第2章47話
土曜日の朝。
美月は、初音や紬たちとの勉強会に遅れないよう、図書館に行く準備を急いでいた。
リュックサックの中身を覗き込み、忘れ物はないか念入りにチェックをする。
筆記用具と参考書が収まっているのを確認すると、彼女はパタパタと足音を立てて玄関へと向かった
すると、珍しく琉衣が声をかけてきた。
「今日も出掛けるのか?」
「……はい、友達と勉強会がありまして」
「ふーん、どこで勉強会するんだ?」
琉衣は気だるそうに、頭を掻いた。
「……友達の家です」
「家は遠いのか?」
「……いえ、そんなに遠くはないです」
「そっか、気をつけてな」
その言葉とは裏腹に、琉衣の目が怪しく光った気がした。
「……行ってきます」
珍しい琉衣からの労いの言葉に少し戸惑った美月だったが、兄に一礼し、足早にマンションを後にした。
◇◇◇◇◇◇◇◇
美月は電車に揺られて、図書館へと向かったが、ロビーにはまだ誰も来ていなかった。
それもそのはず、気持ちが逸りすぎた彼女は、約束のまるまる一時間前に到着してしまったのだ。
「……早く来すぎちゃった」
美月は小さな声で、ポツリと呟いた。
仕方ないので彼女はパブリックベンチにぽすんと腰を下ろした。
あとはもう、みんなが来るのを大人しく待つしかない。
美月が一人で待っていると、千代と心愛の二人がいち早くやって来た。
「おはよう。美月さん」
美月がいるのを見つけると、心愛が優しく微笑みを浮かべる。
「おはよう! みつっち!」
続いて、千代も人懐っこい笑みをこぼす。
「おはようございます。心愛さん、千代さん」
美月は二人に深々と頭を下げると、嬉しそうに微笑みを返した。
そして、少しすると、文弥、初音、紬の三人が顔を見せた。
みんな集まり、図書館での勉強会が幕を開けた。
「ここはね。こうするといいよ」
相変わらず初音が、美月に勉強を丁寧に教えている。
そこへ、紬が自信満々に胸を張って割り込んできた。
「美月ちゃん、私にも気軽に聞いてね。私、分数の掛け算とか割り算を家で勉強してきたんだ」
「マキハラサンハ・ショウガクセイカラ・ヤリナオスノ?」
文弥が無機質な声で紬に問いかけた。
「そ、そんなわけないでしょ! いつでも質問してね。美月ちゃん」
「……また今度お願いします。ははは……」
さすがの美月も、これには苦笑するしかなかった。
「ねえ、今日も帰りにファミレス行こうよ」
向かいの席に座る千代が、ニコニコ笑みを浮かべながら提案してきた。
「あなたね、お金はあるの? この前も結局は私が奢ったんだけど」
怪訝そうに心愛が尋ねる。
「今日もお世話になりまーす」
千代は完全に奢ってもらう気満々の顔をしていた。
「もう、仕方ないわね」
何だかんだと千代に甘い心愛だった。
「初音と美月ちゃんの分は僕が出すよ」
文弥は、優しい笑みを浮かべて二人を見つめている。
「ありがとうございます。文弥くん」
「私もお言葉に甘えさせてもらいます。えへ」
初音と美月は顔を見合わせて微笑むと、文弥に向かって軽くちょこんと頭を下げた。
「あの……私の分は? 文弥くん?」
紬が不安そうな顔をして、文弥の顔を覗き込んできた。
「マキハラサンハ・オナカスイタンダッタラ・ヤセイノトリカブトノネッコデモ・タベトキナヨ」
文弥は一切の感情を拝した声で、淡々と告げる。
「何それ? 美味しいの?」
未知の食材(?)に、紬の瞳が純粋な好奇心で輝く。
「サア・ボクハタベタコトナイカラ・ワカラナイナ」
そう言って、文弥はあからさまに哀れむ視線を紬に向けた。
「……いや、ふみっち、食べたら死んじゃうから」
戻ってこれない聖域へと足を踏み入れかけたおバカな紬に、千代が呆れ顔をしてツッコミを入れた。
謎の声(※トリカブトは長時間持つだけでも皮膚から毒を吸収されるので、食べるどころか触るのもやめましょう)
気を取り直し、美月はひたすら勉強に集中しようとしたが、急にトイレに行きたくなり席を立った。
用を足し、トイレから出たその時──後ろから意外な人物に声をかけられた。
「おい、美月」
「えっ?」
美月が勢いよく振り向くと、ニヤニヤした琉衣が立っていた。
「……に、兄さん、どうして? ここに?」
「お前の後を着けたんだよ。まさか僕に嘘をついて、こんなところに来ていたなんてびっくりだよ」
