第2章第45話
次の日の放課後。
文弥は初音と紬を家に送り届けるため、夕暮れに染まる駅前通りを三人で歩いていた。
昼休みに一度顔を出したきり、その後、琉衣が姿を現すことはなかった。
幸いにも彼は学校では優等生で、バスケ部のエースでもある。
日々の勉強と部活で忙殺されているのだろう。
今の彼には、紬に会いにくる余裕などほとんどないはずだった。
「送ってくれてありがとう。文弥くん」
自分の家に着くと、紬は満面の笑みを浮かべた。
「キニシナイデイイ」
完全に感情の消えた声。
文弥はまるで、道端に落ちている石でも見るような冷ややかな瞳で紬を見つめる。
「だから! いつになったら普通に話してくれるの!」
「まあまあ、落ち着いて。紬。はは……」
初音は乾いた笑みを浮かべて、紬の肩に手を置いて優しく宥めた。
「文弥くん。私、今までのこと反省してるんだよ。許してとは言わないけど……」
「ヘエー・ソウナンダ」
文弥は全く無関心な瞳で見つめる。
「文弥くん……帰ろうか」
たまらず初音が声をかけた。
「うん、帰ろう、初音」
今度は一転、文弥は初音にだけ、無垢な天使のような微笑みを向ける。
「ちょっと! そのあからさまな態度の違いはなんなのよ!」
文弥の態度に、紬は発狂する。
「か、帰るね。またね。紬」
初音は引きつった笑みを浮かべていた。
「もう、次からはちゃんと話してよね。またね。初音、文弥くん」
紬に見送られる視線を背中に感じながら、文弥は初音の手を優しく握りしめ、その場を後にした。
二人で楽しくお喋りをしながら歩いていると、あっという間に初音の住むマンションの前へと到着した。
「送ってくれてありがとうね。ふふ」
「気にする必要なんてないよ。僕には当たり前のことだから」
「大好きだよ。文弥くん」
「僕も初音が大好きだよ」
二人は周りに誰もいないのを確認すると、優しい口づけを交わした。
「相変わらず仲が宜しいことで。ふふ」
自動販売機の陰から、薫子がひょっこり顔を出した。
そして、嬉しそうにニヤニヤしながら二人を見つめていた。
「お母さん! い、いつから見てたの!」
「大好きって言い合ってたところからよ。冬なのに汗かきそうなくらい熱かったわよ」
「こんばんは。薫子さん」
もうすっかり慣れてしまった文弥は、何事もなかったように薫子に頭を下げた。
「こんばんは。家に寄っていってよ。文弥くん」
「すみません。僕はバイトがあるので」
「そうなの? 残念ね。また遊びに来てね」
薫子は本当に名残惜しそうな表情を浮かべた。
「はい、じゃあこれで失礼します。初音。また明日ね」
「うん、お仕事頑張ってね」
初音が優しい笑みを浮かべて、文弥を労う。
「ありがとう」
初音に向かって優しく微笑むと、文弥はそのままバイト先であるスーパーへと向かった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
琉衣は部活を終えてマンションへ帰ると、いつものように、気まぐれで呼んでいる彼女をベッドの上で抱いていた。
だが、その肌の温もりを感じながらも、彼の頭の中にあるのは別の存在──どうにかして紬を連れ戻すことだけだった。
「琉衣くん。今日は会えて嬉しかった」
最近声をかけたばかりの、真面目を絵に描いたようなショートボブの純朴な少女が、シーツに身体を預けてうっとりと微笑む。
「僕も嬉しかったよ」
隣で無邪気に喜ぶ彼女の笑顔を視界の端に捉えながら、琉衣は適当な相槌を打った。
「私、もっと琉衣くんと会いたいな。ふふ」
「うーん、部活が忙しくてね。ごめんね」
「ううん、いいよ。仕方ないし」
「ありがとう。そう言ってもらえると本当に助かるよ」
「ううん、恋人だもん。当然だよ」
「そうだね。ははっ」
ただのセフレとしか思っていない琉衣が、形ばかりの笑みを浮かべた。
しばらく二人でピロートークを続けていると、彼女は満足したようで、服を着ると微笑みながら部屋を出ていった。
琉衣はそんなことなど、気にする素振りは微塵もない。
いつものようにシャワーを浴びに部屋を出ると、リビングで美月とバッタリ出くわした。
「あ、あの、兄さん。さっき出ていったあの人は、兄さんと恋人同士だと思っているのでは」
「そうみたいだね。まあ、でも、飽きたら捨てるから大丈夫だよ」
「もう、そういうのは止めた方がいいのでは……良くないです」
