49. ほどけた魔法と、忘れられない言葉
翌朝。
目が覚めると、昨夜と同じようにキリアンの腕の中にいた。背中の翼は畳んだままだった。
(……いつの間に眠ったんだろう)
起こさないようにそっと離れようとしたところで、キリアンが目を開けた。
「……おはよう、リナ」
「きゅ」
「体調どう? 翼も変わりない?」
頷いて、試しに翼を少し広げてみせる。昨日と同じように動くし、痛みもない。
「そっか。よかった」
キリアンは安心したように笑って、私の頭を撫でてくれた。
今日もまだウサギだ。でも、身体の変化がないことに、少しだけほっとした。
◇
朝食を済ませて騎士団本部へ向かうと、キリアンは予定通りダンジョンの調査へ出発した。
「行ってくるね。何かあったら、すぐ副団長に伝えて」
「きゅ」
(気をつけてね)
手を振る代わりに前足を上げると、キリアンが笑った。
私は団長室に残り、アインス様の机の近くのソファで過ごすことになった。アルベルト様もいつものように書類を確認している。
何もせず待っているのも落ち着かず、私は自分の机へ飛び、アインス様に署名用の魔道筆記具をとってもらった。
風魔法で書類を動かしながら確認し、筆記具に魔力を流して署名する。
ウサギの姿でも仕事ができると分かり、何枚か続けた。
「リナ。無理に仕事を進める必要はないぞ」
アルベルト様が机から顔を上げた。
「きゅ」
(はい。できるぶんだけです)
確認できるところまでやって、一息つくとアインス様がこちらへ来て、私をそっと抱き上げた。
「少し休憩しましょう。昨夜はよく眠れましたか?」
頷くと、アインス様はソファに座り、私を膝に乗せた。
「キリアンの部屋で、不自由していることはありませんか?」
首を振る。食事も寝床も用意してくれるし、困ったことがあればすぐに気づいてくれる。
「……そうですか」
アインス様は少し微笑んで、私の背中を撫でた。
「なんだか、かわいいあなたを独り占めされている気分になります」
「きゅっ?!」
驚いて顔を上げると、アインス様は微笑んで見つめていた。
(……ええと? ウサギだから?)
私が返事に困っている間に、アインス様はもう一度頭を撫で、私を机へ戻してくれた。
「何か食べますか? 今朝、果物を用意させたので良かったら食べてください」
「きゅ!」
(ありがとうございます!)
「キリアンもお昼を持たせてくれているので、好きなものを食べられるだけでいいですよ。残しても構いません」
きれいなお皿に少量ずつ、何種類もフルーツがのっていた。
(わざわざ用意してくれてたんだ……)
それから少し食べて、休憩を終えたら、アインス様は、午後の予定を確認するために魔術団へ向かった。
さっきの言葉が少し気になったけど、何でもなさそうに見えた。
(ウサギだからだよね。うん)
「リナ」
「きゅ」
アルベルト様が、少し言いにくそうにしながらこちらへ来た。
「……私も抱き上げてもいいか?」
「きゅっっ!!」
(え!!!)
ビックリして返事ができないままでいると、アルベルト様は困ったように笑った。
「君が抱き上げられているのを見て、自分も可愛がりたくなってしまった。すまない」
確かに。私だって多分誰かがウサギになったら触りたくて仕方ないと思う。
「きゅ」
(いいですよ!)
「……いいのか?」
「きゅ!」
アルベルト様はパッと笑顔になり抱き上げた。
「かわいい」
アルベルト様は頭だけでなく背中も優しく撫でていて、ずいぶん楽しそうだ。
(いや、いいんだけど。なんだろう。何とも言えない気持ちになる……)
こんなに長く撫でられるとは思わなかった。
(……アルベルト様は動物が好きなのかな)
普段のきりっとした表情とは違って、今はすっかり顔が緩んでいる。撫でられるのは気持ちいいけれど、こんなに撫でられると恥ずかしくなってくる。
「リナ、ありがとう。すごく満たされた」
「きゅ!」
やがてアルベルト様は私を机へ戻し、書類に向き直った。
◇
午後は、アインス様が私の身体に残る闇の魔力を測定しながら、昨日の実験結果を使って解呪ポーションの最終調整を進めていた。
ポーションの完成まで、あと少しらしい。
ルディ様とミナトも団長室に来ていて、机に広げた資料を確認している。
(……早く戻りたいな)
そんなことを考えているところへ、キリアンが戻ってきた。
「戻りました」
キリアンと目が合うと、自然に耳が立つ。私を見て小さく笑ったあと、キリアンはアルベルト様の前へ進んだ。
「キリアン。報告を頼む」
「はい。黒いウサギが出た場所と、その周辺を調査しました。同じような黒いウサギをさらに2匹発見し、どちらも確保しています」
(ウサギが2匹も?!)
