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第8話 光の神子

 ウィンローとウィンダーが睨み合う。

 いや、憎しみのまなざしを向けているのは、ウィンダーだけであったのかもしれない。

 私を背後に庇うウィンローが静かに腰もとの剣を抜きながら、ただ一言だけ漏らした声音は苦しそうだったから。


「ウィンダー……兄上……っ」


 その辛そうな声に、私は胸を締め付けられる。

 ウィンローの背姿を眼前にする私には、彼の苦しみや辛さが理解できるような気がした。立場や状況は違うけれど。

 けれど、やがて遠くから戦っているのであろう声や音が届くようになった。

 郷たる森で、清風に紛れて戦う風精霊達の。愛らしく響く鈴の音とは裏腹に、襲いかかる闇の眷属達や避難しようとする皆々の。

 聞き耳を立てたウィンローは、私へと真摯な顔を向ける。


「しばし、この場にてお待ち下さい」

「あの、でも、ウィンロー様」

「郷に仇なす者は、決して見過ごすわけには参りません」

「え? あ、でも……。あなたは今、兄上――と」

「たとえ、そうであっても……です。さぁ、皆の者! お前達はレナ殿をお守りせよ!」


 次の瞬間、ウィンローは草地を蹴り、駆け出した。軽やかな風の剣を構えつつ。

 同時に、風精霊達が私の前後左右に陣取る。

 と思う間もなく、キィンッと刃がかち合う音が高らかに響いた。思わず息を呑むくらいに。

 でも、同時に、胸がチクチクと痛んだ。

 ウィンローの表情にある険しさには、どこか悲しく辛そうな気配が滲んでいるから。それは、今の私も知っているものだったから。

 もちろん、知りたくもわかりたくもない苦い想いだったのだけれど。

 ウィンダーの向こう側にいるライナスへと、無意識に視線を向けてしまう。瞳に彼の姿が映し出された途端、胸もとでギュッと手を握り締めた。

 あぁ、きっと、ウィンローもこんな気持ちを感じているのに違いない。兄と戦わねばならない彼の胸の内は、事情は異なれど、私の胸の内とよく似ているような気がした。

 やりきれない切なさが込み上げる。

 そんな中であるにもかかわらず、ふと私はライナスの様子に気がかりなものを感じた。


「……ライナス? もしかして、また……頭が痛むの?」


 知らずと漏らした言葉のとおり、ライナスは額の辺りを押さえて大樹へともたれかかっていた。

 うつむき加減のため、表情を伺うことはできない。しかし、かなり辛そうに見える。

 彼へと差し伸ばそうとして腕を、けれど、ゆるゆると下ろした。

 今、眼前で戦っているウィンロー。郷の向こうのほうから響いてくる声々。それらが、私を我に返らせたからだ。

 でも、自ずと瞳に映る彼のことが心配でたまらない。

 そんな私に気づいたのかどうか、一瞬、彼は顔を起こした。痛みに耐えているのであろう様子で。


「光の、勇者……っ」


 ライナスは眉をひそめながらも大樹から身を起こすようにして、私へ険しいまなざしを向ける。しかし、すぐさま、ト……ンと大樹へ背を預けた。

 やはり、痛みを抱えているのだろう。おそらくは、かなりの。

 刹那、空中に裂け目が出現した。と思う間もなく、不気味な圧が私達を抑えんとするように感じられる。

 私の背筋にゾクリとしたものが駆けた。私を守る風精霊達もまた、気を張り詰めた面持ちとなる。


「闇の城が!?」


 それは、私の声だったのか。周囲の風精霊達のものだったのか。あるいは、両方だったのか。

 けれど、私達の緊迫感がさらに強まることはなかった。

 裂け目から闇の眷属達が這い出てくることはなく、魔王の声が響き渡ることもない。

 ただ、ライナスが静かにウィンダーを制する声だけが響いた。凛としながらも、どこか苦しげな声音だが。


「剣を収めよ、戻るぞ」

「し、しかし……! 長を、いや、ウィンローを仕留めておりません!」

