第2章53話
美月の高校合格発表当日。
紬の部屋は、しんと静まり返った緊張感が流れていた。
紬と美月は、まるで祈るような真剣な眼差しでノートパソコンの画面を覗き込んでいる。
紬の指先が、ゆっくりと、マウスホイールをスクロールさせていく。
その隣で、美月は息をするのも忘れたように、じっと画面を見つめていた。
ぎゅっと握りしめた拳には、じっとりと汗がにじんでいる。
画面に並ぶ無機質な数字を、二人は一つずつ、じっくりと確認していく。
そして、次の瞬間──。
スクロールがピッタリと止まり、美月の受験番号が、鮮やかにその画面に浮かび上がった。
「あったよ! 美月ちゃん!」
「……夢みたいです。ぐすっ」
大粒の涙をこぼして喜ぶ美月を、紬は愛おしそうに、その小さな体をぎゅっと抱きしめた。
「私だって合格できたんだから、絶対に大丈夫だって言ったでしょ」
「……すごく嬉しいです」
「合格おめでとう。これで四月からは同じ高校だね」
「……よろしくお願いしますね。先輩。ふふ」
一週間くらい前に、すっかり人が変わった琉衣が、紬と美月に謝りにやってきた。
ぼろぼろと涙を流し、土下座までした。
少しおネエ言葉になっていたのは気になったが、猛省していることはわかった。
その時に美月を迎えにきた琉衣だったが、美月は戻ることを拒み、今でも紬の家で暮らしている。
もちろん美月の両親にも承諾は得ている。
その後も紬は美月の気が済むまで、ただ彼女を優しく抱きしめていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夕方。
美月が見事合格し、上機嫌の紬は、一人キッチンに立っていた。
今日は紬の母親が同窓会で留守にしているため、今日の晩御飯は自分が作ると買って出たのだ。
また、美月が無事に高校入試に合格したお祝いも兼ねてのことだった。
料理がまったくできない紬だったが、少しの緊張と大きな期待を胸に、気合いを入れるようにエプロンの紐をきゅっと締めた。
「よし! 準備オッケー!」
紬はタブレットで動画を見ながら、さっそく料理を始めていく。
メニューは、比較的失敗が少なそうなカレーライスに決めていた。
まずは、野菜を切るところからだ。
「涙が止まらない。ううっ……」
紬はタマネギを切りながら、ポロポロと涙を流している。
次に彼女がまな板に乗せたのは、一本のにんじん。
「えい! ……あれ? にんじんが包丁から逃げた。このにんじん、生きているんじゃないの?」
紬の料理の腕は、まさに破滅的だった。
「紬、大丈夫か? やっぱり父さんが作ろうか?」
「紬さん、私も手伝いましょうか?」
心配になった父親と美月が、たまらずキッチンへとやって来た。
「大丈夫だよ! お父さんと美月ちゃんはあっちで待っていて!」
父親と美月を強引にリビングへと追い返した。
続いて、IHコンロのスイッチを入れた。
そして油を引いたフライパンに、大きさの不揃いな、にんじんを投入。
さらに不格好なタマネギをフライパンへと放り込んだ。
最後にパックから肉を取り出し、フライパンに入れて炒め続ける。
「豚肉はしっかり火を通さないとダメなのよ。ふふふっ」
自信満々に呟く紬。
しかし、彼女が真剣に炒めていたのは、どう見ても牛肉だった。
パックの『牛バラ肉』という表記に気づくこともなく、なぜか豚肉だと思い込んでいる紬は、これでもかとじっくりと肉を加熱する。
肉に集中していたため、野菜が黒焦げになっていることに紬は気づいてなかった。
「あれ? お肉が小さく縮んじゃった……? いつの間にか野菜が黒焦げになってるし……まあ、ルーで煮込めばわからないか。ふふっ」
すっかり火が通りすぎた黒っぽくなった物体を、紬はフライパンから鍋へと移し水を加えて煮込み始めた。
そして、すべての証拠を隠滅するかのように、ドボドボとカレールーを鍋へと投下するのだった。
「これだけじゃ個性がないから、何か隠し味を足そうかな」
このまま煮込めば味だけは何とか確保できたはずだったが、紬が余計なことをやり始めた。
「カレーはやっぱり辛くないとね」
紬は、最初にタバスコを大量に入れた。
「少し入れすぎたかな? 少し甘くしようかな」
次に紬はハチミツを大量に投入する。
「うーん、甘くなりすぎたかな?」
試行錯誤の結果、豆板醤、七味唐辛子、牛乳にシロップ、マヨネーズ、ケチャップなど様々な調味料を入れ、もはや辛いのか甘いのか、そもそもカレーなのかすらわからない謎の料理が完成した。
