第2章第54話
ホワイトデー当日の午後。
お昼ご飯を終えた文弥は、昨日、初音のために行列に並んで買ってきたバウムクーヘンをテーブルにそっと置いた。
「わあ、美味しそうだね。ふふ」
「ホワイトデーのお返しだよ。初音、好きでしょ」
嬉しそうな彼女の隣に腰を下ろし、文弥はバウムクーヘンを丁寧にそぎ切りにして皿へと取り分けた。
「ありがとうございます。嬉しいな」
初音は、小さく切り分けられたバウムクーヘンをフォークで一つ口に運んだ。
「美味しい! 文弥くんも食べて」
初音はフォークで小さく切ったバウムクーヘンを刺すと、『あーん』と文弥の口へと差し出した。
「本当だ。美味しいね」
いつもの食べさせ合いが続き、二人の世界へと浸っていく。
食べ終わると、初音は文弥に抱きつくようにして、ちょこんと膝の上に座り込んできた。
「もうすぐ春休みだね」
初音は、いつもの優しい微笑みを浮かべている。
「うん、どこか遊びに行こうね」
愛おしさを込め、初音の柔らかい髪を撫でた。
「私はこうやってずっとお家で、二人でいるのも好きだけどな」
「僕もこうして初音を抱きしめているとすごく癒されるよ」
初音に微笑み、文弥は大事な何かを守るようにその体を優しく抱きしめた。
「嬉しいな。えへへ」
文弥の背中に回された初音の腕に、この人は自分のものだと主張するかのように、ぎゅっと力がこもるのがわかった。
「何か動画でも見る?」
「うん、そうだね。何見ようか」
しばらくタブレットをスクロールして文弥は悩んだものの、たまにはアニメを見ようと、王道の純愛ものを選ぶことにした。
内容は、同級生に片思いをする男子主人公と、その仲を取り持とうと奮闘するクラスメイトの女子──という設定だった。
よくあるベタな恋愛ものだろうと、文弥は高を括っていた。
「どうなるのかな?」
「うーん、普通に付き合い出すんじゃないの」
文弥の予想通り主人公の片思いは成就し、二人は晴れて恋人同士になった。
距離は急速に縮まり、やがて二人は結ばれる。
「上手くいって良かったね」
「うん、そうだね」
自分の胸に背中を預ける初音を、文弥は後ろから改めてぎゅっと抱きしめた。
このまま甘美な展開が続くのだろうと思っていた矢先、物語は思いもよらない方向へと舵を切り始めた。
主人公が、あろうことか仲を取り持ってくれたはずの女子とも肉体関係を持ったのだ。
「まさかの逆NTRものだったとは……」
想定外の展開に驚いて、文弥は思わずボソッと呟いてしまった。
ふとチラリと初音を見やると──彼女は恍惚の表情を浮かべ、とろんとした瞳で画面をじっと見つめていた。
物語は主人公がどっちかを選ぶことはなく、三人で関係を続けていく、まさかのエンドを迎えた。
見終わった後も、文弥はアニメの内容より、今まで見たこともない初音の表情が気になって仕方なかった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
晩御飯を食べ終えた文弥は、初音を家まで送り届けていた。
初音の表情は、すっかりいつもの優しいものへと戻っていた。
きっと何かの見間違いだったのだろうと、文弥は胸を撫で下ろした。
初音のマンションの前に着くと、文弥は初音をじっと見つめた。
初音もそれに応えるように、文弥を見つめ返す。
ここで口づけを交わすところだが、文弥はちゃんと学習をしていた。
文弥は、辺りを念入りに見渡し、どこから現れるかわからない忍者のような薫子を警戒する。
「どうしたの? 文弥くん」
「……いや、ちょっと年増のくノ一が気になって」
文弥は薫子が隠れているのではないかと、辺りを注意深く観察する。
「誰が年増のくノ一よ!」
エントランスの前に植えられた木の茂みから、葉っぱを頭に乗せた薫子が姿を現した。
「お母さん! 何してるの!」
「あなたたちのキスシーンを見ようと隠れてたんじゃない。文弥くん? まさか私をそんな風に思っていたなんてショックだわ。ふふっ」
薫子は不敵な笑みを浮かべ、服にまとわりつく葉っぱを手で払った。
「いえ……そんな……ただの冗談ですよ……薫子さん」
「家に寄って行きなさい。ちょうど琴音も来てるから」
「え?」
文弥は琴音と言う名前に過剰に反応した。
「何そんなに嫌そうな顔しているの?」