「お前の意地など取るに足らぬことだ。……感じないか? 我が眷属達の気配が全て消えた。神珠や神剣の気配に変わりはないのにな」

「あ……」

「わかったか? 眷属達では、神珠の結界は破れなかったようだ」

「エンディオ様に強化されていたはずでございますが。それでも、と?」

「そうだ。ここは一旦退くのが賢明というもの。長を討ち取るのも、郷をお前のものとするのも、次の機会を待て」

「はっ!」


 ウィンダーが畏まる姿を、ライナスは冷徹に見据える。

 けれど、それよりもさらに冷酷なまなざしが私へと向けられた。ちらりと、ごく短い間だけ。


「俺も、次の機会には必ず。必ずや、勇者を討ち取り、エンディオ様に良き報せをもたらそう」

「ライナス……!」


 思わずこぼれ落ちた私の呼び声は、はたしてライナスに届いたのだろうか。彼の言葉に突き刺されたかの如くに痛む心を抱え、切なく響いた声は。

 ただ、その一瞬。束の間に痛みが増したかのように、彼は苦しげに瞳を閉ざした。

 しかし、それだけだ。

 程なくして、彼は裂け目の向こうへと吸い込まれるように消え失せた。

 無論、ウィンダーも同様に。

 それとともに裂け目も塞がり消え、禍々しい圧も失せていった。

 気がつけば、そよ風が優しく私の頬を撫でている。風精霊の郷を途切れることなく風が、呆然と立ち尽くす私を慰めてくれていた。

 つい今さっきまでの出来事が嘘であるかのようだ。闇の眷属達が侵入していたことも。ウィンローとウィンダーが兄弟で争っていたことも。

 闇色に染め替えられた装束をまとうライナスが凍りつかせるようなまなざしで、この場にいたとは思えないくらいだ。


「……ライナス。どうして……なの?」


 ぽつりと漏らした。勝手に唇からこぼれ落ちてしまったのだ。

 もしかしたら、涙をこぼす代わりであったのかもしれない。

 裂け目は完全に消え去っていて、涼やかな風そよぐ森の風景だけが瞳に映し出される。

 けれど、その裂け目が生じた空中を見つめてしまった。その向こうへと去っていた彼の姿が脳裏をよぎる。

 その時、ハッと気づいた。

 彼の額に刻まれた闇の紋章――その紋様を、はっきりと視認できたわけではないけれど。でも。


「グラディア様がおっしゃっていたとおりだわ。ライナスの紋章は違う。違ってたのよ!」

「そのようですね、レナ殿。兄上に浮かんだ紋章とは、紋様が違うように見えました。もちろん、見間違いでなければ――ですが」

「はい。だから、ライナスは……」


 そこから先は紡げなかった。

 ライナスが無理やりに闇に堕ちてしまったから、と言うのは簡単だけど。それはそのまま、彼と異なる紋様の紋章が額から垣間見えたウィンダーが、己の意志で闇に下ったと口にするのも同然になってしまう。

 だが、ウィンローは事もなげに続けた。私を見つめるまなざしは涼やかで、でも、寂しげに。


「……そうですね。闇の紋章は魔王からの贈り物とも伝えられていますから。望んで堕ちてきた者への、紋章という名の。それと異なる紋様ならば、今のライナス殿下を強制的に闇の従属下に置いているのやもしれません。グラディアが言うように」

「ウィンロー様、私は……」

「レナ殿?」

「私は、ライナスの額にある紋章を打ち消したいのです。彼以外の皆々に刻まれたものも、全て。そうすれば、ライナス達は元の……。きっと、元の彼に。だから!」


 私は凛として声を上げた。ウィンローの腕を掴み、一途に告げる。自らの決意を、切なる想いを。

 彼は表情を和らげ、頷いた。


「えぇ。なればこそ、あなたに託されし神剣が大いなる光の力を発現する刻をお待ちしております。もちろん、そのためには、あなたが無事に神子を見い出すことが不可欠になるでしょう。その巡り会いの刻が来たるのも願っていますよ」

「光の神子……私にとっての?」

「そう、神剣に真なる強き光が発現する時でもあります。闇を封じられるほどの強き輝きは欠かせません。……特に此度は闇の城がこの世界に姿を見せ、魔王が自ら姿を現さんとしていますから」

