第2章50話
倒れ込む紬。
初音は涙を流し、張り裂けそうな表情で彼女を見つめた。
「紬……ぐすっ」
初音の瞳から、大粒の涙がぼろぼろと溢れ出す。
美月も泣きながら慌てて駆け寄ってきて、その場に泣き崩れた。
「紬さん……ううっ」
二人の悲痛な様子を、薄ら笑いを浮かべた琉衣が見下ろしていた。
「あーあ、紬ちゃんはもう無理かな。初音ちゃん。とりあえず君が相手してよ」
シャキ、シャキ、と軽快な音。
琉衣は、バタフライナイフを右手で軽やかに振り回し、楽し気に初音を威嚇した。
怒りで立ち上がった初音が、身構えたその時──プルルル! と鋭い呼び出し音が鳴り響いた。
一瞬の隙を見て美月が、インターホンの解除ボタンに駆け寄る。
「やめろ! 美月!」
琉衣の視線が美月へと向いた、その刹那──。
初音の鋭い手刀が、琉衣のナイフを握る右手首に容赦なく叩きつけられた。
「ぐっ……!」
追撃。
間髪入れずに繰り出された初音の前蹴りが、琉衣の腹部へと深く炸裂した。
「ふざけるなっ! くそ!」
怒りに任せ振り抜いた拳が、偶然にも初音の顎を掠めた。
脳を揺らされた初音は腰が砕けるように、ストンと尻もちをつくように倒れた。
「ふふ、やっと大人しくなったか」
琉衣はしゃがみこむと、初音の豊かな胸へ向けて手を伸ばし始めた。
しかし、初音の視界に、切られたはずの紬が背後から襲いかかっていく姿が映った。
「初音に触るな!!」
「邪魔をするな!」
琉衣は立ち上がりざまに、力ずくで紬をぶん投げた。
そして、何の躊躇もなく紬の顔面を踏みつけようと右足を振り上げた。
しかし──。
「やめて!」
片足を上げたままの琉衣に、初音は力を振り絞って、地を這うように手を伸ばし、無我夢中で琉衣の足へとしがみついた。
勢いそのままにバランスを崩し、琉衣は後ろへと派手に倒れ込む。
「あ、紬……!? 切られたんじゃ……?」
初音はあからさまに驚いた表情を浮かべ、食い入るように紬を見つめた。
「お腹にソファの上にあったミニクッション入れていたの。ふふ」
紬はすぐ立ち上がると、満面の笑みを美月に向けた。
しかし、その直後、お尻に衝撃が走った。
「いたっ……!」
足元で倒れている琉衣に、思い切りお尻を蹴り上げられたのだ。
「やっぱり君が相手してくれるのかい? 紬ちゃん」
琉衣が不敵に手を伸ばしたその時──リビングのドアが激しく開き、文弥、一馬、志歩、そして嶺井が現れた。
ドアを開けて四人を招き入れた美月が、ふらつきながらも歩み寄ってくる。
「何だ君たちは!? 勝手に人の家に上がり込んできて! 出ていけ!」
怒鳴る琉衣の声が、一瞬でかき消された。
文弥の目が、倒れ込んでいる初音を捉えたからだ。
一瞬で、文弥の瞳が狂気に満ちた漆黒へと染まる。
理性を手放し、本能のままに身体が弾けた。
型などないまさに野生の動きそのままの右の拳が、琉衣の顔面を強烈に撃ち抜く。
そのまま後方に吹っ飛んだ琉衣に、文弥は馬乗りになり、容赦なく鉄槌を叩き込んでいく。
「ぐわっ……や、やめてくれ……っ」
文弥は光の消えた瞳で琉衣を捉え、冷酷無比な一撃を重ねていく。
「ぐふっ……許してくれ……ううっ…っ」
泣いて懇願する琉衣に、文弥はただ淡々と鉄槌を落としていく。
初音の目に映ったのは、自分たちを守ろうとする必死さなどはなく、ただ、愛する彼女を傷付けられた怒りそのものを叩きつける文弥の姿だった。
確かに琉衣も狂ってはいるが、純粋な狂気の深さで言えば、初音の目から見ても文弥の方が遥かに上回っていた。
止めないといけないと、何とか初音は体を動かそうとしている。
「嶺井っ! 文弥くんを止めて!」
命令するように、志歩は嶺井に向かって叫んでくれた。
一心不乱に鉄槌を撃ち込む文弥を、嶺井が後ろから羽交い締めにして止めた。
「文弥くん! 落ち着いて! こんな奴のためにあなたが罪を犯すことはないわ!」
文弥の鬼気迫る迫力に気圧されていた一馬も、慌てて制止に加わった。
「そうだよ! いったん落ち着こう! 文弥!」
「私は大丈夫だから……文弥くん……もうやめて……」
足元をふらつかせながら、初音が懸命にその背中へと歩み寄る。
その声が届いたのか、文弥の荒々しい動きがピタリと止まった。
「とりあえずみんなの手当てが先ね」
志歩が初音、紬、美月の順に、様子を見つめ小さくため息をついた。
「私、救急箱を持ってきます……!」
痛む体を無理に起こそうとした美月を、志歩がスッと手で制止した。
「あなた、一番怪我が酷そうね。無理しないで座ってなさい。……で、救急箱の場所は?」
