第2章第38話
一馬に別れを告げられて、紬が真っ直ぐに向かった場所。
それは琉衣のところだった。
彼に慰めてもらおうと、安易な考えで彼が部活を終えるのを体育館の前で待っていた。
すっかり冬になり、日の暮れるのも一段と早くなっていた。
琉衣が出てきたのに気づき、紬は真っ先に駆け寄ろうとした──しかし、他の女子生徒に先を越されてしまう。
「琉衣くん!!」
紬は慌てて琉衣の傍に駆け寄ると、声を張り上げた。
「うん? あ、紬ちゃん。どうしたの?」
特に動揺することもなく、琉衣は平然としていた。
「その人は誰なの!?」
紬は隣にいる女子生徒を睨みつける。
彼女の鬼気迫る瞳に、女子生徒は怯えていた。
「ああ、友達なんだ。今日は彼女と遊ぶことにしたんだ。またね」
あっけないくらい自然に、琉衣は紬を残し去っていった。
残された紬は呆然と彼の後ろ姿を見送るしかなかった。
紬は一人でトボトボと家路についた。
部屋に入るなり、紬は吸い寄せられるようにベッドへと倒れ込んだ。
柔らかいマットレスに体が深く沈み込み、思わず小さなため息が漏れる。
「……どうしてこうなったんだろう?」
これまでの軌跡を思い返し、紬はぽつりと呟いた。
文弥だけではなく、一馬にもフラれてしまった。
いったい自分が何をしたというのか。
紬自身、自分がしでかしたことの本質をまったく理解していなかった。
だが、彼女の心はすぐ持ち直した。
『でも、大丈夫。私には琉衣くんがいるんだから』本気でそう信じ込んでいる彼女の思考は、どこまでも都合がよかった。
今日はたまたま先約があっただけ。
明日、また会いに行こう──そんなお気楽な決意を胸に、彼女は明日へと目を向けた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
次の日の放課後。
紬は意気揚々と、琉衣が部活をしている体育館へと向かった。
練習が終わるのを、今か今かと待ちわびる。
やがて、練習を終えた琉衣が紬の元へとやって来た。
彼女の姿に気づいた琉衣が、爽やかな笑みを浮かべて声をかける。
「あ、紬ちゃん。今日も待っていてくれたんだ」
「うん、部活お疲れ様。ふふ」
紬は嬉しそうに微笑んだ。
「今日、家に来ない?」
「うん、行く、行く!」
紬は自分のことだけを愛してくれていると、琉衣のことを信じていた。
二人は駅に足を向け、滑り込んで電車に乗り込むと、琉衣の住むタワマンまで移動した。
琉衣の部屋に入るなり、彼が紬を抱きしめ深い口づけを重ねてきた。
「る、琉衣くん! ちょっと待って」
紬は琉衣の体を軽く押して、突き放した。
「いいだろう? 紬ちゃん」
琉衣は優しそうな瞳で、真っ直ぐに見つめてくる。
「……うん、いいよ」
二人はそのまま制服を脱いでベッドに滑り込むと、欲望を押さえきれずに身体を重ね合わせた。
まだ熱い熱を帯び、ベッドに横たわる二人。
「紬ちゃん。もう一回しない?」
「え? でも、私、門限あるからそろそろ帰らないと」
「え? そうなの?」
琉衣は少しがっかりした表情を見せたが、すぐにいつもの爽やかな笑みへと戻った。
「……うん、ごめんね」
紬は申し訳なさそうに謝る。
「わかった。いいよ。他の女の子を呼ぶから」
琉衣は枕元のスマホを手に取ると、次の相手を探すように女の子を物色し始めた。
「……え? どういうこと?」
「紬ちゃんは無理みたいだから、他の女の子に相手してもらおうと思って、紬ちゃんは帰っていいよ」
自分だけが特別だと思っていた紬は、頭が真っ白になった。
同時に琉衣に捨てられたら、自分は一人になってしまう恐怖に襲われた。
琉衣は淡々とした表情で、紬の顔を見ようともせず次の相手選びを続ける。
「私、大丈夫だから! 呼ばなくていいから!」
思いもよらない琉衣の言葉に、紬は激しく動揺した。
──『言うことを聞かないと、また捨てられる……!』恐れを抱いた紬は、必死で琉衣に抱きついた。
「そう? じゃあ、しようか」
「……う、うん」
もうフラれたくないという気持ち一心で、紬は琉衣に身を委ねた。
二人は再び身体を重ね合わせる。
紬が家に帰る頃には午後八時半を回っていた。
琉衣の見送りもなく、一人で玄関へと向かうと、美月がちょうど自分の部屋から出てきた。
「あなたは? 確か? 名前は……?」
「槙原紬です」
「ごめんなさい。兄さんがたくさん女性を連れてくるものだから、全員は覚えられなくて」
美月は申し訳なさそうに頭を下げた。
「……たくさん? 女性を連れてくる?」
呆然と、相手の言葉をそのまま繰り返すことしかできない。