「それは、魔王が……エンディオが力を増している? いえ、増してきたということでしょうか?」


 息を呑む私に、ウィンローもまた、重苦しい緊迫感を滲ませて頷いた。

 それもそのはずだ。

 これまで一度として、こんなにも頻繁に闇の城の気配があらわになったことはない。

 故に、直々に魔王が足を踏み入れんとするような恐るべき事態にまで至ることは、未だかつてなかったのである。

 無論、そうなる前に勇者と神子が行使する大いなる光の力で、闇封じを成してきたからなのだが。

 そう、輝ける光の神剣を手にする光の勇者。そして――。

 その傍らに必ずいるという光の神子。

 この二人によってこそ、神剣は大いなる光の力を生み出すのだ。それこそが、闇を封じてきた。


「私は魔王の脅威を退けたい。闇を封じたい。そのためには、神子を見い出さねばならない――私にとっての光の神子を。でも、どうやって……? どうすれば出会えるのでしょうか?」

「確たる方法は、如何なる伝承にも文献にも残されていません。しかし、巡り会えた二人にだけは、わかるのだそうです。光輝ける姿を取り戻せた神剣が勇者とともにある時に、巡り会えたならば。あなたがよく知るライオネル陛下とルナ王妃陛下然り。光の女王ダイアナと我が友グラン然り」

「あぁ……! そうね、そうだわ! ルナ達も皆、そうだった」


 私の脳裏に、ニ年ほど前のルナとライオネルの姿がよぎった。

 かつて勇者として神剣を振るった女王ダイアナは、神子であり夫であるグランとともに自らの生命と引き換えに神剣を復活させた。強硬手段ではあるが、元のまばゆい輝きを神剣に取り戻させたのだ。

 神剣を託されたライオネルは、城に大挙して押し寄せていた闇の眷属を討ち祓った。

 もちろん、本来であれば起こり得ない事態の中でだ。勇者ダイアナが闇封じを成してから三十年ほどが過ぎただけの時期なのだから。

 再びの闇の侵攻は、起こるとしても百年から数百年も先であるはずだった。

 その後すぐに、ライオネルはライナスや近臣達とともにビギニアの離宮へと退避した。起こり得ない闇の襲来、すなわち、魔王エンディオの脅威を退けるための智慧を得るために。

 両親を喪った悲しみ、辛さ、やるせない憤りを少しだけも癒やさせようと、ビギニアは彼らにしばしの休息を与えた。

 そんな離宮で過ごした日々の中で、ライオネルは彼にとっての神子が誰なのかを悟ったのである。ルナもまた、愛する彼にとっての神子が自らであることを悟った。

 何が起こり、何があって、二人が互いの絆を自覚したのかはわからない。はっきりと言葉で説明することは、彼らにも難しかったようだ。

 でも、私は覚えているのだ。

 あの時期、辛い気持ちを乗り越えるために剣の稽古に明け暮れていたライナスのそばで、私も剣の稽古をしていたから。離宮の中庭で、懸命に。一心不乱に剣を振るう彼の隣で。

 その一角で、ライオネルはよく神剣を手に花壇の縁に腰掛けていた。

 今後のことを思案していたのであろう彼は、考え深そうに時折に鞘から剣を抜き差ししていた。

 そんな彼の隣に寄り添っていたのは、ルナだ。いつも、気がつけば自然と二人はともにいた。

 勇者として、また、亡き女王の後を継ぐ者として、大きな責務を負う彼を気遣い、彼女はそっと彼の手に自らの手を重ねたという。その手が、ふと剣の柄に触れることがあった――と後にルナが語ったことがある。

