第1章第29話
休日の午前中。
バイトは夕方からなので、文弥は初音と図書館でテスト勉強をする約束をしていた。
彼女の到着を待っていると、古ぼけたインターホンがけたたましく鳴り響いた。
畳に寝転がっていたが、慌てて立ち上がり、文弥は玄関のドアを開けた。
そこにはにこにこと嬉しそうに微笑む初音の姿があった。
「おはようございます。文弥くん。えへへ」
「おはよう。初音。じゃあ、行こうか」
「うん、行こう!」
初音は元気よく頷くと、飛びっきりの笑顔を咲かせた。
図書館へ向かった二人は、人の少ない奥の席を選び並んで腰かけた。
それから、黙々とペンを走らせていると、時間はあっという間に過ぎ、気づけばお昼になっていた。
「ふう……お腹空いてきたね」
「あ、私、サンドイッチを作ってきたんだ。お昼に文弥くんに食べてもらおうと思って」
「へー、手作り? 楽しみだな」
二人は近くの公園へと足を伸ばし、木陰のベンチに腰を落とした。
「はい、どうぞ!」
差し出されたケースを開けると、綺麗にカットされた美味しそうなサンドイッチが隙間なく並べられていた。
「わあ、すごく美味しそうだね」
文弥はサンドイッチを一つ摘まむと、口へと運んだ。
シンプルな卵サンドだったが、絶妙な味付けに文弥の頬が自然と緩む。
「……すごく美味しいよ」
「本当? 嬉しいなぁ。うふふ」
「こっちの、もう一つは何かな?」
次に摘まんで口に入れたのは、ハムチーズサンドだった。
「これも最高。いくらでも食べられそうだ」
満足そうな文弥を見て、初音は水筒からコップにお茶を注いで手渡した。
「お茶どうぞ」
「ありがとう」
温かいお茶を一口啜り、文弥は小さく息を吐いた。
紬は料理が破滅的に苦手だったため、文弥はこれまで女の子の手料理というものを食べたことがなかった。
だからこそ、初音の家庭的な一面が、今の文弥の心に深く染み渡っていく。
初音は紬に比べるととても優しいし、気が利いて、おまけに運動も勉強もできる。
まさに、紬とは正反対の存在だ。
文弥は、自分は何で紬と付き合っていたんだろうと、そんな根本的な疑問が、文弥の頭の中で本気で膨らみ始めていた。
「どうしたの? 文弥くん?」
「いや、何で初音と付き合わないで紬と付き合ったんだろうと思ってさ」
「……えっ? 急に……ど、ど、ど、どうしたの?」
思ってもみなかった文弥の言葉に、初音は激しく動揺する。
「初音が彼女だったら、良かったなぁって思っただけだよ」
謎の声(な、なにこの甘酸っぱい感じは)
「わ、私も文弥くんが……彼氏だったら……う、う、嬉しいなぁ。なんてね。えへへ」
初音は雰囲気に流され、ついに本音を漏らし始めた。
「本当にそう思う?」
真剣な瞳で、文弥は初音を見つめた。
「う、うん、私、文弥くんのことが好きだから……」
初音は人生で一番勇気を振り絞って、その想いを言葉にした。
「初音!」
「は、はい!」
「僕と付き合ってください!」
言った本人が一番びっくりしていた。
それくらい、今の言葉はスッと自然に、口から滑り出ていた。
「はい、よろこんで!」
謎の声(……テンパりすぎて、居酒屋の店員さんみたいになってるよ)
「初音。ちなみに寝取られるとかに興味はな──」
「あるわけないでしょ!!」
文弥の言葉を遮るように、初音は即座に言い放った。
その後、二人は周りに誰もいないのを確認すると、チュッと口づけを交わす。
触れ合ったのはほんの一瞬。
それでも、真っ赤になって唇を押さえる初音の姿が愛おしかった。
図書館に戻って勉強を再開したものの、頭には甘い余韻が残ったまま。
やがてバイトの時間が近づき、文弥は初音を家まで送り届けるのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
付き合い始めてからというもの、文弥と初音は時間が合えばいつも一緒に過ごしていた。
今日も朝、アパートに迎えに来てくれた彼女とともに、文弥は学校へと向かった。
相変わらず紬が初音を鋭く睨み付けてくるが、常に文弥が守るように寄り添っているので、初音も次第に気にしなくなっていった。
教室へと入ると、千代がにやけながら近寄って来た。
「ふみっち! 聞いたよ! はつっちと付き合ってんだってね! にひひっ」