「……嫌そうじゃなくて、正真正銘嫌なんです。今日は帰りますね」
「待ちなさい!」
文弥が踵を返そうとした瞬間、薫子が彼の腕を鷲掴みしてきた。
「は、離してください!」
薫子はそのまま文弥の腕に豊かな胸を押し付けるように組むと、有無も言わさず彼を無理やり引っ張っていった。
「あっ、待ってよ!」
背後から、初音の焦った声と足音が追いかけてきた。
マンションの部屋に入ると、リビングのソファに腰掛けていた琴音が、文弥に気づいた。
「文弥じゃん! 久しぶり!」
琴音はソファから立ち上がり、文弥の方へとと近づいてきた。
琴音は初音の三歳年上の姉で、現在は大学一年生、少し離れた街で一人暮らしをしている。
そして文弥にとっては、あの薫子の次に苦手にしている天敵である。
「お久しぶりです。ついに暴力沙汰を起こして退学になったんですか?」
「春休みだから帰省してきたのよ。あんた相変わらず小さいわね」
琴音は初音と違い、身長が百七十センチ以上ある。
スラッとしたモデル体型を誇示するように、文弥を見下ろしてきた。
「小さいのはお互い様じゃないですか」
「あんた、今私の胸をガン見しながら言った? セクハラ?」
「僕が見ているのは、胸ではなく真っ平らな壁です」
「その喧嘩買うわよ!」
すかさずファイティングポーズを取る琴音。
「まあまあ、お姉ちゃん、落ち着いて」
初音が苦笑いしながら、必死に琴音を宥める。
「そういえば二人は付き合ってんだって? 母さんから聞いたよ」
ニヤニヤとからかう琴音に、いつの間にか背後に立っていた薫子が口を挟んだ。
「琴音こそ、大学に好い人とかいないのかしら?」
「薫子さん、火を見るより明らかなことを聞いたら琴音さんが可哀想ですよ」
文弥が余計な追撃をした瞬間、稲妻のような琴音の正拳突きが、文弥の顔面に襲いかかってきた。
しかし、それを彼は天性の反射神経で紙一重でかわす。
「い、今、本気で当てに来ましたね!」
文弥は額の冷や汗を拭った。
「あんたが余計なこと言うからでしょ! 小さい頃は『琴音お姉ちゃん』って言っていつも私の後ろをついてきて可愛かったのに……はぁ」
わざとらしく琴音は大きなため息をつく。
「あれはついていっていたのではなく、あなたに無理やり拉致されていただけです」
文弥は、隠すことすら放棄した空っぽの瞳で、琴音を見つめ返した。
「大人になったら、琴音お姉ちゃんと結婚するって言ってたじゃない」
「それもあなたに無理やり言わされただけです。『言わなきゃ三日月蹴りをレバーに入れるわよ』って脅されて」
さらに感情の失った表情で、文弥は琴音をじっと見つめた。
「別にそんなに照れなくてもいいじゃない」
「照れてません。事実を述べているだけです」
「……あなたたち相変わらずね。とりあえず、紅茶淹れるからみんな座ってなさい」
文弥と琴音のやり取りを呆れた顔で見つめると、薫子はやれやれといった風にキッチンへと向かった。
その後、みんなでしばらく談笑した文弥は、マンションを後にし、帰路へとついた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
初音は文弥が帰った後の自室で、ベッドに倒れ込み、昼間見たアニメのことを思い出していた。
彼氏を寝取られているシーンを見た時の、あの胸を突いた謎の高揚感は、一体何だったんだろう?
もしも、あれが文弥くんだと思うと、胸が高鳴ってくる。
実は私も、文弥くんと同じ嗜好を秘めていたのだろうか?
最近は、文弥くんが私を見ながら違う女性を抱く姿を妄想してしまう。
ただの想像のはずなのに、身体が激しく火照っていくのがわかった。
これがもし、想像ではなく、現実になったとしたら……私はどうなってしまうんだろうか?
「ダメ! そんなことしたら!」
初音はぶんぶんと首を振った。
そんな、不埒なことを考えていた自分を無理やり現実へと引き戻した。
せっかく文弥くんが『寝取られ』のことを口にしなくなったというのに、自分がそんなことを考えてどうするの!
初音は、胸の底から湧き上がってくる狂おしい熱を必死に押し込めた。
──彼女の葛藤は始まったばかりだった。
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