「また、近くで小さな黒いネズミも複数見つかりました。こちらも闇の魔力を帯びていますが、ウサギほど強い反応ではありませんでした」
(黒いネズミまでいるの?)
「さらに、周辺では天然のものと思われる闇の魔石も発見しています。魔石はすでに回収しています」
キリアンは報告書をアルベルト様へ渡し、説明を続けた。
「周辺の過去の記録も確認したところ、小さなネズミに噛まれて体調を崩した人が複数いました」
「被害が出ていたのか?」
「はい。だるさなどの症状はあったようですが、治療用のポーションで回復しています。身体が変身したという記録はありません。ただし、今回見つかったネズミと同じものだったかは不明です」
アルベルト様が報告書に目を落とし、アインス様もキリアンの持ち帰った記録を確認している。
「現時点では、黒いウサギや闇の魔石との関連も確認できていません」
「分かった」
キリアンが頷き、報告を終えた。
「黒いウサギが2匹もか……」
ミナトが驚いていた。
「天然の闇の魔石自体が珍しいのに、あの周辺で黒いウサギが3匹も見つかるなんてね。まだ魔石が残っていたら、ほかの動物も食べてしまうかもしれない。同じような魔獣が増えるおそれがあるよ」
ルディ様の言葉に、アルベルト様が頷いた。
「それだけではない。人間がリナのように変身しても、周囲が本人だと気づかない可能性がある」
「……そうか。誰も見てなかったら、ただのウサギだと思われるのか」
ミナトが表情を曇らせた。
(……確かに)
私も、キリアンとミナトがそばにいなかったら、どうなっていたんだろう。
「第四は引き続き周辺を調査してくれ。ほかにも闇の魔石や同じような個体がいないか、行方不明者についても確認したい」
「承知しました。調査班を編成し、明日から捜索範囲を広げるよう指示します」
(大変なことになってきた……他にも被害者がいないといいけど……)
「見つかった個体と魔石は、魔術団で詳しく調べるね」
ルディ様が報告書を受け取り、過去の被害記録に目を落とした。
調査の話が一区切りつくとアルベルト様はいつもの仕事に戻り、キリアンはこの部屋で今後の調査計画書を作っていた。
アインス様とルディ様は、再び解呪ポーションの資料へ向き直って、ミナトはその手伝いをしていた。
ルディ様が術式を確認して頷く。
「うん。この計算で大丈夫そう」
「術式を計算し終わりました。一度、配合してポーションを作ってみましょう」
アインス様が、ポーションを作り始めた。薬草を粉状にして混ぜ合わせて、かき混ぜながら魔法で反応させている。
(ああやって、ポーション作るんだ)
私は二人の様子をじっと見つめる。
(……どうかな)
しばらくして、アインス様が顔を上げた。
作ったポーションを測定器にかけ、反応を確認している。
「ルディ、こちらの確認も終わりました。反応も間違いないです」
「うん。これなら大丈夫そうだね」
ルディ様が嬉しそうに頷いた。
「リナ」
ルディ様の視線が私へ向いた。
「解呪ポーションが完成したよ」
「きゅっ?!」
(できたの?!)
「できたのか!」
アルベルト様とキリアンが立ち上がった。
私も思わず身を乗り出す。ずっと待っていた知らせだった。
まだ元に戻れたわけじゃないけれど、嬉しくて翼がぱっと広がった。
「呪いを解いて、翼も消えるように調整した」
「きゅっ!」
アインス様も頷いた。
「リナ。今から、このポーションで解呪を試しましょう」
「きゅっ」
私は大きく頷いた。
「ほんとによかった」
キリアンが笑って、そっと頭を撫でてくれた。
「良かったな、リナ。最後に少し飛んでおいたら?」
「きゅ!」
(うん!)
