと歩かせる。おぼつかない足取りで彼は歩みを進めた。
目の前に来た狭霧さんの左手を右手で掴んだ月華さん。狭霧さんは掴まれた手に視線を送る。その視線は次第に上がり、二人の視線が交わった。
狭霧さんの顔が歪み、瞳からとめどなく涙が溢れ出す。再び膝から崩れ落ちた彼。掴まれた手を自分の額に当てさめざめと泣いた。
月華さんはそんな彼を、涙で頬を濡らしながら抱きしめた。
「もう、大丈夫だよ」そう伝えているような気がした。
「うむ。首元に縄のような跡があるね」
この場にそぐわない淀みのない声。後ろを振り向けば、狭霧さん宅に置いてきたはずの先生が立っていた。顎に手を当てながら絹さんを遠巻きに見ている。
「はい、お願いね」
「――うぇ? ……ヒッ!」
なぜか抱えていた麻袋を幹史に渡した先生。受け取った幹史は短く悲鳴を上げた。麻袋が動き出したからだ。
これは確実に中に生物がいる……!
「……してー。だしてぇ」
麻袋から何か聞こえてくる。鳴き声――、いや、これは人間のこどもの声? まさか本当に! でも、どこか聞き覚えがあるような……。
顎を引いた幹史が麻袋の口を縛ってあった縄を解くと、中からこどもの頭が飛び出した。
「……うおっ、ナナ⁉」
「うぅ、おにいちゃあん、こわがったよぉ」
麻袋を剥ぎ取り、泣いているナナを抱きしめた幹史。ナナは幹史の首に腕を回して顔を肩にうずめている。
「乱暴してごめんね。でも、この場には君も必要だと思ったから」
先生は優しく諭し、頭を撫でようと手を伸ばす。しかし、当の本人が顔を逸らし拒んだ。
そりゃそうだろう。どんな理由があろうと、袋の中に閉じ込められたら拒絶するよ。ましてやこども。相当怖かったに違いない。
「もっと他に手段がなかったのかねぇ」
「うっ……」
ナナに拒絶されたダメージに幹史から向けられた軽蔑の視線でさらにダメージが入る先生。
「し、仕方ないじゃないか。行こうと言っても頑なに動こうとしないし……。僕はこどもとのかかわり方がわからないんだ!」
「そうやって素でいけばうまくいくと思いますがね」
「今のあんたの姿はこどもだよ」という意が込められた皮肉たっぷりの幹史の言葉に、先生の顔が紅潮していく。
「……これは、祝福与り知らぬ死、ということですね」
狭霧さんのその一言に一瞬にして空気が変わる。頬を叩かれたように皆口を閉ざした。
狭霧さんは立ち上がり、月華さんの手を優しく彼の膝に乗せ、こちらへと顔を向けた。覚悟を決めたような力強い目をしている。
「ああ。硬直が始まっている。死後数時間は経っているとみていい」
そう言いながら歩き出し絹さんの傍らに片膝をついた先生。狭霧さんもその隣に今度は自ら膝をついた。
先生が横たわる絹さんの首を見つめ言う。
「昨夜は雨だった。足跡は残っていないだろう。手掛かりはこの絞首線だけだ。ここでは指紋採取もできないしね」
「ええ。この状況を見るに他殺の線が濃厚です」
「他殺、か……」
「足跡を残さないために雨の日を狙ったと考えることもできます」
「ここ最近は晴天が続いていたからね」
つまり、計画的犯行ということだろうか。
「個人的な恨み――、でしょうか?」
「もしくは、揉み合いの末、かな」
二人の間で推理が為されていく。
「ちょ、ちょっと待ってよ! 意味わかんない! どうしてお祖母様が死んで……」
「それを今考えているのです」
一歩前に出て叫んだ樹雨さんを狭霧さんが言葉で制す。
「そうじゃない! 祝福がないのにどうして人が死ぬのよ!」
彼女のひと声に皆が押し黙る。
祝福与り知らぬ死。死の形跡が残された遺体。それが意味すること。
――魂の輪廻は拒絶された。
島民たちに走る動揺。そして、隣人に抱く嫌疑。それは病のように人から人へと広がっていった。行きつく先は、混乱。
「お前じゃないのか!」
絹さんを発見し発煙筒を上げた島民に疑いがかけられる。
「その目つき、怪しいと思っていたんだ!」
「お前こそ!」
「あなた、この前絹様の悪口言っていたじゃない」
「あんただって共感していたじゃない!」
疑い合い、掴み合い、罵り合い、あれほど仲の良かった一族は今や見る影もない。
――どうして、こうなってしまったんだろう……。
”パンッ”と、破裂音。乱れた空気を引き締める一発。
手や口を止め、音の出所へ一様に視線が向く。投手然として振りかぶった先生がいた。その右手に握られている新聞紙。
思考一秒。状況の把握が完了する。
ああ、お馴染みの新聞紙クラッカーですね。
「今は家族同士争う時間ではないでしょう」
冷静且つ丁寧に述べた先生は、折り畳んだ新聞紙を胸元に仕舞う。
「まだ他殺とは決まっていないのだから」
「……はは、まったく白々しいですね」
乾いた笑い声を零した狭霧さん。
絹さんへと向けられていた顔が隣の先生へと移る。先生は視線だけを彼に返した。
ご高覧いただき感謝の至りでございます。