突然の兄の登場に、美月は驚きを隠せない。
「……そ、その」
美月は言葉を詰まらせ激しく動揺している。
「こそこそと紬ちゃんたちと会ってるなんて思わなかったよ」
琉衣は悪びれる様子もなく、冷酷な笑みを深めた。
「……帰ってください。お願いします」
「お前さ、紬ちゃんは俺の玩具だって知ってるよね? 逆らう気か?」
琉衣の右手が美月の細い首へと伸び、容赦なくそれを鷲掴みにした。
「……うっ……く……くるしい」
冷酷に染まった手にさらに力が込められたその瞬間──初音と紬が美月に駆け寄ってきた。
「何してるの!?」
初音が叫んだ。
「大丈夫! 美月ちゃん!」
紬が心配そうに美月を見つめる。
二人の声に驚き、琉衣は絞めていた手を離した。
「……けほっ、けほっ……っ」
美月は咳き込みながら、苦しそうに首を押さえている。
「あなた、妹に何してるんですか!?」
初音が琉衣をキッと睨み付けた。
「何って? 少し躾をしていただけだよ。そんな怖い顔しないでよ」
琉衣の手が初音の肩へと伸びようとすると、紬が初音を守るように彼女の前へと出た。
「私の親友に汚い手で触らないでください!!」
怒りで顔を真っ赤にした紬は、手を横に広げて琉衣を睨み付けた。
「紬ちゃんまでどうしたの? 僕、紬ちゃんに話があるんだけど? また前みたいに家に遊びに来てよ」
「あなたと話すことなどないです! あなたの家には行きませんから! 帰ってください!」
「わかったよ。今日のところは帰るよ。あ、そうだ、紬ちゃん。またね。そっちのメガネの子も。ははっ」
美月は、去っていく琉衣の姿をじっと見つめていた。
思いのほか素直に退散した琉衣が、美月には不気味で仕方なかった。
その後、美月は不安な気持ちを抱えたまま、再び文弥たちの元へ戻った。
やがて夕方になり、勉強会を終えた美月は文弥たちとファミレスで楽しい時間を過ごした後、電車に揺られてマンションへと帰路についた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
図書館から帰るなり、セフレと乱れた時間を過ごした琉衣は、すっかり暗闇に包まれた大きな窓をぼんやりと眺めていた。
まさか美月が、水面下で紬たちと繋がっているとは思ってもみなかった。
脳裏によぎる思惑に、琉衣の唇には自然と不敵な笑みが浮かんでいた。
思いのほか紬に嫌われていたのを知った琉衣は、こうなったら力ずくしかないなと考えを巡らせる。
どうせならあのメガネをかけた胸の大きな子も、一緒に僕の玩具にしてやろうと、クズな頭を働かせていた。
どうやら美月はあの二人から可愛がられているみたいなので、あいつを利用すればいいか。
この部屋に連れ込みさえすれば、後は無理矢理やっちゃえばいいことだ。
そんなゲスな思いに耽っていると、琉衣の腕の中で、微睡んでいた金髪の女の子が頬に軽いキスをしてきた。
「ねえ、琉衣。私、そろそろ帰るね」
先ほどまで微睡んでいた彼女が悪戯っぽく微笑む。
「うん、またね」
琉衣が偽りの微笑みを浮かべると、彼女は手際よく服を着直して部屋を出ていった。
彼女を見送った琉衣が自室を出て、リビングに向かうと、美月がキッチンで洗い物をしていた。
「帰ったんだ。美月」
「……はい、一時間ほど前に帰りました」
「図書館ではすまなかったな」
「……べ、別に大丈夫でしたから」
昼間の狂気に満ちた琉衣の顔を思い出し、美月は肩を震わせる。
「いつから紬ちゃんと仲良くなったんだ?」
「ここに紬さんが来るようになってから、少しずつ話をするようになって……それからです」
「そっかぁ、全然、気づかなかったよ」
「……兄さんは私のことなど眼中ないですからね」
美月は悲しい表情をすると、そっとうつむいた。
「そんなことはないよ。お前は大事な妹だからな」
琉衣は美月を自分の方に引き寄せると、彼女を抱きしめた。
「……急にどうしたんですか?」
「可愛い妹を抱きしめただけだよ」
琉衣の顔を見るだけで美月はゾッとした。
何かを企んでいる狂った瞳。
取り繕ったような優しい声。
そのすべてが、ただたまらなく怖かった。
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