翼をパタつかせて飛ぶと、ミナトはニカッと笑った。
◇
最後の飛行を終え、いよいよ解呪を試すことになった。
団長室の一角に、簡単な仕切りを用意していた。仕切りの外には、これまでの検査でも使っていた水晶と測定器、それに記録用の紙が並んでいる。
ポーションを飲んだあとの魔力の反応も、そちらで確認するらしい。
人間に戻ったら裸になるので、キリアンが持ち帰ってくれていた私の服も、仕切りの内側へ置いてくれている。
(……そうだよね。忘れてた)
翼が生えた時には、服のことまで考えていなかった。
(あの時、人間に戻っていたら……危うくみんなの前で裸になる所だった!)
「リナ、オレたちはここにいるからね」
仕切りの向こうからキリアンが声をかけてくれた。
「きゅ」
みんなは仕切りの外にいる。こちらからも姿は見えないけれど、声が聞こえるだけでも心強かった。
小さな器には、解呪ポーションが入っていた。
「リナ、準備はいいですか?」
「きゅっ」
「では、ポーションを飲んでください。飲み終えたら声を出して知らせてくださいね」
器へ顔を近づけ、少しずつ舐める。飲み込むと、身体の奥へ魔力が広がるような感覚があった。
最初に飲んだ解呪ポーションも、ここまでは同じだった。
(今度こそ……)
残さず飲み終えて鳴くと、しばらくして身体の奥にかすかな温かさが生まれた。
初めはほんの小さな感覚だったのに、じわじわと広がっていく。身体の奥に残っていたものが、少しずつほどけていくようだった。
「測定器に反応が出ています。ルディ、翼の方は?」
「うん。昨日の記録と比べても、呪いの反応は弱まってる。翼に対応する部分の魔力も変わってきたよ」
背中がじんわり熱くなった。畳んでいた翼の付け根にも温かさが広がり、身体の周りには淡い光が浮かび始めた。
(……大丈夫かな)
「リナ、苦しくありませんか? 大丈夫なら声で教えてください」
「きゅ」
不安はあるけれど、痛みはない。
そう思った次の瞬間、身体を包む光が強くなった。
「……きゅっ!」
身体がぐらりと揺れた気がして、思わず目を見開いた。すると、目の前にあった器が少しずつ遠ざかっていく。
(……え?)
さっきまで高く見上げていた仕切りが、みるみる低くなっていく。床に近かった視線が上がり、自分の身体が大きくなっているのだと気づいた。
「……あ」
声が出た。いつもの「きゅ」じゃない。ちゃんと、自分の声だ。
目を落とすと、床についているのは前足ではなく、見慣れた自分の手だった。指を開いて、握ってみる。
腕も足も、元に戻っている。
「戻った……!」
信じられなくて、もう一度声を出してみた。
「戻りました! 私、人間に戻りました!」
「よかった!」
キリアンの声が聞こえた。すぐ近くにいるのに、顔を見られないのがもどかしい。
「リナ、体調はどうですか?」
「大丈夫です!」
「背中も確認してください。翼が残っている可能性があります」
(あっ、そうだった!)
