第1章第8話
次の日の朝。
学校へと向かう準備をしていた初音は、鏡の前で念入りに髪を梳かしていた。
ショートボブなので大して見栄えは変わらないが、それでもこれから会う愛しの文弥のために必死にクシを動かす。
文弥は親友である紬の彼氏だ。
それはわかっている。
文弥が紬と別れる気がないことも。
だけど、最近の紬と一馬との歪な寝取られ関係を知ってしまった以上、初音は『大好きな文弥を正常な道に戻さないといけない』と必死だった。
中学生時代には考えられないほど時間をかけた、完璧なナチュラルメイク。
初音は元来文弥好みの清楚な夏の制服を着こなして、最愛の彼へと会う準備をする。
そして、初音は意気揚々と、家を出て文弥のアパートへと向かった。
途中、いつものように紬と合流し、文弥が住むアパートの一階にある彼の部屋のインターホンを押す。
すると、朝から眩しいほどの爽やかな笑顔の文弥が出てきた。
「おはようございます。文弥くん」
初音は文弥に胸をときめかせ、うっとりと目を細めた。
「おはよう。初音」
その可愛らしい姿に応えるように、文弥もいつもの優しい微笑みを浮かべた。
「おはよう。文弥くん」
紬も嬉しそうに、声を弾ませた。
「おはよう。紬」
文弥はどこか底知れぬ、狂喜を孕んだ笑みを紬に浮かべていた。
お互いに挨拶を交わすと、慣れた足取りで駅へと向かって歩き出す。
誰もが通りすぎるようなこの何気もない日常が、初音にとっては文弥との幸せな一日が始まる最高の瞬間だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の放課後。
紬は正門で文弥が来るのを待っていた。
勉強会が行われてから、文弥と初音が放課後に図書室で一緒に勉強をするのが、日課になっていた。
生真面目に校則をきちんと守ったスカート丈に肩まで揃えたミディアムヘア。
おバカだが紬は真面目な女の子だった。
文弥をそわそわしながら待っていたところに、薄ら笑いを浮かべた律がまたもや現れた。
「やあ、今日も可愛いですね。紬さん」
律は相変わらずイケメンだが、微笑みの目の奥はどこか歪んでいた。
「お、お世辞はいいです」
一馬から聞いていた噂通りの男だ、と紬は肌で感じて警戒する。
「そんな怖い顔しないでくださいよ。せっかく会いに来たのに」
警戒する紬に気づきながらも、全く気にする様子もなく律は薄っぺらな微笑み浮かべている。
「わ、私は会いたいとは思ってないです」
そんな律に紬は嫌悪感を露わにする。
「文弥くんは寝取られることに喜びを得る性的嗜好の持ち主らしいですね。私と一緒に彼を喜ばせませんか? 紬さん」
「な、何を言っているんですか! あなたとなんて絶対嫌です!」
「随分と嫌われてしまいましたね。ふふ。でも、文弥くんはどうですかね?」
「……ふ、文弥くんだってそんなの望んでません」
狂ってしまった文弥のことを思うと、少し不安になる紬。
「それはどうかな? ふふふ」
紬が困惑してる中、文弥と初音が正門へと歩いてきた。
「紬! 大丈夫!」
律に気づいた初音はすぐさま紬を守るように、彼の前へと立ちはだかった。
「そんな警戒しないでくださいよ」
律は一見爽やかな笑顔だが、目の奥にはどす黒い影が見える。
「あれ? あなたは確か? ベニテングタケ先輩?」
濁りの無い瞳で、文弥は律を見つめる。
「髪型だけで言ってるよね? 蓮見律だよ。君はやっぱり面白いね。ふふ」
「紬に何か用ですか?」
あくまでも冷静に、文弥は穏やかな笑みを浮かべた。
「君は寝取られるのに喜びを感じるんですよね? 手伝いたいと思いましてね」
律は不敵な笑みを浮かべて、文弥を見つめる。
「うーん、紬はいいの?」
文弥は紬に普通に問いかける。
「絶対に嫌!!」
紬は激しく即答する。
「紬が嫌がっているので、無理ですね」
「君は無理やり犯される彼女を見て興奮しないのかい?」
文弥は律の言葉に怒りを覚え、真剣な面持ちで言い返した。
「何を言ってるんですか! そういうのは僕の中では全く違います! 僕は僕以外の誰かに抱かれて快楽で喜びを感じている紬の姿が見たいんです!! 無理やりなんて論外です!!」
「そ、そういうことを大きな声で言うのはやめてほしいな……恥ずかしいから……」
部活帰りの下校途中の生徒たちに、興味津々の好奇な目で見られ恥ずかしがる紬。