美月から置き場所を聞きだすと、志歩はテキパキと歩き、すぐに救急箱を抱えて戻ってきた。
手慣れた手つきで三人の応急処置を終えると、彼女はふう、と小さく息をつくのだった。
その後、志歩が呼んでくれた会社の車で送ってもらい、それぞれ帰路へとついた。
文弥に心配された初音は、彼のアパートに泊まることにした。
また、美月も一人にしておくのは心配だということで、紬が彼女を家に泊めることになった。
最後に文弥は琉衣を警察に突き出そうとしていたが、志歩から『この男のことは私に任せてくれないかしら』と頼まれたので、彼女に全て委ねることになった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
その日の夜。
文弥はベッドに横たわり、初音を優しく抱きしめていた。
「何で僕を呼ばないで、紬と二人で行ったの? 危ないだろ」
「……ごめんなさい。焦っていて……もっと慎重になるべきだったわね」
「顎痛くない?」
文弥は心配そうな顔をして、初音を見つめた。
「うん、かすっただけだから。全然、平気だよ」
「そっか、それならいいんだけど」
「でも、紬に助けられなかったら、お腹をナイフで切られてたかも」
「なんだって……!?」
文弥の顔がみるみる青ざめていく。
「紬が盾になって守ってくれたの……あの時は紬が切られちゃったかと思ってびっくりしたけど……切れたのはお腹に入れてたミニクッションだったんだ……」
「もう、無茶なことはしないでね。初音に何かあったら僕はまた狂ってしまいそうだ……」
「ごめんなさい……約束するから今のままでいて」
「初音……大好きだよ」
「……私も大好きだよ」
二人はじっと見つめ合うと、静かに唇を重ね合わせた。
どちらともなく深い口づけを交わし、濃厚な熱を分かち合う。
呼吸をするのも忘れるくらいの長い口づけを終えると、文弥は初音のパジャマを丁寧に脱がした。
そして、露になった豊かな胸の先端にむしゃぶりつく。
「……ん……ん……文弥……くん……っ」
赤ん坊のように吸い付くと、それを舌で転がした。
やがて、文弥の指が初音の秘部へと触れ、優しく愛撫し始める。
「……ん……ん……あっ……っ」
初音が我慢できず、甘い吐息を漏らし出した。
文弥はさらに丹念に愛撫をする。
負けじと初音も、文弥の反り返る股間を優しく握る。
そして、彼女は手を優しく上下へと動かし始めた。
互いの愛を確かめ合うように、密やかな時間が溶け合っていくようだった。
やがて、熱を帯びた身体を求め合うように二人は重なり合った。
謎の声(一件落着かな)
◇◇◇◇◇◇◇◇
一馬のマンション。
一馬はソファに腰掛け、ぼんやりと夜景を眺めていた。
窓の外に広がる街の明かりはまるで星屑のようで、ざわめく彼の心を少しだけ落ち着かせてくれる。
「……あの、志歩さん。早乙女先輩は、いったいどこに連れていかれたんですか?」
一馬は気まずそうに、隣に座る志歩に尋ねた。
「うちの会社が所有している、山奥の別荘よ」
眉一つ動かさず、志歩は淡々と答える。
「え? まさか、穴を掘られて山に埋められたりするんですか……!?」
山奥の別荘といういかにも不穏なワードに、一馬は盛大に反応して身構えた。
「まさか、そんなことしないわよ。そんなことしたら、捕まっちゃうでしょ。ふふっ」
志歩は艶やかに、そしてどこか冷たい美しい笑みを浮かべる。
「じゃあ、早乙女先輩はどうなるんですか……?」
「……そうね。ある意味掘られることにはなるわね」
志歩は意味ありげに微笑み、言葉を濁した。
「えっ?」
一馬は不思議そうな顔をして、志歩を覗き込む。
「目が覚めたら、嶺井による『愛の授業』を受けることになるわ」
「……嶺井さんって、いつも運転手をしてくれるゴツイ強面の人ですよね?」
「ええ、そうよ」
「愛の授業というのは何ですか?」
「実は嶺井はゲイなのよ。あの男に本当の愛をたっぷりと教えてやるって張り切っていたわ」
「……えっ!?」
一馬は思わず絶句した──それが具体的にどういう授業内容なのか。
彼は、これ以上深く聞かない方が賢明だと直感し、そっと口をつぐんだ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
それから、一週間後。
嶺井の愛の授業をみっちり受けた琉衣は、すっかり別人のような目をしながら、新たな性の扉を力強く開いていくのだった。
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