慌てて肩越しに背中を見て、手でも確かめる。あれだけはっきり感じていた翼の感覚がない。
「……ありません! 翼も消えています!」
仕切りの外から、ルディ様の嬉しそうな声が上がった。
「やった! 両方とも解除できたんだね!」
「よかったです。リナ、まずは服を着てください。着替え終わったら、もう一度身体の状態を確認します」
「はい!」
服を着ながら、改めて自分の手を見た。いつもの身体で、いつもの服が着られる。それだけでこんなに嬉しいとは思わなかった。
仕切りから出ると、アインス様がすぐに近づき、私の手を取って慎重に魔力を流した。ルディ様は測定結果を確認し、アルベルト様とミナト、キリアンもその場で待っている。
「めまいや吐き気はありませんか?」
「ありません。大丈夫です!」
「闇の魔力の反応も消えてるよ。翼の方も、記録上は異常なし」
「こちらでも確認できました。身体の状態に問題はありません」
アインス様がようやく息を吐いた。
「解呪は成功です」
「……よかった!」
安心した途端、嬉しくて笑ってしまった。もうウサギではない。言葉も話せるし、両手で物を持てる。
「アインス様、ルディ様、本当にありがとうございました」
「いえ。無事に戻れてよかったです」
「ほんとに無事戻れて良かったよ! しかもこれって、ものすごい発見だよ! 今後色々と応用できるしお礼が言いたいのはこっちだよ!!」
ルディ様も嬉しそうに笑っていた。
「本当によかった」
アルベルト様が安心したように言った。
「本当にご心配かけてしまってすみません」
「いや。無事に戻れたならそれでいい。今日は無理をしないようにな」
「はい!」
ミナトもほっとした顔で笑っている。
「いやー、マジで一生ウサギだったらどうしようかと思ったわ」
「ほんとに! 私もどうしようかと思ってた!」
「でも、羽付きはちょっと楽しかったんじゃない?」
「……ちょっとだけ!」
「あはは! 楽しかったんじゃん!」
「飛ぶのは楽しかったの! 翼がずっと残るのは困る!」
思わず言い返すと、みんなが笑った。
「リナ」
キリアンが近づいてきた。
「無事に戻れてよかった」
「ありがとう!」
そう答えると、キリアンが嬉しそうに笑った。
「声が聞けるの、久しぶりだね」
「うん! やっと普通に喋れる!」
私もつられて笑った。
「リナ、念のため、今日は安静にしていてくださいね。しばらく問題がなければ、普段の生活に戻れます」
アインス様に言われて、もう一度頷いた。
◇
しばらく様子を見てもらい、身体に問題がないことを確認してから、帰ることになった。
「リナ、今日はどうする? コーヒー飲みに来る?」
キリアンが声をかけてくれた。
「あ、うん! 約束してたもんね! 行くよ!」
「うん。やっと飲めるね」
キリアンが笑う。
みんなに挨拶を済ませて、団長室を一緒に出た。
昨日まではキリアンの腕の中から見ていた廊下を、今日は隣に並んで歩いている。いつも通りの目線の高さが、なんだか嬉しかった。
仕事の話をしながら、キリアンの部屋へ向かった。
◇
部屋へ入ると、キリアンはいつものようにコーヒーの準備を始めた。
「そこに座ってて。今淹れるね」
「ありがとう」
コーヒーミルで豆を挽く音がする。昨日も同じ音と香りを楽しんでいたけれど、今日は私も一緒に飲める。豆を挽くところを見ていると、なんだか自分でも使ってみたくなった。
(……やっとだ)
キリアンが淹れてくれたコーヒーをひと口飲むと、ほどよい苦みのあとに、あの香りがふわっと広がった。
「……おいしい!」
「でしょ? やっと一緒に飲めたね」
「うん! ずっと楽しみにしてたの」
「リナも気に入った? よかったら、今度買ってきてあげようか?」
「うん! お願いしてもいい?」
「了解。あ、オレの好きなお菓子もあるんだけど、食べる?」
「食べる! ありがとう」
キリアンが笑いながらお菓子を出してくれた。
「いただきます」
ひと口食べると、ほどよい甘さがコーヒーによく合う。
ただ淹れてもらうのも嬉しいけれど、今度は私も何か作って持ってこよう。キリアンの好きなコーヒーと、自分の作ったお菓子を一緒に楽しめたら、きっと楽しい。
キリアンがコーヒーを飲みながら笑う。
「なんか、ちゃんと返事があるって新鮮だね」
「あはは。そうだよね。2晩も一緒にいたのに、私ずっと『きゅ』しか言ってなかったもん」
