第2章36話
琉衣との情事を終えた後。
家に帰った紬は自分の部屋へ入るなり、ベッドの柔らかさに身を委ねた。
琉衣に抱かれた余韻に浸り、深い幸せを感じている。
そこには現在の彼氏である一馬のことなど、頭の片隅にもなかった。
紬が琉衣と出会ったのは、体育館の中。
入学当初から、琉衣のことは彼女の耳には届いていた。
バスケ部にイケメンの先輩がいるという噂が一年女子の間で広まっていたからだ。
二年生にしてバスケ部のエース。
学業の成績も良く、まさに文武両道。
その頃は元彼の文弥がいたので、紬は全く関心はなかったが、最近になってふと思い出し、体育館へと足を運んでいた。
一目で琉衣を気に入った彼女は、それから足繁く通うようになっていた。
健気に通い詰める姿が琉衣の目に止まり、声をかけられたのが始まりだった。
なぜ琉衣が声をかけたのか、理由は明白である。
──簡単に落とせると思ったから。
琉衣には裏の顔があった。
彼女がいてもお構い無しに、他の女性を何人も口説いてはベッドへと連れ込んでいく。
手を出しすぎて誰が本命の彼女だったのか、当の本人も把握できなくなるほどだった。
そして、飽きたら空き缶を捨てるように、ぽいっと容赦なく捨てる。
そんな悪い噂も聞いていたが、紬はまったく気にしてなかった。
こちらの理由も明白だ。
紬はおバカだったからだ。
そんな中、現実に引き戻されるようにドアをノックする音が部屋に響いた。
「紬。入るわよ」
母親は部屋へと入るなり、険しい顔をして紬を問い詰めた。
「紬。あなたこんな夜遅くまでどこに行ってたの? 文弥くんとは別れたらしいじゃない」
「私、新しい彼氏ができたから。その人の家に行ってたの」
紬の言う『彼氏』は一馬ではなく、琉衣の方だった。
「そう、でもね。もう外泊はダメよ。門限も夜の九時までにするわ。破ったらお小遣いはなしだから」
「え? 何で急にそうなるの?」
「今までは信頼できる文弥くんと一緒だったから遅くなっても許してたけど、これからは絶対にダメよ。それじゃ、早く寝なさい」
紬に有無も言わさず、母親は部屋を出ていってしまった。
寝耳に水の紬だったが、すぐに『まっ、何とかなるかと』楽観的な考えに変わった。
彼氏がいるのに、またもや目の前の欲望に流され他の男性に抱かれた紬。
全く学習しない女だった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
夕方のコンビニ。
オレンジの西日が差し込む店内で、一馬はアルバイトをこなしながら、一人思考を巡らせていた。
『一度くらいの浮気なら許した方がいいのだろうか?』と思うが一馬は大きく首を振る。
『いや、やっぱり浮気はダメだろう………でも、昔は俺も寝取ってばかりいたから人のことは言えないか』思い切り頭を抱え込む一馬。
あからさまに思い悩む姿を見かねて、バイトの先輩である速水志歩が一馬に話しかけてきた。
志歩は一馬より三つ年上の大学生だ。
切りっぱなしボブが似合う、まさしくクールビューティーという言葉がピッタリの女性だった。
「何か悩みごと? 一馬くん?」
「志歩先輩。何で悩んでるってわかったんですか?」
「今の君の姿を見てわからない人はいないと思うわよ」
志歩は胸の前で腕を組み、冷静な口調で返す。
「実は重い話なんですが……」
深刻な顔を作る一馬。
「え? ご両親が亡くなったとか?」
志歩が声をひそめて尋ねる。
「いえ、親はぴんぴんしています」
「あ、もしかして重い病気が見つかったとか?」
「いえ、風邪も引いたことがないです」
「じゃあ、何よ?」
少しイラッとした様子で志歩が聞いてくる。
「実は彼女が浮気しているみたいなんです」
一馬は俯きながらボソッと呟いた。
「ふーん、そうなんだ」
志歩の返事は、拍子抜けするほどあっさりしていた。
「何か言い方が軽くないですか?」
「だってそんなの別れたらいいだけじゃない」
志歩は当然のことのように言い切る。
「そ、そんな簡単には、まだ彼女が好きなんですよ」
本当に好きなのかもう自信はなかったが、一馬はそう言い放った。
「今の浮気相手と別れたところで、その彼女、また浮気するわよ」
志歩は一馬の目を真っ直ぐ見つめながら告げる。
「え? そうですかね?」
志歩の鋭すぎる指摘に動揺する一馬。
「うん、そういう性格の人ってことね。仕方ないわね。さっさと別れた方が絶対いいと思うわよ」
「そ、そうですかね……」
「まあ、最終的に決めるのは一馬くん自身だから、私の意見を鵜呑みにすることないけど」
「志歩先輩って、やっぱり恋愛経験豊富なんですかね?」
