第二十八話 乙守島【三日目】「盂方なれば水方なり」
「文字を習得した私たちは、あの日森羅さんが見た三冊の本を読んでみることにしました。広辞苑のおかげかわからない単語はほとんどなく、さほど時間もかからずに読むことができました。私たちは夢中になっていたのです。こちらに忍び寄る影に気付かないほど……」
狭霧さんの声は沈んでいく。
「毎日のように屋敷を抜け出す私たちが今日は珍しく部屋に籠っている、と誰かが報告したのでしょう。黎明がやってきました。そして、閉じられた間の書物、所謂禁書を開いている私たちを見つけたのです。今までも閉じられた間に入ってしまい、興味本位で禁書を開いてしまって叱られた者はいたと聞きます。文字の読めない一族にとって禁書はただの飾りも同然。大したことではない、でも掟を破ったこと自体を叱る必要はある。禁書に関しては形だけの叱責にすぎませんでした」
言葉を区切り、一息吐いた狭霧さんは続けた。
「ですが、見つかった相手が悪かった。隙あれば月華を陥れようと企む男――黎明にとってそれは格好の餌食でした。何も起こらなかったのではない。黎明は獣のように機を窺っていただけなのです。今まで叱責で済んでいた『閉じられた間への無断侵入及び禁書の閲覧』は極刑へと繰り上げられました。黎明の、当主の一存で……」
当主の言葉がすべて。今まで一族が存続できたのは、当主についた者の器が大きかったからにすぎないのかもしれない。
「ここでの極刑は、地下牢での幽閉。食事はもとより、水さえ与えられない重い刑罰。私に与えられた期間は一日、しかし月華に与えられた期間は十日間でした。十日間水もなしに生きられるはずがない。一族では馴染みのない死刑宣告でした」
「祝福以外で訪れる死は誰も経験がなかったため、皆は怯えました。黎明にやめるよう言います。祝福与り知らぬところで人を死に至らしめては『百鬼の祝福』から見放されてしまうのでは、と。いや、祝福は絶対だ。たとえ死んでしまっても新しい体に魂は巡るさ、など月華をまるで実験体にするような発言もありました。誰も、誰も月華自身の心配をする者はいなかったのですよ。心配を装いながら結局は自分が大事。祝福に肖りたくて仕方がないのです。その時の私の心中は察するに余りあるでしょう」
後ろから見ても、狭霧さんが今どんな表情をしているのかが容易に想像できた。
「私は自分が解放された後、月華を出す算段をつけ牢に向かいました。見張りさえつけない杜撰さ。容易に牢まで辿り着き月華を外に出した瞬間でした。黎明が待ち構えていたのです。私はそこで自分が嵌められていたことに気が付きました。見張りをつけなかったのではない。私が来ることを見越し、月華が脱獄を図ったという事実を作り出すための罠だったのです」
「月華は私の腕を引いて必死に逃げました。ですが、大人に敵うはずもありません。月華は私を守るように立ち塞がり、私だけでも逃がそうとしてくれたのです。そして、私はその場から逃げ出してしまいました。次の日に見た彼の姿は……」
足を止めた狭霧さん。顔は俯き体は震え、苦しそうに言葉が発せられた。
「……月華は、もう話すことも、歩くこともできない体になっていました。高熱で寝込む月華をひとり看病する絹さんに聞いても、何も教えてくれません。絹さんは元々多くを語らない方ではありましたが、無視をするような方ではありません。話せない何かが生じていたのだと思います。元凶は分かっているのです。私は黎明に直接問いただそうとしました。今思えば、本当に考え無しも良いところ。黎明の部屋に押し掛けたことで私は当主暗殺の罪に問われ、屋敷を追放されることになりました」
狭霧さんが語ってくれたそれは、あまりにも心胆寒からしめることだった。
舌と腱を切られる痛みは想像を絶するものだろう。そして、そんな月華さんを見て狭霧さんはどれほど打ちのめされたか。
「その数日後、何の因果か、天が私たちに味方をしたのか、黎明は祝福によりに亡くなりました。次の当主は月華が自ら志願し、動けない自分に代わって絹さんを当主代理に立てることで結論に至ります」
「月華によって私の屋敷追放は撤回されたものの、黎明の抜かりない根回しにより月華の怪我の原因が私にあると屋敷中に広められておりまして、私はまさに渦中の人。屋敷に入ろうものなら雁首揃えて取り押さえに来るでしょう」
「黎明の娘である樹雨様は特に私を敵視――いえ、もっと悍ましい、そう。憎悪を抱いております。幼子のころから月華に思いを寄せておりましたからね。月華をあんな姿にした私が憎くて憎くてたまらないのでしょう。私も同様です。あの黎明と同じ血を引くあの方が……、憎くてたまらない」
俯いていた顔を天に向けた狭霧さん。
「一概に噓とは言えませんしね。事実、月華は私のせいで舌を切られ話せないようになり、足の腱を切られ歩けないようになったのですから」
自嘲気味に告げた彼の声はひどく震えていた。
ふいに掴まれる狭霧さんの胸倉。掴んだ月華さんは腕を引き自分の顔に近づけると、勢い良く頭を振り下ろした。辺りに広がる鈍い音。