「でも、結構分かってたでしょ?」
「うん。びっくりするくらい」
「それならよかった」
そう言って笑うキリアンを見ながら、私も笑った。
言葉が話せるって、やっぱりいいな。こんなふうにお礼も言えるし、次に一緒にしたいことも話せる。
もうひと口飲んでから、昨日聞いた昔話を思い出した。
「そうだ。昨日の続き、聞いてもいい?」
「どれだろ。前第四部隊長の話かな?」
「うん。そう! キリアンが、あの人みたいな騎士になりたいって思った出来事。気になってたんだ」
「うん、じゃあ話そうか」
キリアンはカップを置き、少し懐かしそうに笑った。
「オレが12歳くらいの頃かな。父さんと兄さんが商会の荷物を運びに行ったまま、予定の時間になっても帰ってこなかったことがあってね」
「えっ。何かあったの?」
「その時は分からなかったんだ。いつもなら知らせが来るのに、それもなくて。家族みんなで心配してた。何かあったのかもって、オレが連絡したらローレンツさんが来てくれたんだ」
父親の幼馴染で、当時は第四部隊長だった人。昨日の話では、キリアンに小さい頃から魔法を教えてくれていたという。
「それでローレンツさんが探しに行ってくれることになって、オレも一緒に行きたいって頼んだんだ。最初は危ないから駄目って言われたんだけど」
「そうだよね。まだ12歳だったんでしょ?」
「うん。でもあの頃には、空を飛ぶのはかなり得意だったから。細かい魔力の扱いも、ずっとローレンツさんに教わってたし。どうしても行きたいってお願いしたら、目の届くところから離れない、危険ならすぐ引き返すって約束して、連れていってもらった」
(12歳で、もうそんなに飛べたんだ……)
この前、私が翼で飛んでいた時にも、キリアンは風魔法の使い方をすぐに教えてくれた。自分で飛ぶことにも、昔から慣れていたのだろう。
「ローレンツさんは風魔法で遠くの音を集められるんだ。街道に沿って飛びながら、馬の足音や人の声が聞こえないか探してた。でも、なかなか見つからなくてね」
「……心配だったね」
「うん。途中で道が分かれた時、朝の父さんの話を思い出したんだ。今日は荷物が重いから、帰りは坂の少ない川沿いの道を通るって」
「あ、それで!」
「ローレンツさんがそっちへ向かってくれたんだ。少し進んだところで、遠くから何かがぶつかり合うような音がかすかに聞こえた。ローレンツさんが風で音を集めたら、魔獣の唸り声と、魔法が弾ける音だった」
キリアンは少し言葉を切った。
「馬車が横倒しになってて、父さんと兄さんがハイエナの魔獣の群れに襲われてた。二人とも怪我をしてて、魔法で応戦してたんだけど、数が多くて押されてたんだ」
「……っ。無事だったの?」
「うん。ローレンツさんがすぐに前へ出て、魔法であっという間に魔獣たちを倒してくれた。すごくかっこよかったよ。……オレは、父さんたちの姿を見た途端に頭が真っ白になっちゃってね。あれだけ魔法を教わってたのに、見てるだけだった」
いつも落ち着いていて、人の様子によく気がつくキリアンにも、そんな時があったのかと思った。
「……それは、怖かっただろうね」
「うん。でも、ローレンツさんは、オレが父さんの話を覚えていたから見つけられたんだって言ってくれたよ。魔法がうまく使えるだけじゃなくて、普段から人の話を聞いて、よく見ていることも大事なんだって」
キリアンは少し照れたように笑う。
「それから、こんなことを言ってくれたんだ」
「キリアンは俺以上に騎士団に向いてると思うよ。お前は優しいし、人のことも見てる。いつかお前と一緒に働きたい」
「…………」
子どもの頃から憧れていた人が、そんなふうに自分のことを見ていてくれたんだ。
「……嬉しかっただろうね」
「うん。すごく。あの時、ローレンツさんみたいに誰かを助けられる騎士になりたいって、本気で思ったんだ。それからは、もっと魔法を教えてほしいって頼んで、ずいぶん特訓したよ」
そうして積み重ねてきた練習が、今のキリアンの魔法につながっているのだろう。
「でもローレンツさんは父さんに、また怒られちゃってさ。『助けてもらったのはありがたいが、それとこれとは別だ!』って」
「あはは! お父さん、やっぱり商会を手伝ってほしかったんだね」
「そうなんだよ。オレも商会の仕事は好きだったけどね」