 その瞬間に何が生じたのか。彼女はうまく説明できないと言っていた。ただ、わけもなく確信できたのだと。彼女は、愛する彼にとっての光の神子が自らである、と。


「やっぱり神剣に輝きを取り戻さねばならないわ。早く、少しでも早く。そうすれば……!?」

「あなたの想いが叶うことを切に祈っていますよ、レナ殿。故にこそ、我らができる力添えを惜しむことはありません」


 さぁ、とウィンローは涼やかな微笑顔で私を促した。今この時に、神剣を託してあった風の神珠のもとへと。

 森の奥深い処にある少し開けた場に、周囲の大樹に守られるようにして神珠は静かに浮き上がっていた。風精霊の郷へ侵入した闇の眷属達に蝕まれぬことなく。

 捧げた神剣を内包した神珠を見上げれば、清かなる風が神剣へと流れ込んでいくのが見える。尽きることも途切れることもなく、ただ静かに風の力が注ぎ込まれていた。

 次第に、神珠の内にある神剣が淡い光を薄くまとい始める。輝ける、とまでは到底いかないが、剣身にうっすらと光が色づき始めた。

 やがて、再び私の手に戻った神剣は、確かに淡い光をまとっている。

 その瞬間に私がまとったドレスの輝きほどではないけれど、でも、確かに。

 私は淡い光をまとう神剣を軽く一振りすると、腰もとの鞘へと収めた。

 この神剣にさらなる輝きを取り戻し、大切な人達を救い出す。そうあらためて決意しながら。

 涼やかに微笑むウィンロー達に見送られて、私は風精霊の郷を後にした。

 離宮に戻ってきた私は、賢者の間へ急ぐ。

 玉座の彼女は安堵感に満ちた微笑みとともに、私を出迎えてくれた。でも、どことなく顔色が冴えない気がする。


「そなたが無事で戻ってきて何よりじゃ。しかも、神剣には今、大地と風の聖なる力が注がれておるのじゃろうて」

「はい! 少しだけですが、神剣が光るようになりました。でも、あの……」


 やはり、彼女の体調は心配だった。

 こうして、目の前にすると、顔色は決して良いとは思えない。それに、酷く疲れているようにも見えてしまうのだ。

 けれど、彼女は緩やかに頭を振ると、ゆっくりと立ち上がった。

 杖をつき、私のもとへと歩もうとする。と思う間もなく、杖を支えにしたまま倒れ込むようにしゃがみ込んだ。私への微笑みがフッと固まった瞬間に。

 咄嗟に私は駆け寄る。腰もとの神剣がガチャンと乱雑に揺れ、ドレスの裾が不規則に輝きを放った。


「ビギニア様!?」

「……大丈夫、じゃ。少し、よろけてしもうただけじゃ」

「少しじゃないでしょう!? お部屋に戻って休まれて下さい!!」


 ビギニアを抱き支える。ドレスの輝きに包まれるかのように、裾がふんわりと広がった。

 その輝きに包み込まれながらも、彼女は徐々にぐったりとなっていく。私の両腕にかかる彼女の重みがじわりと増していくように感じられた。

 それでも、私の腰もとで揺らめく神剣の鞘に彼女の手の甲が触れた途端、彼女はハッと我に返ったようだ。倒れ伏している場合ではない、と。

 彼女は自分で我が身を支えようとする。何とか立ち上がろうとしたのだ。私の手助けはいらぬと言いたげに。


「いかんいかん……我としたことが」

「そんなことないわ、ビギニア様。私が一緒についていくから、部屋に戻りましょう?」

「そなたのほうこそ、疲れておるじゃろうに。我のことはいいのじゃ。さぁ、手を離しておくれ。我は大丈夫じゃ。侍従長に部屋まで付き添ってもらう故な」

「でも、ビギニア様!」

「レナや、そなたも我も部屋で憩うのが肝心じゃろうて。何はともあれ、今はのう」


 そうして、ビギニアは侍従長を近くにまで呼び寄せ、その支えを受けて立ち上がった。

 そのまま、侍従長に支えられて賢者の間を先に退出する。杖の音を響かせながら、疲れたようにゆっくりと。

 彼女の疲れ切っているかのような様子が案じられたが、その後ろ姿を見送るしかなかった。

 彼女の姿が視界から遠ざかってから、私も自らの部屋へと戻る。


「無理をしてほしくはないのに……。闇の侵攻が、ビギニア様にも悪しき影響を与えてるのだわ、きっと……」


 私の呟きは、輝けるドレスが奏でる衣擦れの音に紛れて消えていく。