予想もしなかった頭突き攻撃に、痛みか驚きか、はたまた両方か、狭霧さんは目を見開く。
月華さんは胸元から取り出した紙の束に殴り書きをすると、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしている狭霧さんの眼前に突き出した。
『お前のせいじゃない!』
見つめるその力強い瞳が、それが本心であることを物語っている。
「……はは、そうですね。実際には私のせいではないのでしょう。ですが、あの時私が軽率な行動をとらなければ……。いえ、もうこの話はやめましょう」
乾いた笑い声を零した狭霧さんは、自ら話に終止符を打った。この話を続けたくないという思いもあっただろうけれど、目的地に着いたからでもあるらしい。
狭霧さんは居住区へと足を踏み入れた。車いすの上にいるお方の姿を捉えた島民が跪く。ドミノ倒しの如く流れるように次々と島民たちが跪いていく。
月華さんは僕たちの時同様にあたふたしていた。あまり表に出させてもらえないようだから、畏まられることに慣れていないのかもしれない。必死に両手を下から上にあげる月華さん。顔をあげてと伝えたいのだろう。
「顔を上げてください」
察した狭霧さんが告げる。
ゆっくりと上げられた島民の顔を見て月華さんは胸を撫で下ろした。
途端囲まれる月華さん。滅多に姿を現さない当主様に皆ご執心のもよう。彼は美しい容姿に加え人当たりの良い笑顔で島民をたちまち虜にしていく。主に若い女性を。
「罪な男だねぇ」瀬名さんがぼそりと呟く。
頃合いを見て打ち鳴らされた当主様の手に、玩具が反応するかのように島民たちは一斉に捌けていった。開いた道を車いすを押しながら狭霧さんが通る。まるでモーセの海割りだ。
居住区の一軒家で立ち止まり、狭霧さんはドアを三度叩く。
「はーい。お、なんだ、狭霧さんじゃ――」
戸口を開けて出てきた百合さんは、言葉途中で口をつぐむとその場に跪いた。狭霧さんの後ろに、車いすに乗り片手を上げて微笑む月華さんを見たからだ。一族の意思、当主様の姿を。
「と、当主様。こんなところまでごそくりょっ、……ご足労、いいただきありがとうございます」
慣れない畏まった口調で噛んでしまう百合さん。恥ずかしさ故か心なしか頬が紅潮している。
先程同様、月華さんの視線を受けた狭霧さんは「顔を上げてください」と告げた。百合さんは頷くと顔を上げる。
「中へどうぞ」
立ち上がった彼は、僕たちを家の中に招いてくれた。
「妻の方は今寝室で娘の『錦』と寝ておりますので、えー……」
「構いませんよ」
言葉を詰まらせた百合さんに狭霧さんが優しく声をかける。
『錦』。その名前に少し胸が締め付けられた。同じ名前だけれど、違う人間。三人の子を持つ偉大な親と、生まれたばかりの尊い赤子。仮に本当に生まれ変わりなのだとしても、生きてきた人生とこれから生きる人生は全くの別物になるだろう。
食器棚を開けて湯呑みを取り出そうとした百合さんに狭霧さんが声をかける。
「お構いなく。長居はしませんので」
「ご配慮痛み入ります」そう畏まって言った百合さん。
「聞きたいことがありまして伺わせていただいた次第です。……こちらの客人方が」
狭霧さんは先生を手で示した。
「はい。いくつかお聞きしたいことがありまして、よろしいでしょうか」
「お、おお。なんだ?」
客人の方から用があるとは思わなかったのか戸惑いつつも、答えてはくれるようだ。
「では、出産までの様子を教えてください」
「なんだ、そんなことか」
身構えていた百合さんは先生の言葉を聞き、どこかホッとした様子を見せた。
「日が傾き始めたころだった、妻が痛み出したのは。俺は家を飛び出し、近くの家で待機をしてくれていた数人の婦人方を呼びに行ったんだ。出産は夜更けまで続いた。桜の季節はもうとっくに過ぎていたし、心配ではあったが無事に生まれてきてくれて一安心だったさ」
「ほおほお」と、先生は相槌を打つ。
話の中で特段変わったことはないように思えたけれど、先生の口角は上がっていた。
「では次の質問をよろしいですか? 出産後の様子を教えてください。できれば詳細に」
なるほど。こっちが本命ということですね。
「出産後? どこの家庭も同じだろう? ……あ、そうか。客人たちはここでの出産を見るのは初めてだもんな。そりゃあ聞きたくもなるか。これこそ『百鬼の祝福』の神髄だからなあ」
百合さんの発言を聞いて先生が不敵に笑った。
「こどもが生まれた後は、父親は屋敷へ行くんだ。ニンニクを受け取りにな」
ニンニク。鬼にならないために食べなければならないもの。でも、何かを見落としている気がする。
ニンニクの顔見せは朝礼。取っ掛かりならそこだろう。どんな些細なことでもいい、思い出せ。島民一人一人にニンニクが配られ、こどもを呼び止めてニンニクを貰うことについて聞いて――
そうか!
「『とくべつなニンニクを食べる日もあるのよ。大人になってからだけどね』ですね?」
ご高覧いただき感謝の至りでございます。