笑いながら話すキリアンを見て、昨日聞いた、お父さんとローレンツさんのやり取りを思い出した。どちらもキリアンの将来を楽しみにしていたんだろうな。
それでも、最後に騎士になる道を選んだのはキリアン自身だったのだ。
「すごくいい話だね。聞かせてくれてありがとう」
「うん。今度はリナの話も聞きたい」
「うん。次は私の番ね。子どもの頃の話でもしようかな」
私は、一人っ子で両親にかわいがってもらって育ったことや、ゲームが好きだったことを話した。
水色やキラキラした小物が好きなこと、おやつ作りが好きなことも。
果物も昔から大好きで、ウサギの間にいろいろ用意してもらえたのが嬉しかったと話すと、キリアンは楽しそうに笑っていた。
途中でキリアンがコーヒーをもう一度淹れてくれた。
コーヒーの香りの中で、気づくとずいぶん話し込んでいた。そうしているうちに、そろそろ帰る時間になっていた。
帰る前に、この数日間のお礼をきちんと伝えたかった。
「あの、キリアン。改めて言わせてね。ウサギの間本当にずっとありがとう」
「全然。リナの方が大変だったでしょ」
「そんなことないよ。ご飯も用意してもらったし、トイレのお世話までしてもらって」
ダンジョンから連れて帰ってくれて、言葉が話せない私が困らないように、いろいろ考えてくれた。キリアンの部屋で過ごした2晩も、私が嫌がることはしなかった。
「ずっと、困らないようにしてくれて本当にありがとう」
「ふふ。どういたしまして」
「キリアンがいてくれてよかった」
そう口にすると、キリアンが一瞬こちらを見た。
「……そっか」
それから、いつものように笑ってくれた。
「本当に迷惑かけてごめんね」
「だから、迷惑じゃなかったって」
キリアンが笑う。
「オレは楽しかったけど」
「そうなの?」
「うん。可愛かったし」
「あはは。ウサギだったもんね」
キリアンも笑った。
「でも、本当に怖かったんだよ。最初の解呪ポーションも効かなかったし」
「うん」
「もしこのまま戻れなかったらどうしようって、ずっと思ってた」
そう言ってから、ふと最初の夜のことを思い出した。
『このまま一緒でも、オレは全然いいけどね』
あの時、キリアンはそんなことを言っていた。
「キリアン、最初の日にさ、このまま一緒でもいいって言ってたでしょ?」
「ああ、言ったね」
「あれさ、もし私が本当に人間に戻れなかったら、どうするつもりだったの?」
半分は冗談だった。
きっと、あの時と同じように笑って言い返してくれると思って聞いた。
「一生面倒見る気だったよ」
「…………」
思わず、キリアンの顔を見る。
「……一生?」
「うん」
「ウサギの私を?」
「そう」
「ずっと?」
「ずっと」
キリアンは当たり前のことのように答えた。
「ずっと、リナといたんじゃないかな。だって放っておけないでしょ」
「…………」
その言葉を聞いて、なんだか急に顔が熱くなった。
たぶん、キリアンにとっては本当に自然なことなのだ。
この2晩、いつだって私がどうしたいかを大切にしてくれた。だから、今の言葉も冗談には聞こえなかった。
(……一生って)
キリアンなら本当にそうしてくれたと思う。でも、簡単に受け取れる言葉じゃなかった。
「……リナ?」
「え?」
「どうしたの? 顔赤いよ」
「だって!」
「だって?」
「そんなこと言われたら、うれしくない人いないよ!」
「あはは! かわいい!」
キリアンが楽しそうに笑う。
私はなんだか恥ずかしくなって、目の前のコーヒーに口をつけた。
「……もう、からかわないでよ」
「からかってないよ?」
「もう!」
「あはは!」
残りのコーヒーを飲み終えて、私は帰る支度を始めた。
◇
帰りは、キリアンが女性職員寮の近くまで送ってくれた。
「じゃあ、また明日」
「うん。また明日!」
手を振って、寮へ向かう。
キリアンも、いつものように反対の方向へ歩き出した。
数歩進んだところで、なんとなく振り返る。
すると、キリアンもちょうどこちらを振り返ったところだった。
「あ」
目が合って、お互い少し笑った。
もう一度手を振ると、キリアンも笑って手を振り返してくれた。
人間に戻れて、本当に良かった。
それなのに、昨日までならこのままキリアンと一緒にいたんだと思うと、ほんの少しだけ寂しかった。
そして胸の奥にはまだ
『一生面倒見る気だったよ』
その言葉が、ずっと残っていた。




