50.幕間 特別だった時間と、灯った想い
リナがこちらを振り返って、もう一度手を振った。
オレも笑って手を振り返す。彼女が寮へ向かって歩いていくのを見届けてから、ようやく自分の部屋へ足を向けた。
(……ちゃんと戻れてよかった)
言葉を話せないまま、いつまでウサギでいることになるのか。本人が一番不安だったはずだ。もう普通に話せるし、仕事にも戻れる。喜ばしいことなのに、少しだけ寂しいと思ってしまう。
この二晩は、ずいぶん特別だった。
最初の夜、副団長がリナを預かると言った時、一瞬、迷った。
魔術の知識も、身体に何か異変があった時の対応も、副団長の方が詳しい。リナの安全だけを考えるなら、その方がいいのかもしれないと思った。
だけど、そもそもあのダンジョンへリナを誘ったのはオレだ。
オレが誘わなければ、こんな目には遭わなかったかもしれない。
だからこそ、誰が預かるのがリナにとって一番いいのかを考えた。
副団長ならちゃんと見てくれるとは思う。だけど言葉を話せないリナを見ているうちに、自分ならもう少し気持ちを拾えるんじゃないかと思った。
何がしたいのか。何が嫌なのか。
それに、本人が言いにくいことだってある。
トイレに行きたい時、恥ずかしそうだった。またそれを繰り返したり、後始末をお願いするのも嫌だろうと思った。
だから結局、自分のところで預かることにした。
最初の夜、ベッドの端にリナの寝床を作った。本人が嫌がらないように距離を取っていたのに、眠っている姿があんまり可愛くて、ついそばへ寄せてしまった。
小さな身体を丸めて、すやすや眠っている。頭を撫でても起きなくて、安心しきったような顔をしていた。
不安だっただろうに、ちゃんと眠れたようでよかった。
そう思ったら、急に何とも言えない気持ちになって、もう少し近くにいたかった。
翌朝、目を覚ましたリナは、自分が寝る前より近くにいることに驚いていた。
側に寄せたことは言えなかった。自分で移動したと思っているようだったし、言ったら困らせそうだったから。
ウサギだけど中身はリナだ。分かっていたし、困らせるようなことはしたくなかったのに。
翼が生えると、団長室を嬉しそうに飛び回っていた。最初こそ驚いていたのに、飛べると分かるとすぐに夢中になっていた。
翼を広げて得意そうにこちらを見る姿が可愛くて、何度も笑ってしまった。
初めて見た時から、かわいいなって思っていた。ダンジョンの話を楽しそうに聞く姿を見て、気軽に誘ってしまった。
実際に一緒にダンジョンへ行った日は、その帰りに三人で飲んで、呼び捨てで話すことになった。少し恥ずかしそうに「キリアン」と呼んだ顔も可愛かった。
その夜、酔ったリナを抱えて帰った時には、赤い瞳を綺麗だと言われて、不意を突かれた。
あの時も、可愛いなと思っていた。
それからも、笑った顔や、何かに夢中になっている姿を見ると、自然と目が向いていた。
(……オレ、ずっと可愛いって思ってるな)
思わず、笑ってしまう。
今日、リナが人間の姿に戻った時。
帰る時に、コーヒーの約束を思い出して誘った。
『リナ、今日はどうする? コーヒー飲みに来る?』
何気ない調子で声をかけたつもりだった。
でもあの時の団長室は、ちょっと怖かった。
団長と副団長の視線が、そろってこちらへ向いたのが分かったからだ。
(……そんなに見なくても)
リナは周りの空気など気にした様子もなく、約束していたからと嬉しそうに頷いてくれた。
嬉しかったけど、あの場で何か言うのはまずいなと思った。
……あれは、なかなかの緊張感だったな。
部屋でコーヒーを淹れて、2人でゆっくり話せた。昔の話を聞いてもらって、今度はリナの子どもの頃の話も聞いた。知っているつもりで、まだ知らないことがいくつもあった。
こんなふうに、何でもない話をして時間が過ぎていくのが、思った以上に心地よかった。
そして帰る前、リナが改まってお礼を言ってくれた。
『キリアンがいてくれてよかった』
そう言われた瞬間、ずっと曖昧だったものも、それまで別々にあったものも、全部ひとつにつながった。
(……オレ、リナのこと好きだ)
そう思った。
あの一言が、気持ちを自覚する決定打になった。
助かったとか、世話になったとか、そういう言葉なら、たぶんここまで嬉しくはなかった。
オレがやったことじゃなくて。
オレがいたことを、よかったと言ってくれた。
あの時、副団長に任せる方がいいのかと迷ったことを思い出した。
自分で大丈夫だったのか。リナが嫌がっていることを見落としていなかったか。
そんなことを考えながら過ごした2日間の最後に、本人から答えをもらったような気がした。
リナは何気なく言ったのかもしれない。でも、オレがいてよかったと思ってくれたことが、胸に来た。
顔に出さないようにするので精一杯で、まともな返事ができなかった。
そのあと、もしウサギのままだったらどうするつもりだったのかと聞かれて、正直に答えた。
『一生面倒見る気だったよ』
嘘じゃない。本当にそうするつもりだった。
もし戻れなかったら、リナはきっと自分が迷惑をかけていると思う。
団長も副団長も、放っておくはずがないとは思う。でも、2人には家も立場もある。いつか結婚することだってあるだろう。
その時、リナならきっと、自分がいつまでも世話になっていることを気にするだろう。
だったら、オレがいればいいと思っていた。
オレなら結婚しなければいい。
どれだけ長くあの姿でいることになっても、ずっと面倒を見る。それで困るとは思わなかった。
むしろ怖かったのは、そっちじゃない。
もしウサギの身体になったことで寿命まで変わっていたら。
それだけは、考えるたびに嫌な気分になった。
だから今日、人間に戻ったリナを見て、あれほど安心したのだと思う。
そこまで考えていたことまでは、リナには言わなかったけど。
だけど、リナが真っ赤になって、何度も聞き返してくるとは思わなかった。
あんまり可愛い反応をするものだから、つい笑ってしまったけれど、あれ以上は言わない方がいい。リナはようやく普段の生活に戻れたばかりだ。困らせたいわけじゃない。
からかっていないと言ったのも、本当だ。ただ、そこで真面目な顔をして押し通したら、リナはどうしていいか分からなくなるだろう。だから笑って、いつもの調子に戻した。
少しずつでいい。これからも一緒にコーヒーを飲んだり、話をしたりできれば。
ただ、団長室で向けられた視線を思い出す。
リナをダンジョンへ誘った時、彼女は一度、副団長へ確認を取った。
あの時の様子を思い返すと、リナの方も少しくらい副団長を意識しているんじゃないかと思う。
誰を好きになるかは、リナが決めればいい。
ただ、だからって、黙って見ているつもりもなかった。
今日、彼女の口から聞いた言葉と、別れ際に振り返ってくれた笑顔を思い出す。
少なくとも、嫌われてはいないと思う。オレにもまだ十分可能性はある。
(……うかうかしてられないな)