「い、いったん落ち着こう。文弥くん」
同じくあたふたする初音。
「……噂以上に君はぶっ飛んでるみたいだね。今日は大人しく帰るよ。そこの君は名前を聞いてなかったね?」
「私のことは気にしないでください。あなたと知り合いになる気はありません」
初音は律に敵意の眼差しを向ける。
「ふっ、わかったよ。文弥くん。紬さん。そこの彼女もまたね」
律は目の奥は全く笑っていない作り物の笑みを浮かべながら、軽快に去っていった。
その後すぐ、何も知らない一馬がやってきた。
「何かあったのか?」
「何でもないよ。あ、一馬くん。ちょっとスマホを貸してくれる? 僕のスマホ充電切れちゃって」
「別にいいぞ。ほれ」
一馬は何の疑いもなく、文弥にスマホを手渡した。
「ありがとう」
文弥は流れるような動作で、画面の上で指先を躍らせると、スマホを一馬に返した。
「紬と初音もスマホ貸して?」
「え? 私のも」
紬は素直に文弥にスマホを手渡した。
「私もいいよ」
初音も続いて、文弥にスマホを渡す。
文弥は先ほどと同じ動作をすると、二人にスマホを返した。
『何をしたのだろう』と、初音は首を傾げたが、大好きな文弥の笑顔を見て考えるのをやめた。
その後、四人で帰路へとついた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
その夜。
文弥がいつもの勉強を終えて、そろそろ寝ようかと思ったその時──スマホのバイブ音が部屋に鳴り響く。
画面を確認すると、『今から電話していいかな?』と初音からのメッセージだった。
文弥は『うん、いいよ』と返信すると、すぐさま初音から電話が来た。
『何かあったの? 初音』
『文弥くんの声が聞きたくなって……。えへ』
電話越しなのに、初音は頬を真っ赤に染めていた。
『僕も寝る前に初音の声が聞けて嬉しいよ。ははっ』
ガシャン!
何かが落ちた音がした。
『初音!? どうしたの? 何かあったの?』
『だ、大丈夫です。手を滑らせてハーブティーが入ったマグカップを落としただけだから……』
『火傷とかしてない? 音が凄かったからびっくりしたよ』
『じ、常温だったから大丈夫。もうそんなに入ってなかったし』
『大丈夫ならいいけど。変な音がしたからびっくりしたよ。ふふ』
『ご、ごめんなさい。心配かけて』
『そんなこと気にしないでいいよ』
『あ、ありがとうございます』
初音は照れくさそうだが、とても嬉しそうだった。
『どういたしまして。ははっ』
『あ、あの、紬は大丈夫かな? 変な男の人に付きまとわれてるみたいだけど』
『あ、ベニテングタケ先輩のことかな? 大丈夫じゃないかな』
『どうしてそう思うの?』
『ベニテングタケ先輩は紬の嫌いなタイプだからね。初音もそうでしょう?』
『うん、大嫌いなタイプ』
『紬がベニテングタケ先輩に寝取られることはないと思うよ』
『うん、そうだよね。紬はああいう人相手にしないよね……多分』
一馬の件もあるので、初音は紬のことがちょっと心配だった。
『初音にも興味がある素振りだったから、初音も気をつけてね』
『私のことも心配してくれるんだね。嬉しいです。ふふ』
『当たり前だろ。初音は僕にとって大事な人だからね』
『……ブフォッ』
何か変な声がした。
『初音! どうしたの? 今の何の声?』
『ご、ごめんなさい! 大丈夫! ちょっと鼻血が出ちゃっただけ!』
『鼻血って大丈夫なの? どこかにぶつけたの?』
『だ、大丈夫だよ!どこにもぶつけてないし! 平気だから』
『ならいいんだけど。本当に大丈夫?』
『大丈夫だよ。でも、何だか頭がクラクラするから今日はもう寝るね』
『頭がクラクラするって? 今から頭を撫でに行こうか?』
『……ブフォフォッフォー!』
さっきよりも変な声がした。
『は、初音!? 今の豚と鶏が混ざったような鳴き声は何? 大丈夫なの?』
『大丈夫……さっきより大量の鼻血が出ただけだから……寝るね……おやすみなさい』
『……おやすみなさい。初音』
文弥は本当に大丈夫なんだろうかと思いつつ、ベッドへと滑り込むと深い眠りについた。
一方の初音は悶々として、なかなか寝つけずにいた。
初音は真面目だが、むっつりだった。
謎の声(青春だね)
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