「ほとんどが身体の関係って本人たちも割り切ってますが、中には自分は特別な恋人みたいに勘違いしちゃう人もいるので……気をつけてくださいね」
「……お邪魔しました」
紬は茫然自失のままマンションを後にした。
目の前に突きつけられた事実を知りながら、紬はまだ『私だけは特別だから大丈夫、他の子たちとは違う、琉衣くんが私を一番愛してくれているんだから』と現実にフィルターをかけてしまう。
それよりも、もう、今からでは急いで帰っても門限には間に合わない。
電車に揺られながら、紬は門限を破ったことを母親になんて言い訳しようかと考えていた。
◇◇◇◇◇◇◇◇
今日のバイトを終えて文弥がスーパーを出ると、夜の街灯に照らされながら、初音がぽつんと佇んでいた。
文弥に気づくやいなや、初音の顔がパッと華やいだ。
「あ、文弥くん!」
嬉しさを隠しきれないといった満面の笑みを浮かべ、小走りでこちらへ歩み寄ってくる。
「どうしたの? 初音?」
「お仕事お疲れ様でした。迎えに来ちゃいました。うふふ」
初音は、これ以上ないほど愛しげな瞳で文弥をじっと見つめてくる。
「ダメだよ。女の子が夜一人で歩き回ったら、危ないよ」
文弥は、本気で心配そうな視線を初音に投げかけた。
「まだ夜の九時過ぎだよ。大丈夫だよ。ふふ」
「初音に何かあったら大変だから、これからはアパートで待っていてよ。いいね?」
「はーい。文弥くんは本当に心配性だね。心配してくれるのは嬉しいけど」
「じゃあ、帰ろうか」
文弥がそう言うと、初音は嬉しそうに彼の腕に抱きついた。
「うん、って、あれ? 紬?」
文弥は初音の視線を追うと、すぐ近くを歩く紬の姿が見えた。
「僕たちには関係ないから帰ろう」
文弥としては心底どうでもよかったので、初音を促してアパートへ帰ろうとする。
「でも、一人だし、大丈夫かな?」
初音は眉をひそめ、本当に心配そうな顔をしていた。
「彼女なら大丈夫だよ」
文弥はまったく興味ない様子で、これぽっちも心配していない。
「私、ちょっと行ってくる」
「大丈夫だって、ほっときな……あっ」
文弥の制止を振り切り、初音が紬の方へと駆け寄る。
ため息をひとつ、文弥は慌ててその背中を追いかけた。
「こんばんは。 紬」
初音は優しい笑顔で紬の顔を覗き込む。
「……初音と文弥くん」
紬は真っ青な顔をしていた。
「大丈夫? 顔が青いけど?」
初音は本当に心配そうに、紬を見つめている。
「……べ、別に何ともないわよ。それよりなによ? 文弥くんと仲がいいところを私に見せつけたいの? 嫌がらせ?」
まるで親の仇でも見るような強い視線で、初音を睨めつけた。
それを隣で見ていた文弥は、紬をグーで殴りたい衝動を必死に抑えていた。
「そ、そんなことはないよ」
紬のキッとした目と言葉に初音が少し怯んだ。
「まあまあ、もう暗いから家まで送って行くよ」
本当は紬を送りたくなんかないのだが、初音が心配しているので、仕方ないと文弥は二人の間に割って入った。
「わ、私は一人で帰れるけど……」
そう言ってはいるが、門限を破ってしまった紬は一人で心細かった。
文弥は初音と一緒に、紬を家まで送り届けることになった。
家に着き、紬が家のインターホンを鳴らすと、母親が血相を変えて玄関から出てきた。
「紬!? 門限は午後九時って言ったよね!」
「……ご、ごめんなさい」
紬は小さな声で謝ると、そのまま俯いた。
「ごめんなさい。おばさん……私が紬に声をかけて引き止めちゃって」
初音が頭を深々と下げる。
「おばさん、すみません。道で偶然会って、僕たちが話し込んじゃって……」
初音が申し訳なさそうに本当のことを言おうとしたため、文弥は咄嗟に割って入り、嘘の言い訳を被せた。
「文弥くんと初音ちゃんが紬と一緒にいたの?」
「そうなんです。ちょっと三人で立ち話をしていたら遅くなってしまって。すみません」
文弥も丁寧に頭を下げた。
「……そう、なら今回だけは許してあげるわ。次はないからね。早く家に入りなさい」
「……はい」
しょぼんとしながら紬は家へと入った。
怒りを収めた紬の母親が初音の顔を見ると、表情を緩めた。
「初音ちゃん、久しぶりね。ふふ」
「ご無沙汰してます」
初音は丁寧にお辞儀をした。
「初音ちゃん。気をつけて帰ってね。あ、文弥くんが一緒なら大丈夫ね」
「失礼します」
文弥と初音は紬の母親に軽く頭を下げると、その場を後にした。
二人は冬の夜風がもたらす冷気から逃れるように身を寄せ合った。
互いの体温を分け合い、温もりを確かめながら、静かに帰路へとつく。
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