紬はウキウキしながらカレーを小皿に移し、味見をしてみた。
口に含んだ瞬間、紬は表情を歪めた。
「……うっ……めちゃくちゃ不味い……」
「どうですか? 紬さん」
心配した美月が再びやって来た。
「……ちょっと失敗しちゃったけど」
紬は誤魔化すような苦笑いを浮かべている。
「……これなんですか?」
とてもカレーに見えない物体を目にした美月が絶句する。
「……一応……カレーなんだけど」
その後、美月が必死に味を調えたおかげでなんとか食べられるようにはなったが──もう、紬に一人で料理をさせるのは絶対にやめよう、と心に固く誓う美月だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
季節は三月に入り、暖かくなって来たが、それ以上に温かい温もりが隣で小さな寝息を立てていた。
文弥は、腕の中で眠る初音を愛おしそうに見つめている。
あれほど魅了されていた寝取られ愛は頭の片隅へと消え失せ、今は初音を愛することだけを考えていた。
彼女の寝顔を見ているだけで、文弥はただ幸せを感じていた。
初音を起こさないように、文弥はそっと彼女を抱きしめる。
そして、初音の甘い香りに包まれながら、その柔らかい頬に軽くキスを落とした。
しばらくして目を覚ました初音を見て、文弥は優しい笑みを浮かべた。
「おはよう」
「……おはようございます。文弥くん。えへへ」
二人はそっと唇を重ね、その余韻を感じながらゆっくりとベッドから抜け出した。
しばらくして、文弥と初音は迎えに来た紬と三人で学校へと向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
夕暮れ時。
初音は文弥の部屋をかいがいしく片付けながら、彼がバイトから帰ってくるのを待っていた。
文弥の母親は、一人暮らししている祖父の体調が優れないらしく、その看病のために実家へ戻っていて留守にしがちだった。
母親から実の娘みたいに信頼されている初音は、『文弥のことをよろしくね』と、すっかり文弥のことを託されていた。
「……ふぅ、こんなもんかしら」
綺麗に掃除した部屋を見渡すと、初音は一つ息を吐いた。
初音は脱ぎ捨てられていた文弥のスウェットを抱きしめると、顔を埋めて愛おしそうに胸いっぱいにその香りを吸い込んだ。
「文弥くんの匂いがする……ふふっ」
幸せに浸りながら部屋を出ようとした初音だったが、机の本棚に目が留まった瞬間、ぴたりと足を止めた。
そこに乱雑に並べられていたのは、あからさまなNTR系のライトノベルだった。
「しょうがないわね。ふふ」
初音は棚の本を手に取ると、綺麗に棚に並べ直した。
あれだけ寝取られを熱心に勧めてきた文弥だったが、今は興味がなくなったのか『寝取られ』の『ね』の字も言わなくなった。
しかし、NTR系の本は相変わらず熱心に読んでいる。
興味がまったくなくなった訳ではなさそうだ。
やっぱりまだ……私を誰かに寝取らせたい、とか思っているのだろうか?
初音は一冊の本を手に取ると、パラパラとページをめくり出した。
婚約者の女性を、間男に寝取られた男性の話だった。
婚約者がいるのに、何で浮気なんてするのだろう? 初音にはまったく理解ができなかった。
文弥くん以外の男の人に、抱かれるなんて想像もしたくない。
──しかし、ここでふと初音は思った。
逆に文弥が他の女性を抱く姿を想像したらどうだろうか? いや、それは絶対に嫌だ。
他の女性に取られるなんて、想像しただけで涙が出てくる。
──でも、もし。寝取られるのが体だけだとしたら?
心はずっと私のもので、『体』だけを誰かと分け合うのだとしたら。
誰かを抱く文弥の姿を想像した瞬間、初音の胸の奥から、熱いものが込み上げてくるのを感じた。
自分のことだけを想いながら、彼が誰か他の女性を抱く。
そう思ったら、背中に歓喜の電撃が走った。
初音の心の奥に眠っていた、どろどろとしたどす黒く歪んだ何かが、静かに目覚めようとしていた。
だが、初音はいやいや、ダメダメと、頭を振って本を棚に戻した。
そんな葛藤をしていると、バイトから帰ってきた文弥が初音を呼んだ。
「ただいま。初音」
初音は嬉しそうな笑みを浮かべて、文弥の元へと早足で歩み寄る。
「おかえりなさい。文弥くん。ふふっ」
初音が文弥の胸に飛び込むと、彼は優しく包み込むように抱きしめた。
謎の声(……変なことにはならないよね?)
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