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第6話 闇の紋章

 大階段の上からは、地精霊達が戦っているのであろう声と音が響いてくる。

 そんな彼らのもとへ駆けつけるどころか、眼前の状況にいっぱいいっぱいとなっている私がいた。


「ライナス……! お願い、思い出して……っ。私のことを思い出して……!!」

「何を思い出せと? お前が勇者であること以外に何があると?」

「…………っ、っっ」


 刹那、心が悲鳴を上げた。ただ、唇を噛み締める。

 ライナスから返ってくるのは、冷酷な笑みを浮かべた彼の言葉だけ。彼には届かない。今の彼には、どうしても。

 不毛なやりとりの繰り返しと、彼からの無慈悲な一閃を避け続けることは、思う以上に私の心と身に疲労感を蓄積させていたのだろう。

 気を抜いたつもりなんてないのに、身じろいで着地した瞬間に体勢を崩してしまった。何とか耐えようと両足を踏ん張るが、ガクリとしゃがみこんでしまう。

 反射的に、彼を見つめた。私へと剣を振り上げた彼の姿が、冷たく私の視界に飛び込んでくる。

 ……駄目だ。もう、これは避けきれない。

 と、思わず息を呑んだ。――その瞬間。

 私と彼の間に、忽然と大きな土造りの盾が生じた。いや、盾というよりは、壁か塀のようだ。

 床からググッと立ち上ってきた土盾が、彼の動きを止めたのだ。私へ斬り込んでこようとした彼は、グッと踏みとどまる。

 刹那、忌々しそうに土盾を見据えたものの、すぐに彼は小さく冷笑った。

 私の眼前で、土造りの大盾と化していたグラディアが人の身へと変わりゆく中で、彼は可笑しそうに嘲笑う。私を庇い守るようにスッと背筋を伸ばして佇む彼女を見据えつつ。


「地精霊の長だな? 余計な真似をしてくれる。いいのか、地上の仲間達を放っておいても?」

「私にそのような口を聞くとは……。光の王による加護がまだ息づく大地を司る私達を見くびってもらっては困ります」

「あぁ、そういえば……ずいぶんと静かになったな。そうか、眷属どもは持ち堪えられなかったか……。エンディオ様に強化されても、まだ完全とはいかないようだ」


 グラディアは瞳をひそめ、険しい面持ちとなる。彼を見据えるまなざしは、もはや睨みつけているようでもあった。

 いや、何かを推し量ろうとしているのか。何か――不穏な何かを捉えようとして。


「魔王は、そこまで力をつけているのですか? 神珠を守護せし私達の結界の中に入り込むとは……私達に気づかれぬままに?」

「そうだな、朗報だ。眷属どもが、精霊の郷でも幾ばくかは耐えられるとわかったのだからな。――ならば、今日はここまでとするか」


 次の瞬間、ライナスの背後で裂け目が生じた。何もない空間の向こう側に、禍々しい城壁のようなものが見える。

 グラディアの結界が張られているはずの郷の中に、魔王が無理やりこじ開けたのに違いない。だが、本来ならば信じられないことだった

 精霊達は自らが司る自然へと変化できる不思議な力を有し、自らの郷を守護する結界を大なり小なり生み出せるのだから。特に、長たる者の力が強大なのだ。

 にもかかわらず、の現状である。

 これは、光の王ライオネルの居城に出現した脅威と同じだった。予期できようはずもない危機的状況だと、あらためて思い知らされる。

 グラディアに庇い守られたまま、私は裂け目とライナスを見上げた。立ち上がれず、彼を映す瞳は揺らぐけれど。……でも。

 それでも、震える腕を、知らずとライナスへと差し伸ばした。掠れたように震えてしまう声で呼びかける。


「ライナス、待って……! 何故……なの? どうして……? ねぇ、教えて……!!」

「お前の言うことを訊かねばならない理由も事情も、俺にはない。どうせすぐにまた会える――お前の生命を取るためにな」

「ライナ……っ。――え? それ、は……何!?」


 不意に、私は気づいてしまった。まばたきを忘れるほどの戦慄を覚えたのだ。

 束の間、視界に入った一点――彼の額に垣間見えたものがあった。見たことがない、見覚えのない紋章のようなものが、彼の額に刻まれている。

 ライナスが軽く床を蹴り、ふわりと浮き上がった瞬間のことだった。グラディアと私を冷たく一瞥したまま、裂け目の向こうへと去っていく間際のことである。

 彼の前髪がさらりと跳ねた時、その額に刻まれた紋章が見えたのだ。かかり落ちる前髪が、すぐに隠してしまったけれど、でも、確かに。