「うん、そうなんだ」
遠くの方で、ガタッ! と紬が何かを落とした音がしたが文弥はまったく気にも留めなかった。
「良かったね! ふみっち!」
「うん、ありがとう! ちよっち!」
嬉しそうに文弥が微笑むと、千代も満面の笑みを浮かべる。
休み時間になる度に、初音は文弥のクラスへとやって来た。
「二人ともラブラブだね。にひひっ」
そんな二人の姿を見て、千代が楽しそうに二人を冷やかすのだった。
「か、か、からかわないでよ。千代ちゃん」
「もう、キスくらいしちゃったの?」
初音は耳まで真っ赤にして照れている。
遠くの方で、ガタッ! と紬が椅子ごとひっくり返る音がした。
「や、やめてよ。もう」
初音はめちゃくちゃ照れてはいるが、満更でもない様子だった。
その光景を殺気のこもった鋭い眼光で、紬が睨み付けていたのだった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
放課後。学校の図書室のいつもの席。
いつものメンバーが図書室に集まってテスト勉強をすることになった。
だが、そこに一馬と紬の姿はなかった。
一馬は一緒に勉強をしたがっていたのだが、――『あの女(初音)と一緒に勉強なんかしたくない』。
そう言い放った紬に引っ張られるようにして、二人は離れた席で勉強を始めた。
「……付き合うことになったらしいわね。おめでとう」
心愛が複雑そうな表情を浮かべ、文弥と初音に声をかける。
彼女にとって文弥は今も好きな人だが、初音もまた、大切な友達になっていた。
「ありがとう、ここっち」
爽やかな笑みを浮かべ、文弥はお礼を言う。
すると、場の空気を読まない千代が、ひょっこりと顔を出した。
「ここっち先輩。もしかして、一緒に勉強するようなお友達、他にいないんですかー?」
「…………」
「じ、冗談ですっ! 冗談ですから! ごめんなさい……っ!」
千代は心愛に無言でこめかみをぐりぐりと拳で絞られ、涙目になるのだった。
四人で勉強してると、遠くの席で参考書を開いてフリーズしている一馬と紬が目に入った。
二人は、どこから勉強していいかもわからないのだろう。
その様子を見かねたのか、初音が紬の傍へと歩み寄った。
「ねえ、紬。一緒に勉強しようよ」
初音はテスト勉強に困ってそうな紬を見捨てられなかった。
「誰があんたなんかと! 気安く話し掛けて来ないでよ!」
紬の初音に対する憎悪を、もはや隠すことすらしなかった。
完全に目の敵にしている。
「……ご、ごめんなさい」
紬の迫力に、初音は気圧された。
「そんな言い方しなくてもいいだろう。ごめんね。浅井さん」
一馬は申し訳なさそうに、初音に謝った。
「一馬くんはどっちの味方なの!?」
「もちろん、紬だけど……」
紬の般若のような表情に、一馬はびびって口ごもる。
「私、向こうに戻るから。喧嘩するのはやめて。じゃあ、勉強の邪魔してごめんなさい」
初音はとぼとぼと引き返すと、文弥の隣に腰掛けた。
「もう、ほっときなよ」
「……でも、私は」
「そんな顔しないで。僕も悲しくなるから」
文弥は初音の髪を、指で絡めるように、そっと撫でた。
「……ありがとうございます。ふふっ」
「初音は笑顔の方が似合うよ」
「嬉しいな。えへへ」
文弥の優しい微笑みに、初音はホッと癒される。
「あのさ、いちゃラブするなら、他所でやってくれないかなぁ」
「本当にねぇ。ここは図書室よ。恋人同士がいちゃいちゃするところではないわよ」
千代と心愛の視線が突き刺さる。
恥ずかしくて、初音は顔を真っ赤にしてうつむいてしまった。
◇◇◇◇◇◇◇◇
テスト勉強も終えて、駅にたどり着いた文弥は、そのまま初音をマンションまで送って行った。
エントランスの前で、文弥は初音を優しく抱き寄せる。
そして、彼女の柔らかい唇にそっと口づけを落とした。
初音を送り届けた後の、二人の密かなルーティーンだった。
「初音。大好きだよ」
「私も大好きだよ。文弥くん」
二人は抱き合いながら、なかなか離れられずにいる。
いつまでもお互いの温もりを感じ合いたいかのように、甘い時間だけが過ぎていった。
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