「はっ? 僕に意見する気なの?」
琉衣は容赦なく美月のお腹に拳を叩きつける。
「……うぐっ」
美月はお腹を抱えて踞った。
「いつからそんな偉くなったんだ」
琉衣は踞る美月の横腹を蹴り飛ばした。
「……うっ、す、すみません」
「おまえは黙って僕の言うことを聞いていればいいんだよ」
琉衣は踞る美月の頭を、足でグリグリと踏みつけた。
「……ご、ごめんなさい……兄さん……許してください」
「小腹空いたから何か適当に作ってよ」
踏みつけている足をどかすと、琉衣は狂気の笑みを浮かべて美月を見つめた。
「……わ、わかりました」
「うん、素直な美月に戻ったね。ははっ」
高笑いを上げながら、琉衣は足取りも軽くその場を去っていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
数日後の土曜日の夕暮れ時。
図書館での勉強を終え、初音と並んで駅前通りを歩いていた文弥の目に、見覚えのある後ろ姿が飛び込んできた。
「ねえ、あそこ歩いてる子、美月ちゃんじゃない?」
美月の存在に気づいた初音が足を止め、その背中を見据えた。
「そうだね」
二人は美月に駆け寄ると、後ろから声をかけた。
「美月ちゃん!」
「あ、初音さん、文弥さん。こんばんは」
「こんばんは」
文弥が夕日の光の中で親しみやすい笑みを浮かべると、初音もニコニコしながら美月に尋ねた。
「こんばんは。何してるの? もしかして紬に会いに来たの?」
「はい、紬さんのお家にお呼ばれして……すごく楽しかったです」
嬉しそうに微笑む美月を見て、文弥は『アレと遊んでこんなに喜ぶなんて、なんて奇特な人なんだ……』と思いつつも、それを口出すのは辛うじて踏みとどまった。
「美月ちゃん、まだ時間ある? どこかで話さない?」
「少しなら大丈夫です。ふふ」
「じゃあ、あそこに入ろうか」
初音は、近くのハンバーガーショップの看板へと視線を移した。
「はい……あっ」
美月が歩みを進めようとした、その時だった。
足元をもつれさせた彼女の身体が不自然に傾く。
「大丈夫? 美月さん?」
文弥は咄嗟に手を伸ばし、彼女の肩を掴んで支えた。
「…………っ!」
だが、美月の反応は予期せぬものだった。
見る見るうちに顔を真っ青に染め、ガタガタと身体を激しく震わせ始めたのだ。
「あ、ごめん、ごめん!」
ただごとではない様子に、文弥は慌ててその手を離した。
──その後、ハンバーガーショップのボックス席で落ち着き、少しすると、美月は少しずついつもの平穏を取り戻していった。
「……ごめんなさい。別に文弥さんのことではなく、私、男性が怖いんです」
「男性恐怖症なのかな?」
美月を心配そうに初音が見つめている。
「そうかもしれません……男の人に触れられると、勝手に身体が震えだして……」
思い出したのか、美月はまた少し顔を青ざめさせる。
「僕は気にしてないから大丈夫だよ。ははっ」
「本当は男の人と話すのも苦手なんですが、文弥さんは大丈夫そうです。ふふ」
文弥の無邪気な子供のような笑顔に、美月は何らかの安心感を覚えているようだ。
「そう、それなら良かった」
それからたわいのない話をしていると、美月は徐々に初音と文弥に心を許してきた。
「へー、美月ちゃん。うちの高校を受験するんだ」
「はい、もし合格した時はよろしくお願いします」
「うん、こちらこそよろしくね。うふふ」
「紬さんに勉強を教えてもらおうと思ったんですが、私には無理だと断られてしまったんです」
アレも身の程を弁えているらしいと、文弥は心の中でうんうんと頷いた。
「なら、明日も図書館で勉強するから、私たちと一緒に勉強する? あ、紬も呼ぼうよ」
勝手にメンバーに入れないでくれと、憤慨したが、初音の愛らしい笑顔を見たら文弥は何も言えなかった。
「え? いいんですか?」
美月が嬉しそうな顔で尋ねてきた。
「うん、もちろんだよ。いいよね? 文弥くん」
初音がキラキラした瞳で、文弥を真っ直ぐに見つめてくる。
「……うん、いいよ」
アレが来るなら嫌だと言いたかったが、二人の嬉しそうな姿を見ると言葉にできなかった。
文弥はハンバーガーショップを出ると、美月を駅まで送り届け、初音と二人帰路へとついた。
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