 そう、決して見間違いではなかった。

 私の眼前で、グラディアが身を強張らせたのがわかったからだ。呟き漏らされた声にも。


「まさか、紋章……闇の!? でも、どうして……!?」

「どうもこうも、エンディオ様が刻んで下さった誉れ高き紋章だ。素晴らしいだろう?」


 ライナスは冷笑いながら、裂け目の向こうへと消え去った。と同時に、裂け目そのものも忽然と消えてしまう。

 残された地下の聖域には、静寂な気配だけがあった。

 グラディアが気遣わしげに私の両肩を支えてくれる。彼女のほうこそ、酷く苦しげな面持ちであったのに。

 だが、私はすぐに反応を返せなかった。すぐには、無理だったのである。しゃがみ込んだまま立ち上がれなかった。

 頭の中が真っ白になったかのようだ。それなのに、心の中はめちゃくちゃな状態であるようで。

 ただ、ライナスの額に垣間見えた禍々しい紋章と、それが闇の紋章だと察したらしいグラディアの声が、ぐるぐると脳裏を駆け巡る。それだけが、私の意識の中ではっきりとしていた。

 闇の紋章。

 それは、魔王に与した者達へ、魔王自らが刻むという悪しき紋章だ。魔王が創り出した闇の眷属とは異なり、この世界の者でありながらも闇のもとへと堕ちた者に与えられるもの。

 知識としては、私も知っていた。しかし、実際に目にしたことはない。

 私を支えてくれているグラディアの腕に、そっと手を触れさせた。力が入らないままに、彼女の腕を掴もうとする。必死で、懸命に。


「あれ……が闇の紋章なのですか? どうして、ライナス……が? 何故、ライナスの額に……?」

「レナさん、私に言えるのは二つだけです。一つは、あの紋章の禍々しさは間違いなく闇のもの。そして、もう一つ――あの紋章の紋様は、私の記憶にあるものとは全く違うということ」

「え!?」

「口惜しいことですが、遥かなる昔から魔王が侵攻してくる時代に巡り合わせた者の中には、望んで闇に堕ちる者もいました。彼らの額には、魔王から贈られた闇の紋章が時折に浮かび上がったものです。故に、その紋様を目にしたことは、幾度となくあるのですが……」

「ライナスのものとは……違っていたのですか? 紋様がいくつもあるのではなくて?」

「えぇ。私の記憶にはある闇の紋章は、ただ一つです。なれど、あの子の額にあった紋様には、全く見覚えがありません。ですから……」


 グラディアは嘆息をついた。やるせなさそうに、悲しみと憤りを綯い交ぜにした瞳をフッと伏せる。


「これは私の推測で、正しきものかわかりませんが……。あの子は自ら望んで闇に堕ちたのではない、と。無理やりに魔王に屈せねばならかったが故に、紋様が異なっていたのではないか……と。そう思いたい私がいるのですよ」

「……私も。私もです! だって、ライナスは何も覚えてない。何もかも忘れてしまってる。私のことも……。そんなの……っ」


 信じたくない、今でも。

 嫌だ。あんなライナスを見るのは、とても。とてつもなく。

 グラディアは私をやんわりと抱き寄せて、私の背を優しくトントンと撫でてくれた。私を落ち着かせようと、しばしの間ずっと。


「ライナスは、きっとあなたを思い出しますよ。私は、あなたのことを話してくれたあの子の幸せそうな笑顔を知ってますもの。それに、あの子の内なる光は容易に消えたりしない……そう思いたいのです」

「グラディア……様?」


 私は、おずおずと顔を上げた。急に止まってしまった彼女の語りが、何故かとても心に引っかかったからだ。

 彼女は静かに吐息をついた。

 穏やかなまなざしに、どこか懐かしさを灯す。私を見つめながらも、遠く過ぎ去ったいつかの日々を想うかのように。


「あの子が生まれた時、グランは己と同じような気配を感じたそうです。己自身と同様に、光の神子としての資質をもって生まれてきたのではないかと。グランがそう感じるほどの強き光を、あの子に感じたのかもしれません」

「光の神子――ライナスが!? でも、そんなことは全然……」


 初めて知る事実に戸惑う。

 そうでなくとも、闇の手先となって動くライナスの急変に頭の中で整理が追いつかない状況だった。

 でも、ふと思ったことがある。

 何気なく腰もとの鞘に手が触れたせいだろうか。この神剣の先代たる持ち主のライオネルの姿が、ふわりと脳裏をよぎったからかもしれない。

 彼は、ライナスの兄だ。光の勇者であった彼の弟として誕生したライナスが、もしも、光の神子であったとしたら?

