第2章第41話
午後一にまた──。琉衣からの呼び出しに応じた紬は、彼の部屋でただ抱かれるだけの時間を過ごしていた。
出会った頃の優しい面影は微塵もなく、ただ衝動をぶつけるだけの乱暴な営みだった。
愛されているどころか、完全に『精処理の道具』そのものだった。
「またね、紬ちゃん」
琉衣はいつもの張り付いた笑みを浮かべて、ベッドの上から紬を見送った。
「…………」
紬は返事をすることもなく、シャワーを浴びにいった。
シャワーを浴び終えた紬がリビングに向かうと、美月がソファに腰を落としていた。
「紬さん。コーヒーでも飲みませんか?」
紬に気づいた美月が声をかけてきた。
「え? うん。もらおうかな」
最初は戸惑ったものの、紬は笑みを返した。
二人はソファに向かい合って腰掛け、美月の淹れたコーヒーに口を付ける。
「紬さん、まだ続ける気ですか?」
「私には琉衣くんしかいないから……」
「どんなに尽くしても、兄さんは紬さんのことを愛したりはしませんよ。あの人は人を愛することができない人ですから」
美月は胸を締め付けられるような、酷く悲しげな顔をしていた。
「わかってるけど……一人は嫌なの……」
紬もまた、逃げるように俯く。
「無理すると紬さんが壊れちゃいますよ」
「……ありがとう。心配してくれて」
「このクッキー食べてください。美味しいですよ。えへ」
美月はテーブルの上のクッキーを紬に差し出した。
紬はクッキーを一つ摘まんで、口に運んだ。
「……本当に美味しい」
「母がどこかから貰ってきたお土産らしいです」
「お母さんが……?」
紬はふと疑問を抱いた。
そういえば、自分が琉衣たちの両親に一度会ったことがないのはなぜだろう。
「……あの、美月ちゃんのお母さんっていつもいないよね? お仕事してるの?」
「母親は仕事もしてますが、浮気相手の家の方に入り浸りですので、ここには滅多に来ません」
美月は表情一つ変えず、他人事のように淡々と述べた。
「えっ? お父さんは?」
驚きを隠せず紬は矢継ぎ早に尋ねる。
「父親も他にマンションを借りて、浮気相手と住んでいます。母親以上にここには来ませんね」
またもや美月は平然と答えた。
「琉衣くんと二人だけでここで暮らしてるの?」
「はい、もう、小学生の頃からですから、すっかり慣れましたけどね。えへへ」
美月はなんでもないことのように小さく微笑む。
「……そうなんだ」
「でも、両親が家に帰らなくなってから、兄さんは徐々におかしくなっていきました……。私にまで乱暴するようになって……」
美月の浮かべた笑顔。
それはあまりにも儚く、悲しげだった。
「えっ?」
あまりにも衝撃的な告白に、紬は言葉を失う。
「それから、外では優しそうな仮面を被って、女の人をここへ連れてきては……今みたいな」
「……美月ちゃん」
紬はたまらず美月に駆け寄り、その細い身体を抱きしめた。
「……ありがとうございます。紬さん」
「私、琉衣くんとの関係はもうやめる。だから美月ちゃんも、琉衣くんから離れた方がいいよ」
「良かった。手遅れになる前に兄さんとは離れた方がいいです。……私はもう手遅れだから兄さんからは離れられませんけど……」
「でも……」
「私はいいんです。それよりも紬さんは、もうここには来ないでくださいね……ふふ」
寂しげに微笑む美月の瞳から、ぽろりと涙がこぼれ落ちた。
「そうだ。連絡先を交換しよう」
紬はショルダーバッグから慌ただしくスマホを取り出した。
「え? いいんですか?」
美月の表情がぱぁっと明るくなり、嬉しそうな笑顔が弾ける。
「もちろん。ふふ」
紬は愛おしそうに美月を見つめ、優しく微笑んだ。
メッセージアプリで連絡先を交換した二人は、その後もしばらく他愛のないお喋りに花を咲かせた。
紬がふと壁の時計に目をやると、門限が刻一刻と迫っていることに気づく。
名残惜しさに背中を押されるように、紬はマンションの扉をあとにし、冷たい冬の夜風の中を急ぎ足で駆け抜けていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
文弥は初音と千代と一緒に、心愛の家へと遊びに行っていた。
