36.幕間 冷静な副団長と、少し特別な事務官
遠征から戻ってから、ふとした瞬間に何度も思い出す。
炎が水を抜け、リナの右肩から腕を焼いた、あの瞬間を。
被弾した時は、肝が冷えた。
リナに直撃していたら、死んでいただろう。
あの時は考えるより先に身体が動いた。魔法が不安定になり落下するリナを受け止め、火傷の状態を確認し、回復魔法をかける。
傷の深さを見極める。治療する。周りの動きを把握する。
やるべきことはいくらでもあった。
冷静でいるしかなかった。
けれど、治ったから問題ないとは、どうしても思えなかった。
痛かっただろう。
怖かったはずだ。
それなのに、本人は自分のことで精一杯になっても仕方のない状況で、自分を責める者たちが気に病まないよう、何度も言葉をかけていた。
あの姿には、胸を打たれた。
リナは、最初からそういう人だったのかもしれない。
初めて会った時は、正直なところ警戒していた。
団長が見回り先から連れ帰ってきた、身元の知れない異世界の女性。
当時、次の事務官には一日でも早く来てもらいたいと思っていた。
前任の事務官が突然来なくなってから、団長室の事務処理には私もマティアスも手を貸していた。
事務官一人分の仕事を団長と私とマティアスの3人で分担し、それぞれの通常業務に加えてこなしていたのだ。
前任者も、決して仕事ができなかったわけではない。ただ、処理が追いついていないことを言い出せないまま、一人で抱え込んでしまったのだろう。
何も言わず突然来なくなった彼を、団長が責めることはなかった。
だから、後任は早く決まってほしかった。
あの日、団長と彼女の処遇について話し、執務室へ戻ってみれば、机の上を埋め尽くしていた書類の半分が綺麗に整理されていた。
分類だけではない。計算の間違いまで見つけていた。
あの時は随分驚いたものだ。
その仕事ぶりを見て、団長は彼女を騎士団で雇うことを提案した。私も、事務能力そのものに異論はなかった。
ただ、仕事ができることと、信用できる人物かどうかは別の話だ。
異世界人については、まだ分からないことも多い。無害そうに見えるからといって、それだけで警戒を解く理由にはならない。
その後もリナは仕事を抱え込むのではなく、書類を整理し、手順を整え、誰でも分かるように変えていった。
気づけば、以前より余計な確認も差し戻しも減っていた。
優秀な事務官だ。
最初は、それだけだった。
魔法を教えることにしたのも、本人が望んだからという理由だけではない。
近くで接し、どのような人間なのかを見ておきたいという気持ちも、少なからずあった。
害のない人間なのか。
信用してもいいのか。
けれど、教え始めてからは、また少し印象が変わった。
教えたことを素直に聞き、分からないことはそのまま尋ねる。そして、理解すれば驚くほど早く自分のものにしてしまう。
こちらが予想した以上の結果を出して、本人だけが何がすごいのか分かっていないことも多かった。
教えていて、面白かった。
何かできるようになるたび、嬉しそうに笑う。
褒めれば素直に喜び、何かを渡せば、何度も礼を言う。
そういえば。
以前、彼女に贈ったペンも、今でも毎日のように使っている。
別に、使うよう頼んだわけではない。
使いやすいから使っているだけかもしれない。
それでも団長室へ入った時、彼女の手元に見覚えのある水色のペンを見つけると、少し嬉しかった。
市場へ出た時もそうだった。
見慣れない食材や品物を見つけるたびに目を輝かせ、あれもこれもと買い込み、後になって買いすぎたと困った顔をする。
あの時は、ただ微笑ましいと思っていた。
……いや。
今思えば、可愛いと思っていたのかもしれない。
そんな自分を、不思議に思ったことはなかった。
女性の事務官が身近にいること自体が珍しい。魔法を直接教える相手もそう多くはない。
だから、多少気にかけるのはこんなものなのだろうと、深く考えもしなかった。
団長がリナを特別に気にかけていることには、ずっと前から気づいていた。
街へ出れば贈り物をしようとし、遠征となれば必要以上に心配する。
正直、心配しすぎだと思ったことも一度や二度ではない。
けれど。
あの炎がリナへ向かった瞬間。
自分の中から血の気が引く感覚を、私は確かに覚えている。
無事だと分かった後も、安心しただけではなかった。
もう二度と、あんな目に遭わせたくないと思った。
そこまで考えて、私は小さく息を吐いた。
……どうやら、私も団長と同じだったらしい。
恋だと呼ぶには、まだよく分からない。
ただ一つだけ、今なら分かる。
リナはもう、私にとってただの優秀な事務官でも、興味深い魔法の生徒でもない。
他の誰かより、少しだけ。
特別な人になっていた。