 兄弟で勇者と神子であったのならば、大地の王国にとっても世界にとっても幸いだったのではなかろうか。

 もしかしたら、ルナがライオネルにとっての神子だと覚醒する以前に、兄弟で闇封じを成せたかもしれない。ニ年前に魔王が侵攻してきた災禍が、もう少しだけでも早く片付いていたかもしれないのだ。

 そう思い至ったものの、あくまで想像でしかない。

 実際のところ、ライナスは光の神子たる者ではなかった。ライオネルにとっての神子は、ルナだったのだから。

 ふぅ、と重たい吐息をつく私の考えを察したのだろう。グラディアは是非もないと静かに微笑む。


「そう簡単に都合よく成り立つものではないのでしょう。ライナスのことは、グランの気のせいだったようです。あの子の誕生祝いで光の祝福を授けて下さった賢者殿でさえも、あの子に神子たる資質を見い出せなかったのですから」

「グラン様も、ビギニア様でさえも……。そう……ですか。そうだったの……。でも、私……。私は……」


 ライナスは光だと思った。たとえ、彼が光の神子たる者でなくとも、少なくとも私には光のような存在だと。

 だから、悲しい。だから、辛い。だから、寂しい。だから、切ない。きっと、そうなのだ。

 彼が今、私のそばにいてくれないことが。彼が今、私に無慈悲で冷酷な姿を見せることが。こんなにも。

 だから……。だからこそ……。


「私は、元のライナスに戻ってきてほしい。私が知っている彼に、帰ってきてほしい。ううん、そうじゃなくて――」


 私は、グラディアを見つめる。真摯な気持ちのままに。いや、澄み渡るかのような想いで。


「取り戻したい。私は、ライナスを……本当の彼自身を取り戻したい。――救い出したい。闇から、彼を」


 ごく自然に、当たり前のように、私は告げた。自分が思うよりも早く。知らず知らずに、でも、きっぱりと。

 そんな私に、グラディアは慈しむように頷いてくれた。

 そうして、彼女は神珠のほうを仰ぎ見たのである。あぁ、と安堵したような喜ばしげな吐息が彼女の口もとからこぼれた。


「神剣が、あなたの手に戻りたがっていますよ。大地の力が神剣にみなぎっているのを感じます。まだ輝きは回復していませんが、通常の剣として使うことは可能でしょう。……さぁ、あなたの手を」

「――は、はい」


 私は息を呑みつつも、利き手を神珠のほうへかざした。

 その瞬間、スッと神珠の内から私へと神剣が緩やかに浮遊する。

 その柄をそっと掴んだ途端、私の身に沿うように光が弾けた。私がまとうドレスは速やかに輝ける風合いのものへと変じたのだ。

 勇者だけがまとえる輝ける装束へと。

 ふわりとドレスを煌めかせながら、私は立ち上がる。両の足でしっかりと床を踏み締めて立つことができた。

 剣の柄を握る手から全身へと、言葉では表せない何か不思議な力が伝わっていくように感じられる。

 温かで優しくて、私に力を与えてくれるような。身にも心にも深い衝撃が駆け抜けた私を、鼓舞してくれているような。

 今や磨き込まれた様相の剣身を見つめていると、つい先ほどのライナスの姿が映し出されたかのような気がした。

 胸にツキンと鋭い痛みが走る。

 その瞬間、この世界の外にある闇の城で、ライナスは忽然と生じた頭痛に額を押さえた。

 ――とは、私が知る由もなかった。

 そんなこととはつゆ知らず、ただ、この手にある神剣に、身にまとうドレスの煌めきに、千々に乱れた心を鎮められていく。まるで、さざ波立っていた水面が、次第に波紋一つ立たなくなっていくが如くに。