 部屋の扉を閉めると、そこにそっと背を預けて何ということもなく天井を仰いだ。

 腰もとの神剣だけが、鞘の中でキィ……ンと小さな音を立てる。何か言わんとしたかのように。そう、私の嘆息めいた吐息に応えるかのように。

 私はもう一度、息を深くつくと、神剣が収まった鞘を部屋のテーブル上に設けられた剣座に丁重に飾り置いた。

 そこから手を離せば、身にまとうドレスはすぐに普段のドレスへと戻っていく。見事なくらい、あっという間に。

 身に触れる感触が変わった。凛とした緊張感のようなものが溶けていく。

 その代わりとでも言いたげに、脳裏に様々なことが思い浮かんだ。考えねばならないことが少なくない。


「早く、できるだけ早く、神剣に本来の輝きを取り戻さなくてはね。石化されたルナとライオネル様も、ビギニア様の不調も、何とかしたいもの。そうよ、闇の紋章だって……!」


 風精霊の長ウィンローの兄ウィンダーに垣間見えた禍々しい紋章も、何とかしたい。

 その紋様とは異なれど、邪悪な紋様が刻まれたライナスのことも。

 そうだ。彼のことも救いたい。絶対にだ。

 その瞬間、私のことを冷酷に見据える彼の姿が脳裏をよぎる。何の躊躇いもなく私へ悪しき鋭い一閃を向けてきた彼の姿が、忽然と。

 知らずと私は、ドレスの裾を掴み締めた。それだけではなく、唇も噛み締める。

 ベッドに向かおうとしていた足取りは、気づかぬうちに窓辺へと向かった。通常であれば、ほのかな月明かりと煌めく星々に彩られた大空を眺められる窓辺へと。

 だが、今は、曇天のようなどんよりとした夜空が広がっていた。

 脳裏をよぎったばかりのライナスの冷たい表情が、尚も、私の心にジクジクした痛みをもたらす。止むことのない切ない痛みを。

 それはまるで、今の窓の外に広がる景色に似ているような気がした。


「ライナス……。あなたが、光の神子であってくれたなら……。――って、え? あっ?」


 それは期せずしてこぼれてしまった呟き。何の意図もなく、無意識のうちに。

 ただ、その瞬間、鼓動が大きく跳ね上がった。

 身の内を駆け巡る血の流れが、酷く熱く、酷く激しくなる。その一瞬、束の間だけだが。

 私は咄嗟に両の手で胸もとをキュッと押さえた。わけのわからぬ戸惑いに翻弄されたまま、ただきつく瞳を閉ざしながら。

 そんな私の動揺が伝わったのかどうか。

 世界の外から新たな裂け目を創りつつあった闇の城では、ライナスが不意に額を押さえた。刹那に走った痛みのために。

 という状況は、私には知る由もないことだったけれど。

 でも、彼は自らの部屋で、突如として生じた頭痛に眉をひそめた。ベッド際に腰掛けた身を苦しげに折り曲げるようにして。


「……またか。何なんだ、いったい? ――――っ!?」


 瞬間、ライナスは幻影を感じ取ったのだ。いや、幻視のようなものか。

 誰かの手が、指先がそっと、彼の額に触れようとする幻覚を。額にある彼の手に優しくそっと重ねられる誰かの手を。その、案ずるような温もりを。

 そう、誰か。

 刹那、ライナスはバッと立ち上がった。

 額に置いていた手を、その手に重ねられたように思えた手ごと振り払うように。

 まさか!? 何故!? と見開かれた彼の瞳が戸惑うように揺らめく。


「何だ……っ。どうして、勇者が……!? あいつの姿が、何故!?」


 その時、扉の向こう側から軽く叩く音が響いた。ライナスの動揺を打ち消そうとしたわけでもないだろうに、まさにその時にだ。

 ライナスは表情から感情を消して、静かに応じた。


「――どうした?」

「精霊の郷への次なる裂け目でございますが、火精霊の郷が先になった場合についてのご相談がございます」

「言ってみるがいい」


 扉の外で恭しくかしずいていた火精霊の女性は、妖艶にも見える笑みを浮かべて口を開く。

 彼女の言葉に耳を貸していたライナスは、やがて面白そうに冷笑った。疼くような痛みが続く額を抑えながらも。

 

「……なるほどな。エンディオ様にも申し上げてみよ。お許しを得られたならば、それでいくとしよう」 

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