「付き合ったことは一度もないわ」
さも当然といった風に、平然と言い切る志歩。
「え? ないんですか? 美人なのに」
一馬は客観的な意見を述べただけで、口説こうとは全く思っていなかった。
「え? 私、美人かしら?」
今まで無表情だった志歩の頬が赤く染まっていく。
「はい、スラッとしていて、雑誌のモデルみたいですよ」
「……そ、そうかしら」
志歩は顔を真っ赤にしながら、表情が崩れていく。
「絶対にモテると思いますけどね」
「一馬くんは私のことどう思う?」
「僕は好きですよ」
当然、一馬の好きはそれは異性としてではなく──頼れるバイトの先輩としてのものだった。
「そ、そう。ありがとう」
顔を真っ赤にして、志歩は照れている。
「でも、私が好意を告げようとするとみんな逃げていくのよね」
志歩は一馬には聞こえない小さな声で呟いた。
「何かいいました?」
「な、なんでもないわ! それより一馬くん! やっぱり今の彼女とは絶対に別れた方がいいわ!」
『絶対にそうすべきよ』という真っ直ぐな瞳で一馬を見つめてくる。
「……はあ」
志歩の瞳の圧に負け、再び葛藤し始める一馬だった。
冷静になり、彼女──紬のことが本当に好きなのかを、ただただ真剣に考えた。
そして、一つのシンプルな結論に辿り着く。
『俺、紬のことそこまで好きじゃないかも』それが一馬が辿り着いた答えだった。
休憩時間に入ると、すぐさま文弥へと『紬とは別れることにした』とメッセージを送った。
胸のモヤモヤが晴れ、一馬の心はすっかり穏やかになっていった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
次の日の朝。
一馬はいつもより少し早く学校へ行くと、紬が来るのを教室で静かに待っていた。
やがて、紬が教室に入ってきたので、一馬はすぐさま彼女に近寄っていく。
「紬。大事な話があるんだ。来てくれ」
「え? 大事な話って何?」
「ここでは言えないから来てくれ」
「……うん、わかった」
一馬は廊下に出ると、そのまま隣の空き教室へと入っていった。
その一馬の後を紬はトボトボと追いかける。
「話って何? 一馬くん」
紬は何の話か全くわかっていない。
「もう、君とは付き合えない。別れよう」
真剣な表情でそう告げると、一馬は紬の目をじっと見つめる。
「……えっ? 急にどうしたの? 何で?」
信じられないという表情を浮かべ、紬は目の前の現実に疑問を叩きつける。
彼女の天秤では完全に琉衣が上なのだが、いざ別れるとなると、急に一馬のことも惜しくなってきた。
身勝手でおバカな女である。
「早乙女先輩とキスしている写真を文弥からもらったよ。浮気しているんだろ?」
一馬はスマホの画面を、紬の目の前に突きつけた。
そこに映し出されていたのは、紬と琉衣が深い口づけを交わしている決定的瞬間だった。
「え? 何それ! そんなの知らないわ!」
思ってもいなかった出来事に、紬はえらく動揺している。
「知らないって、完全にキスしてるじゃないか。しかも濃厚なやつを」
揺るがぬ事実に、一馬はスマホの画面をもう一度紬に突きつけた。
「お願い許して! 一馬くん、あんなに私のこと好きだって言ってくれたじゃない!」
「いや、冷静になってよく考えてみたら、俺は紬のことはそんなに好きじゃなかったわ」
「えっ? それどういうこと?」
「とにかく、もう無理だから」
「か、一馬くんも悪いのよ! 前みたいに美味しいお店に連れていってくれないし! ブランド品も買ってくれないじゃない! だから、琉衣くんに寂しさを埋めてもらってたの!」
紬は訳がわからない理屈で、逆ギレしてきた。
自分はただの金づるだったのかと、一馬はすっかり呆れ果ててしまう。
「……とにかく、もう別れよう。別れて早乙女先輩と付き合えばいいだろう」
この時、一馬は皮肉にも文弥と同じことが脳裏をよぎった。
『なぜ紬を好きになったんだろう』と思いながら、紬を完全に冷えきった瞳で見つめた。
「いや! そんなこと言わないで!」
紬はすがり付くように、一馬を抱きしめた。
抱きつく彼女の両肩にそっと両手を乗せると、一馬は彼女の身体をそっと引き離した。
「さようなら。紬」
「待ってぇ!! 一馬くん!!」
泣きすがる紬を尻目に、一馬は空き教室を出ていった。
彼の心はスッキリし、秋晴れのように晴れ渡っていた。
その場に崩れ落ちて、泣きじゃくる紬。
キーンコーンカーンコーンと、朝のチャイムが空き教室に虚しく響いていた。
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