たどり着いた心愛の邸宅は想像していたよりも遥かに広く、まるでどこかの格式高い屋敷のようだった。
しかし案内された心愛の部屋は、重厚な日本風の建物には似つかわしくない、淡いピンクと可愛らしいぬいぐるみで彩られたメルヘンチックな空間だった。
「ふみっち。意外でしょ。顔に出てるよ」
千代が茶目っ気のある笑みを浮かべる。
「……うん、もっとシックな感じの部屋かと思ってたから」
正直、予想外すぎるインテリアに文弥は戸惑いを隠せない。
「わあ、可愛い部屋ですね」
初音が興味津々な様子で、部屋の中をキョロキョロと見渡している。
「はい、文弥くん。これに座ってね」
「ありがとう。ここっち」
文弥は心愛から淡いピンク色のハート型のクッションを受け取ると、そっと腰を下ろした。
ほどなくして心愛が綺麗に切り分けられたケーキと湯気の立つ紅茶を運んできて、テーブルの上に丁寧に並べる。
「文弥くん。このフルーツタルトすごい美味しいから食べてみて」
文弥はフォークでケーキを掬うと口へと運んだ。
「本当だ。すごい美味しい」
「ねえ、ふみっちのケーキだけやたら大きくない?」
目の前に座る千代が、羨ましそうに文弥のケーキをじっと覗き込んでくる。
「千代。あなたこの前『少し太った』って言ってたわよね。少し控えなさい」
「うぐっ……」
図星を突かれ、千代はぐっと言葉に詰まってバツの悪そうな顔をする。
「あの、私は太ってないんですが?」
初音が控えめ、けれどしっかりと抗議の声を上げる。
「初音。あなたは栄養がすべて胸にいくんだから控えなさい」
「胸以外にもいってますから!」
頬を膨らませてぷんぷんと怒る初音だった。
しばらく四人で楽しくお喋りをしていたが、千代の発案で『ルーレットを回しお金持ちを目指すボードゲーム』で遊ぶことになった。
最初の手札は五千ドルずつ。
順番は文弥、千代、初音、心愛に決まった。
まず文弥がルーレットを回し、人形のコマが乗った車を指で摘まんで『大学コース』へと動かす。
止まったマスには『アルバイトをして一万ドルもらう』と書かれていた。
「いきなり凄いね! ふみっち!」
千代が文弥におもちゃの紙幣を手渡す。
続いて千代、初音がルーレットを回し、堅実に『ビジネスコース』を選んで進んでいく。
最後にルーレットを回した心愛は、文弥と同じ『大学コース』を進んだのだが──止まったマスには『大学へ行く入学金二万五千ドルをはらう』の文字。
「あちゃー、ここっち先輩はいきなり借金だね」
千代が心愛に玩具の紙幣を渡した。
「……お給料の高いお仕事に就職して挽回するから大丈夫よ」
序盤はビジネスコース組の初音と千代がコツコツとお金を稼いでいく。
しかし、文弥は無事に医者へと就職し、怒涛の追い上げを見せていた。
……その横で心愛だけが就職に失敗し、借金を抱えたままフリーターの道を突き進んでいる。
「次はここっち先輩だね」
心愛が祈るようにルーレットを回し、車を進めた。
止まったマスには『月に行ってウサギと餅をつく。十五万ドルをはらう』。
「月にウサギはいないわよ! これは不当な請求だわ!」
「ここっち。これはゲームだから」
荒れる心愛の肩を、文弥はポンポンと優しく叩く。
「……そ、そうね。たかがゲームだものね」
しかしゲームも終盤、文弥が『スーパードクター』へとランクアップして圧倒的トップへと君臨。
初音、千代とそれに続き、借金まみれの心愛は断トツの最下位に沈んでいた。
起死回生をかけた心愛のターン。
彼女はルーレットを回して進んだマス──
『アティサパン・デ・サラゴサ・モンスターによって貯水池に引き込まれそうになりながらケガをする。九万二千ペソをはらう』と書いてあった。
「なに! その長い名前の未確認生物は! なんで私だけ単位がペソなのよ!」
「まあまあ、ここっち。ゲームだから」
「納得いかないわ!!」
パニックを起こして発狂する心愛を、なだめる文弥と一同。
楽しい時間はあっという間に過ぎ、文弥たちは心愛の家を後にして、それぞれの帰路につくのだった。
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