 ……諦めない。……くじけるものか。

 そんな想いが、不思議と胸の内に湧き起こった。

 悲しみも辛さも、痛みも切なさも、私から失せたわけではない。でも、それらに呑み込まれぬように、と。そんな気にさせられた。

 私は剣先を上にして神剣を両の手で掴む。そっと剣身へと額を寄せ、大地の力を感じ取ろうとした。

 額から伝わり広がるそれには、輝ける光の片鱗がある。そう感じた、確かに。

 剣身に、私の顔が映し出される。ただ真摯に、ただまっすぐに剣を見据える私自身が。

 私は、神剣を腰もとの鞘にしっかりと収めた。

 あらためてグラディアに向き直る。彼女の後ろには、同年齢くらいの男性と護衛の地精霊達が再び集っていた。

 彼ら皆々に、私は恭しく頭を垂れる。

 そんな私へ、グラディアは労うように微笑みかけた。優しく私の両頬に触れ、顔を上げさせてくれる。


「あなたの神剣に輝きが戻ることを願っています。その輝きが闇封じをもたらし、あの子の闇をも払うことも。そのあかつきには、またこの郷においでなさい。皆で歓待いたしましょう」


「はい。……はい、ライナスとともに必ず! ルナとライオネル様も一緒に、皆で必ず!」

「…………っ」

「私、頑張ります。だから、待っていて下さい。私は必ず……!」


 身を乗り出すようにして、ひたむきに告げる。絶対に違えたくない想いを。決意を。

 常に落ち着いた物腰であったグラディアが、初めて涙ぐんだ。眦にじわりと涙が浮かび上がらせ、私に感謝の抱擁をしてくれたのである。

 私を見送ったグラディアが、傍らに佇む男性に静かに語りかけたことを私は知らない。


「ねぇ、グード。私はレナさんを信じたいのです。でも、間に合うでしょうか……。勇者が神子に出会う刻は、はたして」

「我らはただ、祈り願うしかないよ。神子を見い出せるのは、勇者のみ。レナさん自身が見い出すしか……」

「グランが感じていたように、あの子が神子であったなら……どんなにか」

「レナさんの姉ルナさんがライオネルの神子であったように、ライナスがレナさんの……か。そのような巡り合わせであれば、確かに僥倖であったのだろうが」


 グラディアの夫グードは、彼女の肩をそっと抱いた。互いに寄り添い、穏やかな気配をたたえる地の神珠を見上げながら。

 そんな会話がなされていたことを知る由もなく、私は地精霊の郷を後にした。

 ちょうどその頃、闇の城にいるライナスがほの暗い廊下に佇んでいたことも、私が知るはずのないことだ。

 突如として生じた頭痛がようやく治まったのだろう。彼は額にあてていた手を離し、壁に背を預けた。

 そのそばにある窓の外は、禍々しい霧状のものがうっすらと取り巻いている。どんよりとした気配が色濃いせいか、彼は眉をひそめて窓から顔を背けた。

 その時、彼の脳裏を忽然とよぎった者がいたのだ。必死に彼の名を呼ぶ悲痛な声とともに、ごく一瞬だけ浮かび上がりかけた誰かが。

 しかし、それが誰であったのか、今の彼にはわからない。……わからなかったのだ、ほんの少しも。

 ただ、彼はくしゃりと額辺りの髪を掴んだ。


「何なんだ……? さっきの痛みは……」


 わけがわからぬまま、ライナスは苛立たしげに眉をひそめる。

 その時、前方から慌ただしく駆けてきた者がいた。

 彼に恭しく一礼しながらも、急くように声をかけてくる。彼よりも年上であろうに、ずいぶんと畏まっていた。彼が魔王による責め苦を受けていた際に、ひれ伏していた一人である。


「ライナス様、我らが魔王エンディオ様が待ちかねておいでです」

「あぁ。報告に向かおうとしていたところだ」

「地精霊の郷はいかがでございましたか? この先、風精霊の郷へ向かうことがあらば、是非とも私をお連れ下さいませ」

「風精霊たるお前がいれば、郷に入るのも容易いだろうからな。エンディオ様の御力をお借りするまでもなく、な」

「その折には、お任せ下さい。私がいれば、郷の結界など有って無いようなものですから」

「頼もしいことだな」


 ライナスは冷めた笑みを浮かべ、魔王が待つ大広間へと足を向けた。

 彼の言葉掛けに満足したのか、その者――風精霊は嬉しげにニヤリとした表情で彼に付き従う。恭しく俯いているため、その額に浮かび上がる闇の紋章は誰の目にも触れなかったけれど。

 しかし、その紋様は異なっていた。

 そう、ライナスの額に浮かび上がるものと全く違う紋様だったのである。

 もっとも、風精霊自身はもちろんのこと、当のライナス自身でさえも気づいていなかったのだが……。

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